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1月22日 ≪降誕節第5主日礼拝≫『ぎゅっと抱きしめて』ルカによる福音書5章12~26節 沖村裕史 牧師 - 小倉東篠崎教会

1月22日 ≪降誕節第5主日礼拝≫『ぎゅっと抱きしめて』ルカによる福音書5章12~26節 沖村裕史 牧師

 

■今ここに神の国が

 言葉というものはなかなかに難しいものです。人と人とが生きていくために、コミュニケーションの手段としての言葉は欠かせないものですが、言葉ほど曖昧で、厄介なものもありません。「目は口ほどにものを言い」と言われるように、愛し合う二人にとっては、むしろ邪魔になることもあります。また言葉でしくじることも、しばしばです。

 昔からわたしには悪い癖があります。意見が衝突し、感情が昂じて、言い争いになって収拾がつかなくなっている人たちを見ると、つい「まあ、まあ」と仲裁に入ってしまうのです。よく言えば平和主義者、悪く言えば事なかれ主義のわたしにしてみれば、感情むき出しの争いごとや周囲を緊張させる対立は、耐えがたい苦痛でした。良いも悪いもありません。「まあ、まあ」とその場を収めようとしてしまうのは、相手のためである以上に、自分の緊張を和らげるための、止むにやまれぬ行為でした。

 もっとも、この曖昧な「まあまあ」という言葉で、宥(なだ)められたりすることもあれば、かえって人を怒らせることもあって、止せばよかったと思うこともあります。他にも「そのうち」「多少遅れます」「多分大丈夫でしょう」「結構です」「のちほど」「~と思います」「考えておきましょう」などなど、はっきりしない言葉遣いは、確かに誤解やトラブルの元になることもありますが、そこにはまた、言い表せないものも隠されているように思えます。

 そんな曖昧な言葉が、ここにも出て来ます。イエスさまによる二つの癒しの出来事が記されていますが、実はそのいずれもが、まったく同じギリシア語で書き始められています。「カイ エゲーネト」という言葉です。場面の移動や物語の展開を示す慣用的な表現ですが、曖昧な言葉で、特別な意味を持たないものとして、日本語の聖書では翻訳されていません。あえて訳せば、「さて」「ところで」となるでしょうか。

 この二つの出来事の冒頭に、その「カイ エゲーネト」という言葉が使われています。しかも、同じ出来事を記しているマタイとマルコの福音書にはない言葉です。ルカだけがある意図を持ってこの言葉を使っている、そう考えることができます。その意図とは何か。ルカは、この二つの癒しの出来事は別々のものではなく、大切な、ひとつのメッセージを伝えている、そう考えているのではないでしょうか。

 この「カイ エゲーネト」を英語に直訳すれば、“And it became.”となります。そのままに訳せば、「そして、それは起こった」です。何が起こったのでしょうか。この二つの癒しは、イエスさまがペトロたちを召して最初の弟子とし、一緒に福音を宣べ伝え始めた、その直後に起こった出来事です。とすれば、「そして、それは起こった」とは、イエスさまが宣べ伝えられた「福音が現実のものとなった」ということを意味することになりはしないでしょうか。

 二つの癒しの出来事を、イエスさまが宣べ伝えられた福音の成就として受けとめ、「神の国が近づいた」と言われたそのことが、今ここに現実のものとなっている。「神の国はもうここに来ている」「神様の愛の御手は今ここに差し出されている」という、その福音にしっかりと耳を傾けて欲しい。ルカはそう語りかけているのではないでしょうか。

 

■千切れるほどの愛

 では、わたしたちの目の前に現実のものとなっている神の国とは、どのようなものなのでしょうか、どのようにして起きるのでしょうか、そしてそのことは、わたしたちに何を教えてくれているのでしょうか。

 ふたつの言葉に注目して、お話しをしたいと思います。ひとつは、13節の言葉です。

 「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った」

 誰でも病気になります。体の病気ばかりではなく、心の病気になることもあります。いずれであれ、病にかかることはよくある、ごく当たり前のことです。自然なことですが、病は本人にとってはもちろん、家族にとっても重い負担となることがあります。当時のユダヤにも、病ゆえに地域社会から、家族からも見捨てられ、つまはじきにされて絶望し、苦しんでいるたくさんの人たちがいました。病は、その人の罪ゆえ、罪の穢れゆえだと信じられ、病人に触れることさえ禁じられていたのです。その戒めを守らず、病人に触れた人は、その人自身もまた罪穢れると言われました。

 しかしイエスさまは、はっきりと言われます。「よろしい。清くなれ」と。

 この言葉を原文に忠実に訳せば、「わたしは願う(、あなたが救われることを)。それがわたしの心だ。神によって清くされよ、そしてまた人々によって清いものとして受け入れられなさい」となります。それは、「よろしい」といった言葉から感じる、上から目線で与えられるような救いではなく、その人の苦しみと悲しみに寄り添って、その救いをイエスさまが心から願ってくださっていることを示す言葉です。そしてそれは、その人を隔離し、切り捨てた隣人たちと共に生きるようにされることを心から願う、宣言でした。イエスさまはそう言われ、重い皮膚病に苦しむこの人を癒されました。

 病に苦しむ人を癒してくださったこの出来事から気づかされる第一のことは、イエスさまの憐れみ、神様の愛です。ここには記されていませんが、イエスさまが癒しのみ業をなさるときには決まって、「深い憐れみ」によってそうされたと記されます。同じ出来事を記すマルコ福音書には「深く憐れんで」とはっきりと書かれています。イエスさまが手を触れられたのは、この病人を憐れんでくださったからです。当時の人々が避けて通った病人のところを、イエスさまは避けて通られず、むしろ深く憐れんで、誰からも触れられることのなかったその人に触れるために、手を差し伸べられました。

 深く憐れむという言葉は、腸(はらわた)の痛むほどの思いという意味です。聖書では、腸は、わたしたち人間の生、いのちそのものを意味します。そして憐れみとは、愛と同じです。このときイエスさまは、全身を重い皮膚病に覆われて苦しむこの人を見て、心の奥底から、ご自身のいのちのこととして憐れみを抱き、その人のことを愛されたのだ、ということです。

 重い皮膚病の人も、中風の人も、このとき、耐え難いほどの痛みに、もうこの病は治らないのではないかという絶望的な気持ちでいたのだろうと思います。ただ病による苦しみだけでなく、その病ゆえに、家族からも社会からも見捨てられ、誰とも共に生きることも触れ合うことさえ許されないという、孤独、寂しさに苛まれていたことでしょう。時には、それでも神様だけはという淡い期待を抱き、時には、その神様からも見捨てられてしまったのではないかという絶望に心塞がれていたのではないでしょうか。

 イエスさまは、そんな苦しみの中にある人たちのことを思い、はらわたが痛むほどの思いをもって、憐れみと愛をお示しになりました。そして、「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」と記されています。それは、憐れんで、腫れ物に触るようにして触れ、同情を示されたということではありません。この人とひとつとなる、この人のいのちそのものに触れる、ということでした。

 

■ぎゅっと抱きしめてくださる

 迷子になったわが子が見つかったとき、わたしたちの誰もが、こどもがたとえどんなに汚れていても、ぎゅっと抱きしめることでしょう。そうせずにはおれません。ここにはイエスさまが抱きしめたとは一言も書かれてはいません。しかし、イエスさまが手を差し伸べて触れられるとは、まさにぎゅっと抱きしめられた、ということだったに違いありません。

 保育園がある教会にいたころのこと。日曜日の午後、卒園生の親から電話がかかってきました。小学5年生の息子が家出をして、今、そちらに向かっていると言います。聞けば、息子をきつく叱ったら言い争いとなり、怒って、つい「出て行きなさい」と言ったら、「出て行くよ」「行くったって、どこ行くのよ」「園長先生のとこ」となり、本当に荷物抱えて出て行ったとのこと。

 「そんなわけですから、そちらに着いたら、今夜は泊めてやってくださいませんか」と、母親はいまだ怒り収まらず、といった口調で言います。

 そこで、「とんでもない」とお答えをしました。

 「こどもが出て行ったら、追いかけて連れ戻すのが、親というものです。勝手にしろと追いかけて来てくれなかったら、どんなに寂しいでしょう。お子さんが着いたら連絡しますから、すぐに迎えに来てください。こどもはそれを見て、親は自分のことをこんなにも心配しているんだと、知るんじゃないですか」

 ところが、いくら待ってもその子は来ません。まだ十一歳になったばかりです。夜になって雨も降り始め、「まだ来ません」と電話すると、母親もさすがにあせり始め、友人宅に電話をかけまくり、駅付近を探し回り、ついには警察にも連絡することになりました。

 夜も更けたころ、ようやく保育園にその子が現れました。雨に濡れ、大きな荷物を抱えて。いつもは母親と車で来る保育園に初めて一人で来たので、電車を乗り問違えたうえに、乗り過ごして迷ってしまったと言います。

 すぐに母親に連絡すると、「ああ、よかった!すぐに行きます」と、すでに涙声です。ほどなく車で飛んできて、「心配したのよ」と泣きながら、息子をぎゅっと抱きしめました。

 その子にとって、かけがえのない体験になったことでしょう。母親とは、泣きながら追いかけて来て、ぎゅっと抱きしめてくれるものだと知ったのですから。この二人、次の日曜日の教会学校に照れくさそうな顔で来ていたので、この家出事件を説教ネタにさせてもらいました。「そのように、神様も一人ひとりのわが子を真心から愛し、心配し、泣きながら追いかけて、ぎゅっと抱きしめてくださるお方なのです」とお話をしたら、息子はうれしそうににっこり笑い、母親はまた泣いていました。

 病気の人に手を差し伸べて触れるということは、イエスさまも、その人たちと同じように罪穢れた者と見なされ、除け者にされるということです。どこか高みから、口先だけで「よろしい、清くなりなさい」と言われたのではありません。この人たちを罪の苦しみから解き放ち、罪から自由にするために、その罪と重荷、痛みと苦しみを自ら背負ってくださったのだ、ということです。

 いのちに触れるということは、十字架を担うということでした。それほどまでにイエスさまは愛してくださるのです。イエスさまは、罪穢れではなく、病気や生活でもなく、姿・かたちでもなく、神様から与えられたかけがえのない、この人のいのちそのものにだけ、まなざしを向けておられます。そのようにして、わたしたちのいのちそのものに、愛のまなざしを向けてくださるお方がおられるからこそ、わたしたちは癒やされるのです。救われるのです。

 イザヤの預言に「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ」とあるように、イエスさまは、わたしたちの罪も、痛みも苦しみも、そのすべてをご自分のものとして背負ってくださるのです。ここに、愛があり、癒やしがあり、救いがあり、そして神の国があります。

 

■信仰に先立つもの

 イエスさまの癒しは、重い皮膚病の人自身の信仰ゆえだ、としばしば言われます。もうひとつの出来事でも、中風の人をイエスさまの所に連れてきた友人たちの信仰のゆえに、清められ、救われたのだと記されています。信仰がなければ救われなかったのか、確かにそうとも言えます。でも、もっと大切なことは、この人たちの信仰に先立って、イエスさまがあわれみをくださった、イエスさまが愛してくださったのだ、ということです。

 信仰とは、わたしたちの知識や努力の結果ではありません。もっとはっきりと言うなら、信仰、それさえも神様からの賜物です。決まりごとや倫理的な規範を守り、法律や常識に従って、人から非難されることのない、いわゆる「立派な人間」として「清く正しい」生活を送ることが、信仰に生きるということではありません。仮にそうだとすれば、わたしたちは、律法学者やファリサイ派の人々が、病気の人たちを罪人として謂われのない苦しみに陥れたのと同じように、誰かを罪に定めて裁き、その罪を理由にその人の存在を、いのちを無視し、傷つけるという罪を平気で犯すことになるでしょう。

 そうではなく、わたしたちの信仰に先立って、イエスさまがわたしたちを愛していてくださっている、その愛への信頼と感謝、その愛に全幅の信頼をもって応えることこそが、まことの信仰です。もう一つの癒しの出来事で、中風の人をイエスさまのところに連れて行った人々の信仰に、イエスさまはこう応え、宣言されています。

 「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」

 この印象的な言葉が、ご一緒に味わいたいもう一つの言葉です。

 「あなたの罪は赦された」

 この言葉を皆さんはどうお聞きになったでしょうか。

 わたしたち人間はしばしば、罪ならぬものを罪であると考えます。病は罪・穢れのゆえ、だから、そのような人に触れてはならない。罪人、穢れている人と接してはならない。律法学者たちは、神様の深い憐れみ、神様の限りない愛を見失い、人の定めた正しさ、戒め、常識、思い込みに違反すること、それこそが罪だ、と考えました。しかし、イエスさまの語られる、そして聖書が記す罪とは、わたしたちへの神様の愛を信頼し、その愛にすべてを委ねているかどうか、という一点にあると申し上げてよいでしょう。

 中風の人を連れて来た四人の男たちは、イエスさまのところにさえ連れて行けば、もう後は必ずどうにかなるという、絶対の信頼をもってイエスさまのもとに来ました。その信仰を見て、イエスさまはそうして連れて来られた人に、「あなたの罪は赦された」と宣言されたのです。「もう大丈夫。神様が愛してくださるから、何の心配もない。今までどのように生きて来たとしても、神様はあなたを赦し、あなたを癒し、あなたを生かしてくださる」。イエスさまはそう宣言されるのです。

 律法学者たちはびっくりして文句を言いますが、期せずしてこの律法学者の文句が、イエスさまが神の国の宣言そのものであることを証ししています。

 「神おひとりのほかに、だれが赦しを与えることができるだろうか」

 まさしくイエスさまは、神の宣言、神の国の宣言、赦しの宣言そのものなのです。洗礼のときに、わたしたちはこの宣言を受け、すべての罪を赦されて、もうすでに神の国に入りました。それは、やがてくる本当のゴールの美しい先取りです。誰が先か後か、神様だけがご存知です。ですからわたしたちは、ころびながらも、時に情けない泣き言を言いながらでも、イエスさまの愛を胸に生き抜きたいと願います。

 時に人は、自分の過去がどうのこうのと、後ろ向きになります。もちろん反省はしなくてはいけませんが、いつまでも引きずっていると前向きになることができません。この驚くべき福音は、わたしたちを前に向かせてくれます。そして、赦しが、救いが今ここに現実のものとなっていると信じなさい、とぎゅっと抱きしめるようにして励ましてくれているのです。