■片手の萎えた人
15節に「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」とあります。
「それを知って」の「それ」とは何のことでしょうか。直前14節に「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」とありますので、そのことを知って、その場を立ち去られたのだ、ということでしょう。
その経緯(いきさつ)が直前に記されていました。
麦畑での安息日論争に区切りをつけたイエスさまは、弟子たちと一緒に会堂にお入りになりました。するとそこに片手の萎えた人がいました。同じ出来事を記したルカは、その手が「右手」だった、と報告しています。「右の手」とは「利き手」です。糧を得るために使う手です。物を掴(つか)み、物を作り、生活を支えていく手が「右手」です。その「右手」が萎えて動かないのです。「萎える」とは「涸れる」という意味を持っています。涸れ果ててしまったかのような、その人の深い絶望が見えてくるようです。
その人が会堂の中にいました。そこには、イエスさまを訴えようと思っていたファリサイ派の人々もいました。というより、ファリサイ派の人々が片手の萎えた人を連れて来ていたのかもしれません。一緒に礼拝を守るためではありません。苦しみを抱えた人に心を向け、慰め、励ますためでもありません。イエスさまを罠にかけるためです。彼らはイエスさまにこう尋ねます。
「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」
ファリサイ派の人々は、片手の萎えた人の苦しみ、悩み、将来への不安などには寄り添おうともせず、まるで釣竿の先にぶら下がった餌を見るようにして、イエスさまが、いつその餌に喰いつくか、いつその人に関わりを持つか、と待ち構えていました。
■安息日に善いことをする
その問いにこう答えられます。
「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」
「羊を一匹持っていて」とあります。先週もお話をしたように、百匹の内の一匹というのではありません。その人には、羊一匹しかいません。かけがえのない羊です。一匹しかいない、大切なその羊が穴に落ち、いのちが危ういとなれば、たとえ、その日が安息日であろうと、羊を助け出すのは当然ではないか、と言われます。
ましてや「人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」と言われます。イエスさまは、手の萎えたこの人の深い悩みに心を留めてご覧になり、「手を伸ばしなさい」と招かれます。今、その手をいやすことができるのならば、そのことこそ安息日にふさわしいではないか、とファリサイ派の人々に迫られるのです。
世界を創造された神が、人間を造られたのは第六の日でした。この六日目に造られた人間が、初めて迎える新しい日が第七の日、すなわち安息日です。「それ故に人間は安息を味わうために創造されている」と言った人がいます。確かに、ファリサイ派の人々は自分たちに注がれている神の恵みに心から感謝をし、安息日を大切に守ろうとしたのですが、安息日の規定を守るということに心を用いる余り、苦しんでいる人の苦しみ、病で苦しむ人の辛さ、痛みが見えなくなっていました。
安息の本来の意味を忘れ、「なぜ休むのか」を問うことをせず、「『休まなければならない』という命令のために休む」と考え、結果、「してはいけない労働とは何か」「してはいけない仕事とは何か」といったことばかり気に掛けるようになりました。目的と手段とが入れ代わってしまったのです。律法は、神の御心が言葉(文字)として与えられたものですが、文字は文字に過ぎません。神の御心から離れて、それを金科玉条のごとく絶対化すれば、神ならぬものを神とする偶像礼拝の罪を犯すことになります。
イエスさまは、何よりも安息日に示された神の御心、神の愛を大切にされました。苦しんでいる人の苦しみ、痛みを決してそのままにされない、というより、そのままにしてはおけない方でした。
けれども、イエスさまのこうした振る舞いはファリサイ派の人々には分かってもらえず、彼らはイエスさまを殺そうと相談を始めました。イエスさまは、そのことを知って、そこを立ち去られたのでした。
■言いふらさないように
そして15節後半から16節です。
「大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」
すべての人の病を、一匹の羊を探し求める羊飼いのようにしていやされたイエスさまは、その人々にご自分のことを言いふらさないようにと戒められます。なぜ、言いふらしてはいけないのでしょうか。
イエスさまは、ご自分が辿られる十字架の道を、死に向かわれていることを、よくご存知でした。しかし、ファリサイ派の人々の殺意を前にしつつ、まだその時ではない、とお考えになったのでしょうか。
実は、イエスさまはすでに、重い皮膚病の人をいやされた8章4節でも、二人の盲人が見えるようなった9章30節でも、「だれにも話さないように」とお命じになっています。そこでは、受けた恵みを言いふらすことによって自分を誇ろうとする人間の高ぶりを戒められ、また、癒された盲人たちのメシア信仰が、救い主とは民族の解放といった政治的な救いをもたらす者であるという意味に誤解されて、言い広められることを避けるためでした。
そして今ここで、マタイは、イエスさまが人々に沈黙を命じられたのは「預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と書き記し、イザヤ書42章1節から4節に記されている「主の僕」の歌をここに引用することで、イエスさまのいやしが、単なる宣教の道具、人集めの手段ではなく、いやされる「その人とイエスさまとの間に通った愛のしるし」であったことを指し示そうとしているのではないでしょうか。
■主の僕のように
イザヤ書42章を含む40章から55章は、イザヤから百数十年後に活動した、第二イザヤと呼ばれる無名の預言者によって語られた言葉です。紀元前540年頃、イスラエルの民がバビロンとの戦いに敗れ、バビロンに捕虜として連れて行かれてから、50年という時が過ぎようとしていました。人々は、再起の望みも失せたと見える絶望の淵に立ち尽くしていました。その時、バビロニア帝国が新興のペルシャによって打ち破られ、ペルシャ王キュロスによってイスラエルの民はエルサレムに戻ることを許されます。第二イザヤが活躍したのはそんな時代でした。
第二イザヤが神から与えられた使命は「わが民を慰めよ」ということでした。ヘンデルが作曲した「メサイア」の冒頭、「慰めよ、慰めよ、わが民を」というフレーズは第二イザヤ冒頭の預言です。しかし、人に慰めをもたらすということは本当に難しいことです。預言者は、苦悩の中にある人に慰めをもたらすのは、主の僕、わたしたちが待ち望んでいるメシア・キリストをおいて外にいないと、四つの主の僕の歌を歌いあげ、宝石をちりばめるようにして、40章から55章の中に置きました。
マタイがここに書き記したのは四つの主の僕の歌の、第一の歌です。18節、
「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる」
主の僕を選んだのは神です。主の僕は、神の御心に適い、神に愛され、神から霊をさずけられました。主の僕は、神の御心のままに歩む者だと言います。その主の僕の使命は、異邦人に正義を知らせることです。異邦人というのは、ユダヤ人ではありませんから、ユダヤ人にも、そうでない人にも、つまり、どの人にも、すべての人に正義を知らせるのだと言います。
「正義」と訳されている語はギリシア語のクリシスです。「裁き」とも訳されます。もともとのヘブライ語はミシュパートで、神の支配としての「義」、神の国のあり様を指す言葉です。そのニュアンスから、口語訳では「道」と訳されていました。神のご意志、計画、判断、御旨、道です。すべての人に、神の御心、神の道、神の国を告げ知らせるのが主の僕だと言います。19節、
その「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」
「争わず」という言葉はイザヤ書にはありません。ファリサイ派と争わないイエスさまの姿がマタイに深く印象づけられ、付け加えられたのでしょうか。また主の僕は大声で叫びません。その声を聞く者は大通りにはいないとあります。主の僕は、他の預言者のように人々の面前に立って、大声で人々を叱咤するようなことはしません。
むしろ、驚くほどの愛の業を行っても、それを「言いふらすな」と言われます。ここでは、隠れたところにいて、傷つき倒れようとする人々に救いの手を差し伸べる者として描かれます。そのようにして彼は、一人ひとりの魂を救うように人々と接し、出会い、導いていくのだと言います。20節から21節です。
「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける」
葦は水辺に生える植物ですが、風が吹くと互いにあたって傷ついてしまう弱い植物です。けれども主の僕は、そうした葦に象徴されるような弱さ、破れを持っている人を抱え込む優しさを持ち合わせています。今にも消えそうな、くすぶる灯心を消さない慎重さを持っています。そして、主の僕は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さないという仕方で、神の御心を、神の国の福音をすべての人に行き渡らせると言います。異邦人、つまりすべての人、わたしたちは、こうして神の御心を成し遂げていく、主の僕に望みをかけることになる。これが、イエスさまだ、とマタイは言います。
■十字架の道
日本文学の優れた研究者であり、クリスチャンでもあった水谷昭夫という人が、著書『たゆまざるものの如く―山本周五郎の生涯』の中に記している一節が思い出されます。
「「きねや」質店の「一円貸し」のように『裏の木戸はおいている』の作中主人公喜兵衛は「裏の木戸」をあけた。
かなしいことに、人間は貧乏であればあるほど、金銭に対して潔癖になる。
施しや恩恵を、かれらほど嫌うものはない。
彼はその木戸の内側に金の入った箱をかけておいた。貧窮した人たちが、誰にも知れずにその金を自由に借りることができるためである。それがいけない。という」
お城の役人から呼び出された喜兵衛は、彼の行為は「かくれた金貸し」である、そうではないとしても、怠けたがる下人を甘やかし、苦労して働く精神を失わせる「小人」の浅はかな知恵だ、と叱責を受けます。そして、沙汰があるまで「ただちにその木戸を閉め、その箱を取払っておくがよい」と命じられます。そのときになって、喜兵衛がはじめて口を開きます。「それはお受けできません」「箱の中の儘かな銭をたのみにする者が一人でもある限り、私はその箱を掛け、木戸をあけておきます」と穏やかに言います。
水谷は、こう続けます。
「喜兵衛は「静かに」「穏かに」「口ごもり」ながら、「頭を垂れながら」「呟くように」、しかしがんとして、城中寄合役の絶対的な申しわたしをこばみ続ける。
周五郎の作中人物たちの姿勢である。
すじ道を立てて、整然と、大声をはりあげて説明出来るようなものではないが、すべての言葉以前の、すじ道も通らない所で、頭をたれながら、つぶやくように真実を語り、人間の苦悩から目をそらさない。
彼は静かである。
穏やかである。
と周五郎はいつも書く。
口ごもりながら、頭を垂れながら、呟くように、「人間」と人間の苦悩を大切にする。がんとして守る。
スジ論で人を裁く。それがいまの世の習いだ…」
主の僕の姿と重なって来るようです。いえ、第二イザヤが指し示す主の僕の姿は、それ以上です。
第一の「主の僕」に続く第二の歌(49:1-6)で、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さないで、神の御心を遂行しようとする主の僕は、徒労、むなしさを覚えます。それでも、主の僕は神に励まされながら、時間がかかっても、労苦を重ねても、傷ついた葦を折らない、くすぶる灯心を消さないという仕方で、御心を地の果てまで携えようとします。第三の歌(50:4-9)では、そうした主の僕が厳しい迫害にさらされます。しかし主の僕は、打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬を任せ、顔を隠すことなく、嘲りと唾を受け続けます。そして、第四の主の僕の歌(52:13-53:12)では、主の僕は、わたしたちの背きのために刺し貫かれ、わたしたちの咎のために打ち砕かれ、主の僕が受けた懲らしめ、傷によって、わたしたちに平和が、いやしが与えられる、と預言されます。
マタイが今、イエスさまの働きを通して語ろうとすることは、まさにこのことです。神の御心を、神の愛を一人でも多くの、その一人ひとりに伝えしようとしたイエスさまは、「スジ論で人を裁く」世の中で、十字架の道を歩まざるをえなかったのです。傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消すことのないイエスさまのいやしは、あの十字架の上に、成し遂げられることになるのです。
イエスさまの十字架によって癒され、慰められ、救われたわたしたちも、コロナウィルスに痛めつけられ、分断と格差がこの世界をさらに引き裂こうとする時にこそ、傷ついた葦に注がれる神の愛によって希望が与えられていることを、静かに、穏やかに証しし続ける者でありたいと願うばかりです。