■最初期の教会の礼拝スタイル
コリントの教会はパウロが開拓伝道で立ち上げた教会で、生まれてからわずかに数年ほどの教会でした。そのため礼拝堂もありません。わたしたちの教会の『百年史』によれば、日本メソヂスト教会によって小倉の地で福音伝道が始められたのは1885年でしたが、会堂が与えられたのはそれから19年後の1914年のことでした。その間、教会員や牧師が暮らす家の一室を使って礼拝が行われていました。コリントの教会も同じです。もっとも、教会員が急速に増えたので一つの家ではなく、複数の家に分かれて礼拝を行っていました。いわゆる「家庭集会」「家の教会」と呼ばれるものです。今も、この「家の教会」を重視する教会があります。個人の家を開放して少人数で聖書を学んだり、語り合ったりする、そういう小さな集会を大事にするためだと言います。大きな教会になると親密さが失われがちです。そうならないよう小さなスペースを大切にするのでしょう。
そうした家の教会では、食事を共にすることがとても大事だと言われます。食事を共にすることで、雰囲気が和み、いろいろなことを自由に話しやすくなるからです。コリントの教会も、家で集まって礼拝をした後、食事を取っていました。礼拝とその後の食事に続いて、主の晩餐が行われました。これだけ聞いても、当時のコリントの教会の礼拝スタイルが、わたしたちの礼拝とはかなり違っていたことが分かります。
そんな礼拝スタイルという意味で、わたしたちとコリント教会との大きな違いと言えば何といっても、礼拝の中で異言や預言を語るかどうかです。コリント教会では礼拝中に、自由に異言や預言を語る時間を持っていました。大切な点は、異言や預言を語るのは牧師とか宣教師といった特別な立場の人ではなく、普通の信徒たちだったということです。
預言は、わたしたちに分かる言語で、わたしたちであれば日本語で教会の内外の人々に神からのメッセージを語ることですが、異言というのは、わたしたちには意味不明の言語、神とその人との間で交わされる言葉です。天使の言葉とも呼ばれる、天上におられる神を賛美する言葉、それが異言です。
コリント教会では神の霊、聖霊の働きが非常に活発でした。聖霊は使徒と呼ばれる、神から直接遣わされた特別な人たちだけでなく、教会に集う人々全員に、何らかの聖霊による賜物が与えられている、と考えられていました。聖霊による賜物といってもいろいろあります。病をいやす力を与えられていた人もいました。しかし、礼拝に一番関係のある賜物は何と言っても、異言を語る賜物と預言を語る賜物でした。コリントの教会では、すべての信徒たちが礼拝中に、自由に異言や預言を語りました。
ところで今「自由に」と言いましたが、自由ならすべて良いかと言えば、そうとも言えません。今日の多くの教会では、長年守られてきた礼拝のスタイルというものがあります。司会者が礼拝の式次第に則って、一つ一つの決められた内容に従って礼拝が進んでいきます。これには安定感があります。そんな礼拝の途中で、式次第に書かれていないのに、突然、我も我もとだれかれなく立ち上がって、意味の分からない言葉で神を賛美し始めたらどうでしょうか。司会者はびっくりしてしまいます。礼拝の秩序が損なわれ、何か非常に混乱した礼拝になってしまった、そう感じる方も少なくないでしょう。
今日の話のポイントは、そうした自由な聖霊の働きとして異言や預言が語られる礼拝の中で、それがどうすれば混乱をもたらさず、むしろ秩序ある礼拝の一部となることができるのか、そういう問題を取り扱っています。
■あなたがたを造り上げるために
秩序正しい礼拝というと、式次第が完璧に出来上がっていて、その定められた手順通りに行われる礼拝をイメージされるかもしれません。しかし、パウロの求める礼拝は、安定はしていても形骸化しまいがちな今日の礼拝とはかなり異なったものです。会堂も式次第もなければ、牧師や司祭、長老や執事もいません。例外なく霊の賜物を与えられた信徒たちによって、霊による豊かな賜物が用いられる、相当に自由度の高い、音楽で譬えればアドリブにあふれたような礼拝スタイルでした。しかし、そのような自由の中にも、秩序が求められていました。自由と秩序の二つのバランスをどのように取るのか、それがパウロの考えていたことでした。まずパウロはこう語ります。
「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」
ここからも、当時の教会の礼拝が垣間見えてきます。まず礼拝で「詩編の歌をうたい」となっています。当時の讃美歌は、詩編に歌をつけるというのが一般的だったようです。これはユダヤ教から引き継いだものです。それから「教え」があります。これが説教に当たるものだと思われます。説教といっても、いくつかの家の教会に分かれて礼拝を守っていましたから、どの教会にもパウロやアポロのような専従の説教者がいたわけではありません。信徒の中のリーダー格の人が説教を行っていたのかもしれません。
しかし、わたしたちの教会の礼拝と決定的に異なるところは、その次です。「啓示を語り」とあります。黙示とも訳される言葉です。神がこれまで隠されてきたことが明かされる、という意味です。分かりやすく言えば、「預言を語る」ということです。そして「異言」が来て、「それを解釈する」と続きます。異言とは人間の言語ではないので、話している人以外には意味が分かりません。ですから異言は、人間の言語に翻訳される必要があります。異言とその解釈、解き明かしとはセットなのです。
こうした礼拝の中で行われる行為を列挙した上で、それらすべては、あなたがたを、あなたがたの共同体、教会を造り上げるためのものだ、ということをパウロは強調します。これが、パウロの言いたいことの中心です。預言や異言は、神の霊によってその賜物を与えられた人が自由に語ります。コリントの教会の礼拝は、パウロの言葉によれば、例外なく霊の賜物を与えられたすべての信徒たちによってなされる、文字通りの全員参加型の礼拝でした。しかしそれは同時に、礼拝の秩序を保つのが難しいということでもあります。なぜなら、司会者が礼拝の流れをコントロールできるわけでなく、信徒たちが自分勝手に、自分の賜物を誇るようにして、また予期せぬことを語り始めるかもしれないからです。
しかし、ここでパウロの求めている秩序とは、式次第通りに礼拝を進めることではありません。礼拝に求められる秩序とは、「キリストの体」である教会が造り上げられるためのもの、すべての人が与えられた霊の賜物を用いられることによって、互いに愛し合い、互いに受け入れ合い、互いに支え合うためのものでした。
■異言と預言
そこでパウロは、礼拝中の秩序を保つために、次のような指示を与えます。
「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい」
異言を語りたい人がたくさんいて、みんなが一斉に語り出せば、収拾がつかなくなります。そこで、異言を語るのは二人か多くても三人に限定し、しかも異言が語られる場合には、自分でその意味を解説する、もしくは他に解釈者がいなければならない、という基準を定めたのです。しかし自分で異言を普通の言葉に解釈できず、また他に適当な解釈者がいない場合は、黙っているようにとパウロは言います。
それがどんなに素晴らしい言葉であっても、語っている人以外に分からないような言葉であれば、礼拝の場に相応しくありません。パウロが直前の23節で「皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか」と言っている通りです。ですから、解釈できない異言は、公の場である礼拝では黙っていて、家に帰った後で自分だけで神に対して語りなさい、というアドバイスをパウロは与えるのです。
次いでパウロは預言についても語ります。異言は神に向かって語られますが、預言は神から人に向かって語られるものです。ですからパウロも、礼拝においては異言よりも預言の賜物を求めなさいと語ります。しかしその預言であっても、たくさんの人が礼拝中に自分勝手に語り出せば、礼拝は混乱してしまいます。そこでパウロは、預言の場合でも語る者は二人か多くて三人にしなさい、と命じます。それだけでなく、一人の人が長々と預言を語ることで、礼拝の時間を独占してしまうといったこともあったのでしょう、「座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい」と戒めます。
そうは言っても、神から啓示を与えられれば黙っているわけにはいかないではないか、と思う人もいるでしょう。しかしパウロは、礼拝の秩序の方を重んじ、たとえ多くの人に預言が与えられたとしても、語る者は二人か多くても三人にしなさい、一人で長々と語ってはならないと言います。
そうできる根拠として、パウロはこう諭します。32、33節、
「預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」
預言者の霊は預言者に服従する、預言の霊に圧倒されて語らないではおられない、ということにはならないと言います。預言の霊は預言者に従うのです。だから預言者が黙っておこうと決めたなら、たとえ預言が与えられても黙っていることは可能なはずだ、とパウロは言います。それは異言の場合も同じです。28節に、異言を「解釈する者がいなければ、教会では黙っていて」とあります。異言であれ預言であれ、それを語る人は黙っていることができるのです。パウロにとって、溢れるほどの霊によって賜物を与えられているとしても、それは、我を忘れた恍惚状態、興奮状態のことではありません。
■検討する基準
その意味で、29節に「他の者たちはそれを検討しなさい」とある言葉は大切です。みんなが分かる言語で話す預言の場合、解き明かしは必要ありませんが、それを検討、吟味する必要があります。預言が、本当に神からのものか、それとも、人の思いなのかをチェックしなさい、ということです。パウロはテサロニケの第一の手紙でも同じようなことを語っています。5章19節から21節です。
「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」
預言の霊だからといってすべて良い霊だとは限りません。ですから、霊が本当に神からのものなのか、信徒同士で互いにチェックしなさい、と指示します。ヨハネ第一の手紙4章1節にもこうあります。
「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」
では、どうやって確かめるのか。ヨハネは、神から来た霊は神の子であるイエス・キリストが人となって来られたと公に言い表すかどうか、これが判断基準になると言います。当時、イエスさまは本当は人ではなく、人に見えただけで本当は霊なる神だった、というようなことが言われていました。そのような間違った理解をもたらすような霊は神からのものではないと言います。その当時の問題を反映した一つの基準にすぎないのですが、これもまたとても大事な基準ではあります。
そしてここで、何よりもパウロが大切にしている基準は、31節です。
「皆が共に学び、皆が共に励まされるように」
「あなたがたを造り上げるために」、「皆が共に学び、皆が共に励まされる」預言であるのか、どうか、そのことを検討しなさい、吟味しなさいとパウロは強く求めるのです。
■すべての人に
そして、「一人一人が皆、預言できるようにしなさい」と続けます。これは、何人かの預言の賜物を持った人だけが預言をするのではなく、すべての信徒が預言することができるし、またそうしなさい、ということです。すべての信徒が聖霊を受けている以上、すべての人が預言できるはずなのです。
さてここで、この「皆」の中に女性が含まれるのか、という疑問が生じます。なぜなら、34節と35節にこう書かれているからです。
「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです」
こう言われてしまうと、預言の霊を与えられた女性は、礼拝中は黙らざるを得ません。しかし、パウロは11章5節に、「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に」と書いているように、女性が礼拝中に祈ったり、預言したりすることを当然だと考えています。これはどういうことなのでしょうか。この点については、本文批評という学問が役に立ちます。わたしたちの持っている聖書の最初に書かれた状態、つまりパウロの手紙の原本は見つかっていません。わたしたちはそれを書き写したコピーだけを持っています。しかし印刷機のなかった時代、手書きで写した場合、いくつかの違うバージョンのコピー、写本が生まれます。そのどれが原本に近いのかを研究するのが本文批評なのですが、その研究によれば、34節と35節はオリジナルの原稿にはなかった可能性が高いと言われています。パウロの原稿を写した写字生と呼ばれる人が、パウロの原稿に書き加えて、それがわたしたちに伝わっていると言います。確かに、33節から36節へと直接続けて読んだ方が、意味はよく通じます。ですから、女性は礼拝中に黙っていなさい、パウロがそう教えたとは思われません。
ではなぜ、ここにこの言葉が書き加えられたのか。それはそれで、聖書の聖典性と多様性を考える上で大切な問題なのですが、時間がありません。次回の機会に譲ることにしましょう。
■証する礼拝
さて、今日のまとめとして、パウロが語った最後の言葉に注目したいと思います。
「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」
パウロは霊の働きの実である預言や異言が礼拝中になされることを大変良いことだと考えていました。同時に、みんなが一斉に預言をして、礼拝の秩序が失われることは良くないと考えました。これは、新しく教会に来た人のことを考えればなおさらそうだと言えます。みんながばらばらに、あるいは滅茶苦茶に語っている礼拝を見た人は、「これはなんだ、一体彼らはどんな神を信じているのか」と不審に思うでしょう。しかし、神は無秩序の神ではなく、平和の神です。このような神を世間の人たちに証しするのが礼拝です。礼拝は自分たちのものだけでなく、世の人に向けて証するものだということを忘れてはいけません。わたしたちも、常に礼拝をより良いものにしたいと願う者ですが、今日のパウロの教えからもいろいろと学ぶべきことがあります。神に献げる、そして世への証しとなるような礼拝を行っていくことができるように、神に祈りましょう。