≪説教≫
■受難週の始まり
「エルサレムに迎えられる」という小見出しがつけられています。今、イエスさまはロバに乗って、エルサレムに入城されます。その数日の後、都エルサレムの城外で、そのイエスさまが十字架にかかって殺されることになります。
そう、この21章から、この福音書の「受難週」、受難物語が始まります。
マタイは、この一週間の出来事を語るために、福音書全体で60頁のその三分の一、20頁近くの分量を費やしています。エルサレムでの受難の出来事こそ、この福音書が語ろうとしていることの中心です。その大切な受難の出来事の冒頭に語られたのが、エルサレムに入られた時の光景でした。
ガリラヤで伝道を始められておよそ三年、イエスさまは、ついにユダヤ人の信仰の中心であるエルサレムにやって来られます。他の町に入られる時にはいつも、ご自分の足で歩いて入られたイエスさまでしたが、今、イエスさまはロバに乗っておられます。そのイエスさまが、エルサレムへの巡礼の旅を共にしていた大勢の群衆の敷いた、その服や枝の上を進まれます。それを人々が歓呼の叫びをあげて迎えます。
これまでの歩みとは打って変わった姿がここには描かれています。しかし、そのことをイエスさまご自身は望んでいなかったけれども、人々が勝手にそうしたのだというのではありません。ロバを用意し、それに乗ろうとされたのは、イエスさまです。また、人々の歓呼の叫びを止めさせようとはされず、むしろそれを受け入れておられます。このような形で、受難の待ち受けるエルサレムに入ることこそ、イエスさまのご意志によることでした。
これはいったい何を意味するのでしょうか。
■「王」としての姿
マタイによる福音書はイエスさまを「王」として描いている、と言われることがあります。三年前にこの福音書を読み始め、今日、ようやくこの21章に辿り着いたのですが、これまで、イエスさまがご自分のことを王であると言われたことは一度もありません。それでも注意深く読めば、マタイが初めから、イエスさまを王として迎えることこそが大切だ、と考えていたことが分かります。
例えば、マタイ福音書の冒頭1章1節、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。そして続く2節以下に出てくる系図は、紛れもなく「王家の系図」です。マタイは冒頭から、イエスさまがイスラエルの王ダビデの子孫で、神の民イスラエルに連なる者であるどころか、全世界の人々に真の救いをもたらす真の王なるお方である、と宣言しています。続く2章では、占星術の博士たちがやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれなった方は、どこにおられますか」と尋ねています。
このクリスマスでの一連の出来事以降、王としてのお姿がはっきり現れてくるのが、今日の箇所です。歩いてではなく「ロバに乗って」というのは、王様が乗り物に乗ってやって来る姿を表しています。マタイはこの姿を、旧約ゼカリヤの預言の成就として直接引用しています。
「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『シオンの娘に告げよ。「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って」』」
これはゼカリヤ書9章9節からの引用に基づくものですが、その9節から10節には、来るべき救い主の姿が次のように描かれています。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ロバに乗って来る/雌ロバの子であるロバに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ」
この預言の通り、イエスさまは今まさに、柔和で、平和を宣べ伝える「王」として、「ロバに乗って」エルサレムに入城されるのです。
そのとき、人々は自分の服や木の枝を道に敷いて、イエスさまを迎えています。ソロモン王の後、イエフという人が革命を起こして王位を簒奪した時、人々は「おのおの急いで上着を脱ぎ、階段の上にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹いて、『イエフが王になった』と宣言した」と書かれています(列王記下9:13)。人々が服を敷いて迎えることも、イエスさまが「王」として人々から迎えられたことを示すものでした。
しかもそのことは、「ダビデの子にホサナ!」という人々の歓呼の声にも示されています。ダビデは、エルサレムをイスラエルの王の都として定め、築いた、王の中の王です。「ダビデの子」という言葉には、単に理想の王の子孫と言うだけではない、ダビデ王の子孫にイスラエルの真の王である救い主が現れるという預言の成就への期待が込められています。さらに続いて「ホサナ」と叫んでいます。「ホサナ」とは、「助けてください」「今救ってください」という意味の言葉です。これも、「万歳」といった単なる掛け声ではなく、救い主である真の王の支配と、それによる救いを求める「祈り」の言葉です。イエスさまは、群衆のその祈りの声に迎えられ、主の名によって来られた「救い主」、父ダビデの国を再建する「真の王」として、ダビデ王の都であるエルサレムに入られたのでした。
■「王」とは
それにしても、この「王」としてのイエスさまの姿は、恥辱と侮蔑に満ちた受難の十字架のイエスさまの姿とは、あまりにも対照的です。受難が始まろうとするこのときに、「王」としてのイエスさまの姿が描かれるのはなぜなのか。そもそも、「王」とはどのような存在なのでしょうか。
今は、コロナウィルスのために海外旅行もままなりませんが、聖地旅行に行ってまず案内されるのは、イエスさまの時代に生きていたヘロデ大王が残した数々の遺跡でしょう。よくぞこれだけのものを二千年も昔に造ることができたものだ、と驚かされます。ヘロデ大王は優れた都市計画者として知られていました。そのヘロデの名を最も偉大なものとしたのは、「ヘロデ神殿」とも呼ばれる第三神殿の建設でした。ソロモン神殿を超える規模で、ローマ帝国はもとより、広く地中海世界で評判となり、当時からすでにユダヤ教徒でない人々までもが、神殿のあるエルサレムを訪れるようになったと伝えられています。
そう、「王」とは、まさにヘロデ大王のような存在なのでしょう。しかしそれは、「ろば」とは真逆のイメージです。
安野光雅という絵本作家がいます。島根県津和野の安野光雅美術館に収蔵されている作品の中に、『おおきなもののすきなおうさま』という絵本があります。安野によると、王様は大きな物が好きです。それが王様です。最初の頁は次のような語りで始められます。
「昔、あるところに、大きな物の好きな王さまがいらっしゃいました。王さまは、何しろ大きな物が好きでしたから、屋根よりも高いベッドで、お目覚めになると、プールのような洗面器で顔を洗い、庭のような広いタオルで顔を拭いて、やっと一日が始まるのでした」
絵本には梯子をかけなければ上れないベッド。自分の体よりも大きな歯ブラシ。一生かかっても食べられないほど巨大なチョコレート。王様とは「大きなものが好きな人種だ」というのです。
ヘロデもそうでした。でもこれは他人事ではありません。わたしたちの中にも、「小さなヘロデ」が潜んではいないでしょうか。山上の説教で、イエスさまは言われました。
「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな。また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。…空の鳥をよく見なさい。…野の花がどのように育つのか、注意してみなさい」
すべてのものにいのちを与えてくださった神様が今この時も、愛の御手を差し伸べて守ってくださっている、だから大丈夫だ、と言うのです。ところが、わたしたちには、この王なる神の御手の働きが見えません。そして、どうにかしなくては、と思い煩います。人間関係でも、相手の出方までコントロールしたくなり、それが自分の意に沿わないと急に苛立ち、腹が立ちます。その姿はまさに、このわたしが神様に代わって王のように…と勘違いしていることの証拠です。神様の支配を認めない。受け入れません。神様は慈しみ深いお方です。わたしたちの最善を常に考えておられます。わたしたちのために万事を相働かせる御力と御心を持っておられるお方であることが信じられず、委ねることができないのです。それで、わたしたちは思い煩うことになります。
わたしたちが思い悩むことの原因は、実は、自分自身がいつの間にか王になっていることの証拠なのだ、とイエスさまは教えられます。
■いのちを与える真の「王」
このとき、イエスさまは「王」になっておられます。もともと、真の王なるお方でしたから、ご自分がダビデの子孫であって、イスラエルの民が待ち望んでいた、新しい王なのだということを、敢えてここに示しておられるのです。
しかし、その示し方は「ろば」なのです。
柔和で、決して相手を威圧し黙らせようとするのではなく、平和をもたらされるのです。とすれば、わたしたちがすべきことは、イエスさまを王なるお方として受け入れることです。神様が、そしてイエスさまが王となっておられる神の国に生きることです。そのときにこそ、本当の自由と平安がもたらされます。真理はあなたがたを自由にする、とイエスさまは言われました。王なる神様の慈しみ深い、その支配を受け入れて初めて、わたしたちはそのお方にあって、恵みと平安のうちに憩うことができるからです。
しかしヘロデ大王は、いのちを奪う王でした。さきほどのクリスマスでの出来事です。メシア救い主がお生まれになったことを耳にした途端に不安になり、「そのメシアとやらを、赤ん坊の内に殺してしまおう」と命令を出して、三歳以下のすべての男の子を殺させたのがヘロデ大王です。大きなことが大好きで、自らの大きさを保つために、どれだけの人々が犠牲になったことでしょうか。
先ほどの安野光雅の絵本に出てくる王様に、そうした残虐さはなかったとしても、しかし謙虚さ、柔和さもまたありません。真の王を知り、自分の限界に気づく必要があるのです。
絵本の最後の場面に、こんな物語が出てきます。王様が大きな植木鉢を作ります。梯子をかけてのぞき込まないと中が見えないほどの巨大な植木鉢です。そして、その真ん中にチューリップの球根を一つ植えました。そうして春が来るのを待ちました。植木鉢がこんなに大きいのだから、どんなに大きなチューリップが咲くだろうか。楽しみにしながら待ちました。ところが、植木鉢の真ん中に咲いたのは、普通の大きさの、小さなかわいいチューリップでした。
作者は「あとがき」で、「目もくらむような思いで、大きな物を使う王の世界を描きながら、しかし、最後に問うたのは、どんなに大きな物を作ることが出来ても、いのちのあるチューリップは作れるかということでした」と書いています。
確かに王という存在は大きな物が大好きです。しかし真の王であるイエスさまは、それとは正反対です。小さないのちが、小さなロバが大好きな王になってくださったのです。ある人がこんなことを書いていました。
「主イエスは、小さい、でも掛け替えのない、いのちを大切にする王となってくださった。しかも、この王は、他のどんな王さまにも不可能な、いのちを造るということをするために、王になってくださった」
イエスさまは、見上げるような戦車や馬に乗ってではなくて、乗っても足が地面に付いているかもしれないような「ろば」にまたがって、エルサレムに入城されました。それは、わたしたちを殺さないで、生かすためでした。わたしたち一人ひとりのいのちを生かすために、そうなさったのです。
■十字架の「王」
そんなイエスさまを、エルサレムへの巡礼の旅を共にしていた群衆は「王」として迎えました。しかしエルサレムに住む人々は、それとは全く違う反応を示します。その様子をマタイが最後にこう書き留めています。
「イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、『いったい、これはどういう人だ』と言って騒いだ。そこで群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ』と言った」
10節のこの言葉もまた、クリスマスの出来事を想い起こさせるものです。東方から来た博士たちが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねたとき(2:2)、ヘロデ大王は狼狽し、「不安」を感じました。しかしそれは、ヘロデだけではありませんでした。「エルサレムの人々も皆、同様であった」とマタイは書いています(2:3)。このときのエルサレムの人々の反応は、クリスマスのときと何一つ変わっていません。彼らは今も、イエスさまを王として受け入れません。
それに対して、イエスさまと共に歩んで来た巡礼者たちは確かに、イエスさまを「ダビデの子」、「王」として迎えました。がしかし、それは「ナザレ出身の預言者」に留まるものであったようです。受難の救い主、十字架に架けられる真の王という意味ではありませんでした。彼らもまた、エルサレムの人々と同様、十字架の下に立って、イエスさまを嘲笑する群衆の中に呑み込まれてしまうことになります。
わたしたちは、イエスさまがどのようにして平和をもたらされたのかを想い起さなければなりません。このようにしてエルサレムに入城されたイエスさまは、その五日後に十字架の上で殺され、死なれたのです。パウロは、そのことについてこう語りました。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊……されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2:14-16)
イエスさまは、ろばに乗って入城し、平和の礎となるために十字架にかかられました。わたしたちは、そのことを感謝しつつ、イエスさまの後に従う者でありたいと願います。