福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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1月2日 ≪降誕節第2主日/新年礼拝≫ 『永遠の希望』ヨハネの黙示録21章1〜7節 沖村裕史 牧師 - 小倉東篠崎教会

1月2日 ≪降誕節第2主日/新年礼拝≫ 『永遠の希望』ヨハネの黙示録21章1〜7節 沖村裕史 牧師

≪説 教≫

■過去に縛られて

 元旦を迎え、わたしたちは、家族や親類、友人と新年の挨拶を交わし、おせちやお雑煮を食べ、新しい年の始まりを祝います。そんな心浮き立つ元旦に、芥川龍之介がこんな一句を詠んでいます。

  元日や 手を洗ひをる 夕ごころ

 賑(にぎ)やかな元旦も何とはなしに気忙しく、ふと気づくと外は夕暮れ。祝いの喧騒からひとり離れ、芥川は、穏やかな気持ちで手を洗っているのでしょうか。ほっとした気持ちと少し疲れた心を、「夕ごころ」と表現しています。静かな憂愁の漂う新しい年の夕べを、ひとりしみじみと噛みしめる一句です。

 しかし、わたしたちの新年はと言えば、芥川のように洗うようにして心が新しくされる時というわけには、なかなかいかないようです。高桑闌更(たかくわらんこう)という、松尾芭蕉の句風を受け継ぎ発展させた俳人が詠っています。

  正月や 三日過ぐれば 人古し

 新年を迎えて感慨も新たに、「今年こそは」と目標を立てたものの、正月も三が日を過ぎると正月気分も薄れ、そんなことも忘れてしまう。いつのまにか、いつもと何も変わらぬ日常生活に戻っている。高桑は、「新しく」変わることなく、「古い」ままでいる自分を自嘲気味に揶揄(やゆ)しているようです。

 「新しい」年のその始まりに「人古し」とは、なんとも皮肉な言葉ですが、高桑の言葉は、わたしたちの生き様、時間感覚を言い得て、妙です。

 わたしたちの「新年」は、賑やかさと喧騒の中に毎年のように巡り来て、そしてまた、いつものように過ぎ去って行きます。その「新しさ」は、確かに、昨日とも去年とも違うものかもしれません。しかし、年毎にさほど異なるものでもないようです。春夏秋冬、四季が巡るように、わたしたちの新しい年、新しい時々は、何の変哲もなく「同じように」やってきて、「同じように」過ぎ去っていく。それは、日本的な無常観、ただぐるぐると回りめぐるだけの円環的な時間感覚と呼んでいいものかもしれません。

 そうした感覚に慣れ親しんでいるわたしたちの「今」は、とりわけ「明日」という時間は、新しい「時」としてよりも、むしろ、過去につながれた、過去が積み重なり、堆積された「時」として意識されがちです。わたしたちの現在や未来は、過去から説明され、過去を通して理解され、過去に基づいて決定され、過去に縛られ、そして過去に支配されることになります。温故知新と言えばまだしも、「あんなことがあったから、今こうなんだ」「今こんな状態だから、明日もきっとこうにちがいない」「あのこともこのことも忘れられない、いや決して忘れるものか」ということになりかねません。

 弟子たちも、盲目の人を前にイエスさまに尋ねました。

 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:2)

 人間は弱い存在です。わたしたちは、自分たちの苦しみや悲しみを、それが大きければ大きいほど、その原因を探し出してきて、時に過去の出来事によって、時には過去にいた人に結び付けて、その理由を説明することで、苦しみや悲しみを受け入れ、納得しようとします。ところがそうする時、わたしたちは逆に、消し去ることのできない過去に囚われ、縛られて、「だからもう駄目だ」「どうしようもない」と出口のないところへと自身を追い込み、苦しみや悲しみをより深刻なものにしてしまいます。消し去ってしまいたい、しかし拭い難い過去に支配され、「自分はどうしようもない者だ」「あのことさえなければ」「あの人さえいなければ」と自分も他人をも否定する罪に囚われ、そこから抜け出せずに、もがきます。それが罪なのは、そんな時にも、いえ、そんな時にこそ、愛の神様が共にいてくださることを見失っているからです。

 

■見たことも聞いたこともない

 今朝、わたしたちに与えられたヨハネによる黙示録の言葉には、それとは全く違う「新しさ」、生き様、時間感覚が指し示されています。

 冒頭、「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」にある、「新しい」という言葉は、単に「新旧の新」 ‘new’ ではなく、 ‘unheard of’ または ‘unknown’ 、つまり「見たことも聞いたこともない」「誰も知らなかった」、そんな新しさのことです。

 それは「過去の延長上」にある新しさではありません。過去と完全に断絶した、過去の出来事とは何の関わりもない、「全く新しいもの」です。ですから、以前あった天地、つまり創世記の冒頭で最初に造られた今の世界はもはや過去のものとなり、神様と人とを隔てる罪の象徴であった、あの「カオス、混沌」としての海もどこにもない、と言います。聖書の最後を締めくくる今朝の言葉は、過去と何のつながりもない、過去に囚われることもない、罪から解き放たれた、全く新しくされた世界を描いて見せます。

 著者ヨハネが、この全く新しくされる世界が立ち現れることを描くことによって、わたしたちに伝えようとしていることは、一体何なのでしょうか。終末の世界についての印象深いイメージでしょうか。それとも、わたしたちの人生や信仰のための、もっと具体的な何かを告げ知らせようとしているのでしょうか。結論から申し上げれば、後者の、より具体的なメッセージです。

 1節にある「わたし」とはもちろん、この黙示録を書いた預言者ヨハネのことです。ヨハネは、ローマ皇帝ドミティアヌス在位の最後の時、おそらくは紀元95年か96年にこの文書を書いています。今、「文書」と申しあげましたが、より正確には「手紙」です。2章から3章に出てくる、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアという、小アジア―現在のトルコにあった七つの教会宛てに書かれた手紙です。つまりこの黙示録は、不特定多数の読者によって読まれることを期待して書かれた一般的な文書ではなく、具体的な情況の中にある、個別の相手に向かって書き送られた手紙―使信なのです。

 したがって、この黙示録の中に描かれる理解しがたい描写や特異な表現も、この手紙の受取人である教会の人々にとっては、何の説明や注釈がなくとも理解することのできる、とても具体的なものでした。ここに描かれていることは、手紙を受け取った人たちにとって何の関わりもない、遠い未来の出来事を予告する「予言」ではなく、あくまでも聖書で使われている字句通り、神様から「預けられた言葉」―差し迫った現実の出来事の中に隠されている、見えざる意味、神様のみ心について告げ知らせる「預言」でした。

 では、七つの教会の人々が直面していた、差し迫った現実とはどのようなものだったのでしょうか。それは「迫害」です。

 ローマ皇帝ドミティアヌスは公の場に出るとき、群衆に「我が王と皇后様とに万歳」と叫び迎えるよう求めました。「我が王」の「王」とはキュリオス、クリスチャンが「主イエス」と告白する時の「主」と同じ言葉です。また、皇帝に口頭や書面で何かを申出る場合には必ず、「主であり神である」と始めなければなりませんでした。多神教が主流の世界の中にあって、唯一の神を信じるクリスチャンは皇帝崇拝と真っ向から対立せざるを得ず、信仰に生きることが死を意味するほどの、苛烈な迫害を受けることとなりました。日常生活でも、スキャダラスな誤解と中傷を受け、そればかりか、ユダヤ教徒からは異端として会堂から締め出され、密告や集団リンチの危険に晒されていました。

 こうした、政治的迫害と日常的な中傷、信仰共同体からの疎外という情況の中で、筆舌につくしがたい苦難の中にいる教会の人々に、ヨハネは、歴史の終末における神の勝利、神の国の完成が、今ここに、もう間近に迫っているという福音を告げ知らせようとしたのでした。ヨハネの黙示は、周囲が真っ暗な深い闇にしか見えないような状況の中で、恐ろしい苦難を必死に耐え忍んでいた、当時の人々にとって、どれほど大きな慰めであり、希望であったことでしょうか。「新天新地」が、見たことも聞いたこともない全く新しい世界が、自分たちの前にひらけ、「目の涙がことごとく払われる」という約束に、どれほど大きな励ましと希望を与えられたことでしょうか。

 

■見えざるものを待ち望む

 当時の人々だけではありません。誰の人生にも、いつも敵はいて、苦しみや困難は迫りくるものです。そこにこそ、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)というイエスさまの祈りが聞こえてきます。パウロもまた、主にある希望について語っています。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」(エフェソ5:8)。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(ローマ8:24-25)と。

 弱さや悲しさから目を背けずに、そのことをまっすぐに見つめようとする人にとって、今を生きていることの誠実さ、真実とは、希望を持って耐え忍び、見えざるものを待ち望むことです。どんな人にも、人生の夜は訪れます。その闇の中で、例えば、ユダは裏切り、ペトロは拒絶しました。その直後のことでした。イエスさまの深い眼差しに触れたペトロは、外に出て激しく泣きました。裏切った自分を受け入れることのできないままに首を吊って死んでしまったユダに対し、ペトロはその深い慟哭の中でしかし、イエスさまを裏切ってしまった自分に精一杯に耐えました。

 「愛は忍耐強い。……すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(1コリント13:4-7)とパウロが言う時、彼は、自分も人も含めて、愚かさを、弱さをもありのままに受け入れようとする忍耐こそ、「愛のもう一つの名前」なのだ、そう言っているのではないでしょうか。

 「神は自(みずか)らを試みようとする人には姿を隠す。そうではなくて、本当に心の底から呻きつつ神を求める人には自ら姿をあらわす」とパスカルの言葉にあります。そしてその時にこそ、3節から4節、「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」に違いありません。

 旧約の詩人も、「いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう」(詩編84:6-7)と歌います。「嘆きの谷」とは「涙の谷」のことです。神様がその恵みによって、人の涙を泉に、いのちの泉に変えてくださるのだ、と歌っているようにです。

 

■初めであり、終わりである方

 ヨハネによる福音書に描かれた「イエスとサマリアの女」の物語も、そのことを鮮やかに示しました。世を憚る暗い生活を過ごしていた一人の女性とイエスさまとが出会いました。イエスさまは、絶望の中に硬直していた女性の渇く心身を癒し、その涙を拭い、彼女に尽きることのない生命の水を与えられました。まさに、6節にあるように「命の水の泉から価なしに飲ませよう」です。「価なしに」というギリシア語の語源は、賜物、贈物です。賜物、プレゼントは、無償で、功績なしに、一方的に与えられるものです。

 そして、そのような無償の愛と恵みを賜る方こそ、「アルファであり、オメガである方」なのです。「初めであり、終わりである」と繰り返されるこの言葉は、愛と恵みの神様が、万物を創造し、わたしたちにこのいのちを与えてくださった方であり、わたしたちの有限な時間を越えて無限の時間を支配される方である、という意味の言葉です。これこそ、ヨハネのメッセージの中心です。

 であればこそ、「価なしに」いのちの水を与えてくださる神様は、わたしたちの業績や富、地位や名誉、性別や年齢、病いや障害の有無に関わりなく、3節、「神は人と共に住み、人は神の民となり、神は自ら人と共にいて、その神となってくださる」のです。

 過去の出来事や今の状況の中で、耐え難いほどの苦しみや悲しみを味わう時、わたしたちは、過去から全く新しくされることによって初めて、現在と未来に希望を抱くことができるのではないでしょうか。逆を言えば、わたしたちはそのように新しくされることによって初めて、本当の意味で過去からも、自己卑下という罪からも自由にされ、新しいいのちを生きる喜びに満たされるのです。

 自分が「新しくなった」とそう思いさえすれば、新しいいのちを生きる喜びに満たされることができるのかというと、事はさほど簡単でありません。自分の過去と訣別し、自分に起こった、あるいは起こっている様々な出来事から簡単に自由になることができるのであれば、誰も苦しみや悲しみに引き摺られることなどありません。困難や労苦は、わたしたちの行いや力を越えたところからやってきます。平安やいのちは、わたしたちの社会的な地位や名誉、富や業績によっては保障されませんし、わたしたちの用意周到な細心の注意や善行や勤勉さによってでさえ確実ではないということを、わたしたちは経験的に知っています。自分の力で、新しい者となることなど誰にもできないでしょう。

 だからこそ、わたしたちを超える、愛と恵みの神様によって初めて、全く新しい者とされる希望と喜びに生きることができるのだというこの「真実」を謙虚に見つめつつ、たとえどれほどの苦難が待ち受けようとも、また「正月や 三日過ぐれば 人古し」と自嘲の呟きが漏れそうになるときにも、ただひたすら永遠の神を仰いで、着飾った花婿・花嫁を迎えるような「希望」を持って、新しい年を共に祝い、共に新しい年を歩み続けたい、心からそう願う次第です。