福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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1月14日 ≪降誕節第3主日礼拝≫『不義に甘んじ、奪われるままに?!』 コリントの信徒への手紙一 6章 1~11節 沖村 裕史 牧師

1月14日 ≪降誕節第3主日礼拝≫『不義に甘んじ、奪われるままに?!』 コリントの信徒への手紙一 6章 1~11節 沖村 裕史 牧師

■正しくない人々に

 冒頭1節に「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起したとき」とあります。教会の仲間、信仰者どうしの間に争いがあり、6節にあるように「兄弟が兄弟を訴える」ということが起っていました。

 具体的にどのような争いであったのかは分かりません。ただ、2節に「ささいな」とあります。これは「最も小さいもの」という意味の言葉です。3、4節にも「日常の生活にかかわる事(争い)」とあります。人の人生が大きく左右されてしまうような重大なことではない、小さなことが原因の争いだったようです。

 しかし今、パウロが問題としているのは、もめ事それ自体ではありません。1節後半、

 「聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです」

 パウロは、教会内のもめ事を「聖なる者たち」に訴えずに、教会の外の「正しくない人々」に争いを訴えていることを問題にしています。

 この「正しくない人々」とは、具体的には教会外の裁判官たちのことを指していますが、それは、6節の「信仰のない人々」と同じ意味です。この「正しくない」とは、世の裁判官たちが正義を損なっている、「倫理的に正しくない」ということではなくて、「神を信じていない」「神の救いにあずかっていない」という意味です。

 それに対して、教会内の信徒が「聖なる者たち」と呼ばれているのもまた、信徒たちが倫理的に清く正しい生活をしているという意味ではありません。この手紙から分かるように、コリント教会の人々はそう呼ばれるにふさわしい人々ではありませんでした。これも、神との関係を指す言葉です。神を信じ、神のものとされ、神の救いにあずかっている。それが聖書の「聖なる」という言葉の意味であり、それゆえにコリント教会は「聖なる者たち」でした。

 その上で、教会内の争いはこの世の裁判に訴えるのではなく、自分たちの中で、教会の中で解決すべきだ、とパウロは言います。

 これを聞いて、いやいや、「日常の生活にかかわる事」とは、まさにこの世的な事柄なのだから、この世の裁判に訴えるのが当然ではないか、と思われた人がおられるかもしれません。あるいは、それはただ臭い物に蓋をするということではないのかと、疑義を挟む人がおられたやもしれません。しかし、それは誤解です。

 ここでパウロが言っていることは、直前5章で語っていたことでもあります。そこには、みだらな行いをしている人に対して、教会はその罪をうやむやにするのではなく、愛すればこそ、それを指摘し、救いのために悔い改めを求めるべきだ、そう語られていました。「聖なる者たち」、十字架による「罪の赦しの恵みに生きる人々」は、自分たちの中で起った罪の問題を真正面から取り上げ、愛をもって解決することができるはずだ、パウロはそう教えているのです。

 

■世を裁く

 それなのに、とパウロは言います。5節、

 「あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」

 ギリシア文明の中に暮らすコリント教会の人々は、自分たちの知恵(ソフィア)を誇り、高ぶっていました。パウロはその高ぶりを思いつつ、しかしあなたたちには、自分たちのもめ事を仲裁するその知恵もなく、それを教会の外の人に頼んでいる。あなたがたの誇る知恵とは一体どこにあるのか、恥ずかしく思うべきだと皮肉を込めて嗜(たしな)めます。続く6節の「兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で」という言葉にも、そんな思いが表れています。

 宗教改革者カルヴァンが、このときのパウロの思いをこう語っています。パウロがこう語っているのは、「福音が傷つけられ、キリストの名が不信者の笑いものにされ、あざけりの的とされるからである」。信徒が法廷に出頭するように召喚された場合と違って、「強制されたのでもないのに、自分からすすんでクリスチャンの兄弟を不信者のもとへつき出すような者、いわばほかに手段がないわけではないのに、兄弟を不信者の手にかけて苦しめようとする者を断罪しているのである」と。

 しかし、パウロがこう教えていることには、もっと大切な、もっと本質的な理由がありました。それが2節です。

 「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか」

 「あなたがたは知らないのですか」とは、大切なことを語ろうとする時のパウロの口ぐせです。その大切なこととは、「聖なる者たちが世を裁く」ということです。パウロが言う「裁き」とは、この世の、人間による裁きのことではありません。そのことが3節の「わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか」という言葉からも分かります。天使とは神からの使者のことです。その天使をも裁く権威は、すべてのもの、天使をも造られた神だけが持っています。パウロの「裁き」とは、世の裁きの上にある、神による裁き、世の終わりの、最後的、究極的な裁きのことです。その神による最後の審判のときに、聖なる者たち、信仰者たちも、神と共に裁く者とされるのだと言います。神の裁き主としての権威に、わたしたちが共にあずかる者となるのだということです。その約束が、その恵みが、神の独り子イエス・キリストによってわたしたちに与えられていました。マタイによる福音書19章28節です。

 「イエスは一同に言われた。『はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる』」

 イエス・キリストは神の独り子であるのに、わたしたちと同じ人間となり、わたしたちの全ての罪を背負って十字架にかかり、死んでくださいました。そこに、わたしたちの罪を赦してくださる神の恵みがあります。そのイエス・キリストが復活し、天に昇り、父なる神の右の座に着かれました。それは、キリストがこの世を支配し、裁く者となられたということです。そのキリストが世の終わりに、もう一度この世に来られ、すべての者を裁かれるのです。キリストを信じて洗礼を受け、キリストの体である教会に結び合わされた信仰者は終わりの日に、そのキリストと共に世を裁く者、治める者とされているのだ、というのです。

 そのように、最後のときに世を裁く者とされているあなたたちが、自分たちの間のささいな事柄を裁くこともできず、世の人々に裁いてもらおうとは、一体どういうことか、とパウロは言っているのです。

 

■不義に甘んじ、奪われるままに

 パウロは、この世の裁きを「正しくない」と言います。しかしそれは、反権力的な姿勢をもつとか、この世の社会や国家の秩序を否定しようとすることではありません。究極的には、裁きをなそうとするときの人間の正義は、神の義の前では絶対的なものでありえない、ということです。それなのに、人間が正義という意識を持てば持つほど、しかもそれが制度的に保障されればされるほど、その正義は傲慢、偽善、不遜なものとなってしまいます。この世の法廷がまるで「正義の化身」であるかのごとくに振舞いかねません。それなのに、神の、キリストの主権、その絶対的な権威をわきまえ、人間の愚かさと限界を知っているはずのあなたたち信仰者が、教会内で処理すべき事件やもめ事を一般の法廷に持ち込むとは、いったいどういうことか。そのことは、パウロにとって見過ごしにできないことでした。

 パウロは、聖なる者たち、信仰者たちに、キリストと共に世を裁く者とされていることを自覚し、その恵みにふさわしく歩むことを求めています。では、それはどのような歩みなのでしょうか。7節前半、

 「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです」

 この「負け」は単なる勝ち負けではなく、信仰の敗北、信仰が破綻してしまっているという意味です。争いがあり、互いを訴え合っていくような関係は、もはや信仰の敗北、教会の敗北、それ以外の何ものでもありません。なぜなら、7節後半、

 「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」

 これこそ、イエス・キリストの教えであり、弟子たちに命じられたことであるからです。

 裁判ざたというのは、相手の不義によって自分の権利が侵害された、相手が自分のものを奪った、それを取り戻そうとすることです。しかしパウロは、相手の不義を、なぜ甘んじて受けないのか、相手に奪われたものを、なぜ奪われたままにしておかないのかと言います。相手の不義を受け入れ、奪われるもの、それは物であったり権利であったり、名誉や誇りだったりするわけですが、それを取り戻そうとするなと言います。自分の権利を守り、自分のものを取り戻そうと争うこと、それ自体が信仰の敗北なのだ、とパウロは言います。それはめちゃくちゃだ。わたしたちはそう思うかもしれません。それじゃ悪いやつが得をするだけじゃないか、と。しかしこれこそが、イエスさまの教えでした。マタイによる福音書5章38節以下、

 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」

 イエスさまの教えは、「目には目を、歯には歯を」という律法に対して語られたものです。目をつぶされたら相手の目をつぶす、歯を折られたら相手の歯を折るという復讐、仕返しについての掟です。それに対してイエスさまは、一切復讐をするな、とお命じになりました。それは、自分に加えられた悪に対して、同じ悪をもって仕返しをするのでは、あなたも同じ悪に陥ることになる、ということです。悪に対して悪、憎しみに対して憎しみをもって返しても、何の解決にもならないばかりか、悪や憎しみは増大するばかり、それがわたしたち人間の現実だからです。大切なことは、そこに和解をもたらし、愛の関係を回復しようとすることです。そのためには、マタイの続きに言われているように、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことが求められるのです。

 これはもちろん偏見や差別、不正な抑圧や人権侵害に、目をつぶりなさいということではありません。イエスさまの言葉は、暴力に暴力を返したり、憎しみに憎しみをもって対処したりしない、愛をもって抵抗すること、真の和解をこそ求めるものです。裁判を起こして、奪われたもの、権利を取り戻そうとすることは、相手に復讐をすることと同じです。それは、不義に対して不義をもって報い、奪い取るものから逆に奪い取ろうとすることです。8節に、「それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています」とあるのは、そのことでしょう。それは、主にある兄弟姉妹、キリストの救いに共にあずかる信仰者の交わりではない、とパウロは言うのです。

 

■神の国の光が

 とはいえ、それは人間的にはなんと困難な、しかし、実に高貴な教えでしょうか。単なる人間的な努力や道徳では不可能に近い教えです。

 パウロは、なぜ、このように訴え、教えることができたのでしょうか。

 それは、「神の国」を受け継ぐ希望があったからです。この世だけがすべてであれば、すべてはこの世でこの世的な方法で解決しなければならないでしょう。しかし、信仰者は神の国を望み見、神の国を目指して生きるので、あのイエス・キリストの教えを単なる空想ではなく、真理の言葉として受け入れ、従うことができるのです。

 そしてもちろん、信仰者にそのように訴え、教えることができたのは、神の国の光がすでに差し込んでいたからでもあります。

 最後11節、あなたたちは「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」と、もう一度パウロは、クリスチャンとしての自覚を促しています。主を信じ、洗礼を受けたわたしたちは、すでにそのような者にされている人間であるということ、この自覚に固く立たされ、生かされるのが教会なのだ、と言っているのです。

 それでもなお、「なぜ、むしろ不義を受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」というパウロの言葉に、抵抗を覚え、わたしたちはこう思うかもしれません。

 「わたしは俗物で信仰心が足りないから、パウロのような立派な信仰の境地にはとても達することができそうにない」

 しかし、それは違うのです。これは、信仰心が深いか浅いか、俗物であるか聖人であるか、という問題ではありません。問題は、わたしたちが誰を見つめているのか、ということです。信仰心が深いとか、浅いとか、自分は聖なる者だ、俗物だというのはすべて、自分を見つめている言葉です。自分がどれだけ立派な、信仰者らしい生き方ができているのか、そのことを見つめている言葉です。しかしそれは本当の信仰ではありません。

 信仰とは、自分自身を見つめることではなく、まず何よりも、イエス・キリストを見つめることです。見つめるべきものは、自分の信仰心、自分がどれだけ信仰者らしい生き方ができるかではなく、イエス・キリストとその救いのみ業です。ペトロの第一の手紙2章21節以下にこうあります。

 「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」

 信仰とは、このイエス・キリストだけを見つめ、その十字架の死による救いを信じて生きることです。信仰心の深い、浅いの問題ではありません。わたしたちのために不当な苦しみを引き受けてくださったイエス・キリストによる救いを信じ、そのキリストを見つめ、キリストに従っていくかどうかが問われているのです。

 「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」というパウロの言葉は、この世の常識からすれば全くナンセンスです。しかし、イエス・キリストを見つめ、信じて生きるわたしたちには、「むしろ、不義に甘んじ、奪われるがままに」ということこそ、新しい常識なのです。