福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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1月28日 ≪降誕節第5主日「招待」礼拝≫『いただいた体』 コリントの信徒への手紙一 6章 12~20節 沖村 裕史 牧師

1月28日 ≪降誕節第5主日「招待」礼拝≫『いただいた体』 コリントの信徒への手紙一 6章 12~20節 沖村 裕史 牧師

■すべてのことが許されている

 「わたしには、すべてのことが許されている」

 冒頭、パウロはこの言葉を二度も繰り返します。気をつけてみると、この言葉に鍵括弧がつけられています。引用された言葉だということです。ただ、聖書の原文には括弧はありません。翻訳される時に、ある解釈に基づいてつけられたものです。「わたしには、すべてのことが許されている」というこの言葉は、パウロ自身の言葉ではなく、コリント教会の人々の間で語られていたもの、それをパウロが引用しているのだろうという解釈から、ここに括弧が付けられています。その通りだろうと思います。パウロがこの言葉を二度繰り返しているのは、これがコリント教会でよく知られた、多くの人が語っている言葉だったからでしょう。

 その二つの引用の直後に「しかし」とあり、この言葉に対する、何がしかの修正が加えられています。でも、ここで早合点をしてはいけません。パウロは「あなたがたはすべてのことが許されていると言っているが、それは間違いだ」と言おうとしているのではありません。この「しかし」は、前に言われていることを完全に否定してしまう「しかし」ではなく、それを正しいと認めた上で、そこにあることをつけ加える、但し書きをつけるといった働きをしています。

 「わたしには、すべてのことが許されている」。これはパウロ自身の考えでもあるのです。そうでなければ、同じ言葉を二度も繰り返して語るようなことはしないでしょう。もっと言えば、コリント教会の人々がこのように言うようになったのは、パウロの影響によるものだったと言えるのかもしれません。この教会はパウロの伝道によって生まれました。とすれば、パウロがこのように教えていたとも言えるのではないでしょうか。

 パウロが教えていたこととは何だったか。わたしたちが神によって義とされ、救われるのは、わたしたちが正しい行いをしたからでも、立派な人間だからでもない。神が御子キリストの十字架の死によって、罪人であるわたしたちを赦してくださったからだ。わたしたちは、ただ一方的な神の愛によって救われた、ということであったはずです。救いは行いにはよらない。だから、どういう行いをしたら救われ、どういう行いをしたら滅びるのか、ということではありません。たとえどんな罪を犯した者であっても、イエス・キリストの十字架の死による赦しの恵みをいただくなら、救われる。そういう意味で、為すことのすべては許されている。たとえどんな悪いことをしたとしても、そのために救いにあずかれないということはない。パウロはそう教えていたはずです。そういう意味で、「わたしには、すべてのことが許されている」と教えていたに違いありません。

 

■誤解

 しかしパウロはここで、自分自身が教えたことに、ある修正、但し書きをつけ加えようとしています。それは、コリント教会の人々がパウロのこの教えを取り違え、誤解していたからです。どんな誤解をしていたのか。そのことが続く13節、「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり」という言葉から推察できます。

 コリント教会には、「みだらな行い」をしている人がいました。「みだらな行い」の原語は「ポルネイア」、ここから「ポルノ」という言葉が生まれました。性的な不道徳行為を指す言葉です。具体的には、この後16節にある「娼婦と交わる」ということです。教会の人々の中に、娼婦と関係を持ち、性的な欲望のはけ口とする人たちがいたのでしょう。当時のコリントは人口60万に達する大都市でした。街を一望に見下ろす丘の上に、愛の女神、美の女神アフロディテの神殿が建てられ、そこには千人もの神殿娼婦がいたと言われます。その娼婦たちと関係を持つことがごく一般的に行われていました。そういう文明の爛熟、退廃の中にコリントの教会は置かれ、その影響が入りこんでいました。

 コリント教会の問題は、そのような「みだらな行い」をしている人々が、「わたしには、すべてのことが許されている」というパウロの教えを拠り所に、自分たちを正当化していることでした。「どんな罪を犯した者でも、キリストの赦しによって救われるとパウロ先生が言っていたではないか。だから、こういうことをしてもいい、このことも許されているんだ」というわけです。しかし、それは誤解でした。

 

■本当の自由

 パウロは、「すべてのことは許されている」ことを認めつつも、そこに「しかし、すべてのことが益になるわけではない」、「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」とつけ加えています。みだらな行いも、娼婦と交わることも含めて、すべてのことは許されているのです。「すべてのこと」と言うからには、そうしたことも確かに含まれます。これをしたら救いにあずかれない、ということはありません。しかし、許されていることがすべて、自分にとって益となるわけではありません。

 自分にとって本当に益になることは何か。そのことをしっかりと見極め、益になることを追い求め、益にならないことは避ける。それこそが、わたしたちのあるべき生き方ではないのか。そのように歩むことができることこそ、わたしたちが本当に自由であるということなのではないか。益にもならないことにうつつを抜かし、それをやめられないとすれば、それは自由ではなく、ただ欲望に支配され、欲望の奴隷となっているだけのことではないのか。これが、パウロの言おうとしていることでした。パウロが今ここで問題にしていることは、何事にも支配されない、本当の自由とは何か、ということです。「すべてのことは許されている」とは、そのことを語っています。

 わたしたちは、自由ということを自分の好き勝手にすることと勘違いしてしまいがちです。そして、そうできないから自分は自由でない、束縛されていると思い、自由が欲しいと訴えます。しかし、自分の好き勝手にするという自由は、実は欲望の奴隷としての歩みでしかありません。自由であろうとして、奴隷になっています。

 そうしたことは、わたしたちの生活の中に多々見受けられます。わたしたちは自由に使えるお金が欲しいと思い、頑張って働いてお金を貯め、それを使って何かを買うことで、自由を得たような気になります。しかしそれは、お金に踊らされ、購買意欲をそそる巧みなコマーシャルやその時々の流行に支配されて、お金を使わされているだけであったりします。本当の自由とは、すべてのことが許されている中で、しかし欲望に支配されず、本当に必要な、益になることに力を注ぐことができるということです。それこそが本当の自由であり、そういう自由をこそ求めていくべきだ、とパウロは言っているのです。

 このパウロの言葉を味わうために、哲学者・池田晶子の著書『14歳からの哲学』の中から「自由」と題された文章の一部をご紹介します。

 「…自分がしたいことをすることが自由であるということだとする。そして、人が自分がしたいことをするのは、それが自分にとってよいと思われるからするのであって、自分にとって悪いと思われることはしないのだったね。でも、人はそれが自分にとってよいと思われるからするのだけれども、それが本当は自分にとってものすごく悪いことで、そのことを知らないから、それをよいことだと間違えてするとする。だとすると、このとき人は、自分にとって悪いことをしているわけで、決してよいことをしているわけではない。しかし、人は常に自分にとってよいことをしたいはずなのだから、よいことではない悪いことを、知らずにしているその人は、本当は、自分がしたいことをしているのではないということになる。自分では、自分は自分のしたいことをしていると思っているのだけれども、本当は、自分がしたいことなんかしていない。自分がしたいことをしていないのだから、自由ではない。だから、悪いことをすることは自由ではない。悪いことをする自由なんか、ない、と、こういうことになるね。法律によって禁止されているから泥棒や殺人の自由がないのではなくて、たとえ法律の禁止がなかったとしても、それは自分にとって悪いことだから自由なことではないということだ。この違いに気がついているかいないかが、人が自由に生きられるかどうかの分かれ目だ」

 いかがでしょう。

 

■体は主のため

 「だから」とパウロは続けます。13節、

 「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」

 「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます」とは、わたしたちが生まれてから死ぬまでの、「食物と腹」によって養われる「肉体」を生きる人生、動物としての生存本能に従った生き方、あり様のことです。しかし、それとは区別された「体」というものがある、とパウロは言います。

 その「体」とは何でしょうか。それは、肉体と切り離された何かではありません。「体はみだらな行いのためではなく」と言われているのは、体もみだらな行いに陥ってしまうことがあるということです。性欲は、子孫を残そうとする動物としての本能です。ただ多くの動物には繁殖期という制限があります。ところが人間の性欲にはそれがありません。人間の性欲は繁殖のためだけのものでなく、快楽を追求する際限のない欲望となります。そのため、体もみだらな行いに陥ってしまうことがあるのです。体と肉体は別のものではありません。しかし同じものでもありません。

 パウロはそれを区別しています。その区別のポイントは、「体は主のためにあり、主は体のためにおられるのです」という言葉に示されています。ここでいう「体」とは、主イエス・キリストとの関係に生きるわたしたちのことです。信仰をもって生きるわたしたちと言ってもいいでしょう。イエス・キリストがわたしたちの罪を背負って十字架にかかって死んでくださり、罪の赦しを与えてくださった。その救いの恵みにあずかって生きる、そのイエス・キリストを信じる信仰に生きるわたしたちのことです。

 そのわたしたちは、もちろん肉体をもって生きています。しかしパウロはその歩みを、信仰なしに、イエス・キリストとの関係なしに生きる歩みと区別します。生まれつきのわたしたちは皆、イエス・キリストとの関係なしに、本能や欲望に従う、食物と腹によって養われる歩みをしています。しかしそのわたしたちが、イエス・キリストの救いにあずかることによって、新しくされ、新しい自分を与えられ、同じ肉体を生きつつも新しい体とされるのです。

 その新しい「体」は、「みだらな行いのためではなく、主のためにある」のです。イエス・キリストによって与えられた新しい体を、わたしたちは、自分の欲望のためにではなく、イエス・キリストのために、神に仕え、そのみ心を行うために用いていく。「食物は腹のため、腹は食物のため」という、いずれ滅びていく肉体を生きているわたしたちが、その肉体の欲望に生きる者から、「みだらな行いのためではなく、主のために」生きる新しい体となる。それこそ、わたしたちが本当に人間らしく自由に生きるようになるということだ、と言います。

 すべてのことは許されています。人の犯す罪はすべて、イエス・キリストの十字架の贖いによって赦されるのです。しかし、その赦しの恵みの中で、自分の体をイエス・キリストと共に、神に仕えて歩むことの益となるように用いていく。そのような歩みこそ、本当に人間らしく、自由に生きることなのだ、そうパウロは教えているのです。

 

■体は誰のものか

 いやいや、信仰に生きていない人であっても、誰もが自分の体を、言い換えれば自分の人生を、なるべく良いことのために、有意義に用いたいと願っている。そう思われた方もおられるでしょう。その通りです。「主のため」に用いるかどうかは別として、自分の体を何のために用いるかが人生において大切な問題であるということは、わたしたちの誰もが知っていることです。

 しかし、パウロがここで語っていることは、それとは少し違っているようです。彼が語っているのは、自分の体を何のために用いるべきであるか、ということではなく、自分の体は誰のものなのか、ということです。そのことがはっきり示されていくのが15節以下です。そこに語られていることは、娼婦と交わるようなみだらな行いはよくない、ということよりもむしろ、あなたがたは自分の体が誰のものだと思っているのか、ということです。

 この問いに、パウロはこう答えます。15節、

 「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」

 「知らないのか」とは、パウロが大切な真理を語ろうとする時の常套句です。キリストに結ばれ、キリストの体の一部となったわたしたちの体はもはや、わたしたちのものではなく、キリストのものだ。わたしたちの体の主人は今や、キリストであると言います。だからこそと、こう続けます。「キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない」。娼婦と交わることがいけないのは、それがみだらな行いであるとか、そういう欲望を持つことが汚らわしい罪だから、というのではありません。そうすることで、わたしたちが自分の体をキリストのものでなくしてしまうからです。娼婦と交わる人は、自分の体は誰のものかということを決定的に間違えてしまっているのだ、ということです。

 そして19節、パウロは「知らないのですか」と繰り返しつつ、こう宣言します。

 「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」

 創世記2章に「土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあるように、聖書は繰り返し、わたしたちの体、いのちは、神が与えてくださった、かけがえのないものだと教えます。事実、自分の意志や力で生まれてきた者など一人もいません。ただ与えられたとしか言う外ありません。それが「神からいただいた」「主のもの」と言われることの意味です。そのかけがえのない体、いのちは、それが誰のものであっても損なうことは許されません。このことを知って生きることこそが信仰です。

 パウロは、神から「いただいた体」について語って、今日の言葉を締めくくります。

 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」

 これが、わたしたちが神のもの、キリストのものであって、もはや自分自身のものではないことの根拠です。わたしたちのこの体が、どれだけ神のみ心にふさわしいか、自分に何ができるのか、そんなことは問題ではありません。大事なことは、このわたしを、この体を、このいのちを、神が主の十字架の死という代価を払って買い取ってくださったということです。買い取られ、贖われ、救われたわたしたちは、ただ感謝して、この体で神の愛と恵みを現わすために、精一杯生きたいものです。