お話し「愛されているから…」
■たとえ話
クリスマスの季節、そして新しい年の始まりの今日、読んでいただいたのは「放蕩息子(ほうとうむすこ)」というタイトルの付けられた、イエスさまのたとえ話です。「たとえ話」って聞くと何だか、おとぎ噺(ばなし)や昔話のような、現実ではあり得ない、作られた物語、そう思うかもしれません。でもね、例(たと)えるっていうのは、本当のこと、現実の出来事がちゃんとあって、その意味をわかりやすく伝えるために、何かを引き合いに、例(れい)に出してお話をすることです。だからそこには、本当のこと、現実の出来事、真実(しんじつ)が秘められていて、それを聞くわたしたちにはそのことを本当のこと、自分のこととして聞くことが求(もと)められています。そうするとき、たとえ話はとってもワクワク、ドキドキする、みんな一人ひとりのお話になるんだ。
さて、イエスさまは今日のたとえ話を、「ある人に二人の息子がいた」と語り始めています。登場人物は、「ある人」と呼ばれるお父さんと、「二人の息子」、お兄さんと弟です。「放蕩息子」というタイトルのために、弟の話だけに目が向けられがちですが、これは「三人の物語」です。そして、主人公はお父さんに例えられている神様で、お兄さんと弟は、あなたであり、わたしです。みんなそれぞれに、ときには弟になってみたり、あるときにはお兄さんなってみたりして、今日のお話を聞いてみるといいと思います。
■弟の場合
さて今日は、自分が弟になったつもりでお話を振り返ってみましょう。
弟はどう見ても、自分勝手で、自分のことばかり考えている人です。弟がお父さんに言います。将来(しょうらい)、自分が受けとることになっている財産(ざいさん)を「今」ください、と。それは、お父さんが死んだら相続(そうぞく)することになっている遺産(いさん)の内、自分の分を前もってくれということです。愛情の欠片(かけら)もない言い方です。当時のユダヤでは、父親は家のことすべてを決定することのできる、強く大きな力と権利を持っていました。だから、馬鹿者(ばかもの)!と怒鳴られて当たり前のはずです。ところが、お父さんは叱(しか)るどころか、弟に言われるがままに、そればかりか、えこひいきにならないようお兄さんにも財産を分け与えます。何と弱々(よわよわ)しく、情けないお父さんの姿でしょう。
弟は、その財産を受けとるとサッサとお金に換(か)えて、お父さんからできるだけ遠くに離れようと旅立ちます。干渉(かんしょう)されたくなかった。お父さんのことが理解できず、煩(わずら)わしくて、自分の好きなように生きたかったのでしょう。中学生になってからずっと親に反抗ばかりし、大学に入るのを絶好(ぜっこう)のチャンスと家を飛び出した、わたしのようです。
念願(ねんがん)かなった弟ですが、遠い国で派手(はで)な生活をし、持っているものをすべて使い果たしてしまいます。すべてを失ったとき、飢謹(ききん)におそわれます。不幸は重なります。食べる物にも困った彼は、知り合いに助けを求めます。ところが知り合いは彼を豚小屋に送り込みます。豚はユダヤ人にとって汚れた動物で、豚飼いというのは最も嫌われる、絶対にしたくない仕事のひとつです。知り合いは弟を憐れに思ったのではなく、厄介(やっかい)払(ばら)いしたのでしょう。
落ちるところまで落ちて、ようやく「彼は我(われ)に返」りました。弟はお父さんのところに帰ることにします。このとき弟が、何かよいことをしたというのではありません。わたしたちの経験からすれば、「本当にすまなかった、悪かったと思っているのか」「本当に反省をしているのか」と言われてもおかしくないところです。この後に描かれる、お兄さんの怒りも当然です。弟はお父さんの面子をつぶし、善意を踏みにじり、おめおめと帰ってきたのです。自らボロボロになって、行き先を失ったのです。同情の余地(よち)などありません。
■愛しているから…
そんなボロボロの弟を、ただ父にすがるために帰って来た弟を、お父さんが「先に」見つけます。
「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」
驚くばかりです。「まだ遠く離れていたのに、父親」が弟を見つけたと言います。お父さんは待っていた、ずっと待ち続けていたのです。弟が離れて行ったその日から、去って行ったその方角をずっと見つめ続け、彼の帰りを今日か今日かと待ち続けていたのです。「ごめんなさい」という弟の言葉を遮(さえぎ)るようにして、わが子の変わり果てた姿を「憐れに思い」、走り寄って、抱きしめます。反省の言葉なんかどうでもよいのです。帰って来たわが子です。もうだれにも渡すものか。そんなお父さんの姿は、常識では考えられない、あり得ない姿です。この親はどこまで甘いんだ、愚かだ、親馬鹿だ、と世間で言われるような姿です。でも、この理解しがたい、驚くほどの愛があればこそ、放蕩息子は、弟は「帰ることができた」のです。
イエスさまは、お父さんに例えられる神様が、驚くほどの愛であなたを、ありのままの姿のあなたを愛しておられるのだ、と言われます。自分はもうだめだと思っている「あなた」、自分にはもはやどんな未来もあり得ないと思っている「あなた」、そのあなたも帰ることができる、そんなあなたをこそ、神様は待っておられる。あなたを愛しているから…。だからいつでも、何度でも帰ってきていいんだよ。そう呼びかけておられるのです。
■愛のホラ話
そんな父親と息子の間のすれ違い、冷え切っていた関係が、暖かく溶け出すように愛に包まれていく様子を描いた、とても素敵(すてき)な映画があります。それが、今からご覧いただく『ビッグ・フィッシュ』です。
『ビッグ・フィッシュ』というのは、誰も信じないホラ話という意味の言葉です。魚釣りの好きな人が自慢話を始めると決まって、両手で示す釣った魚の大きさが、だんだん大きくなっていきます。そんなホラ話ばかりを語る父親のエドワードに付いていけず、いつしか敬遠(けいえん)し、仲違(なかたが)いをするようになってしまった息子のウィルでした。でも、そんなホラ話のすべてが、たとえ話と同じように、うそで、でたらめな話ではなく、本当のこと、現実の出来事、真実がそこに隠されていることを知って、二人の関係が深い信頼(しんらい)と愛情に満たされたものに変わっていく、その様子が描かれます。こんなあらすじです。
ウィルの父エドワードは、自分の人生をとても興味深く語り、聞く人を引き付けるのが得意でした。ウィルも幼い頃は父の奇想天外(きそうてんがい)な話が好きでしたが、年を取るにつれ、それが作り話であることに気づき、いつしか父の話を素直(すなお)に聞けなくなっていました。三年前の自分の結婚式にエドワードが息子ウィルの生まれた日に巨大な魚を釣った話で招待したお客たちを楽しませた時、ついに不満が爆発。ウィルは父に今夜の主役は自分たちであると訴え、父は自慢の息子の結婚式を盛り上げるためでしたが、それが裏目に出てしまい、ウィルは一方的に父を避けるようになります。
そんなある日、母サンドラから父が病で倒れたと知らせが入ります。ウィルは妻ジョセフィーンと共に実家へと戻ります。しかし、病床でジョセフィーン相手にホラ話を語り出す父と、本当の父を知りたいと願う息子は理解し合えずじまい…。
ある日、父の荷物を整理していたウィルは古い証書を見つけます。ウィルは父の過去を聞くために、その証書に名前の記された女性ジェニファーに会いに行きます。お化け屋敷のような場所に一人で住むジェニファーから、父エドワードのホラ話の続きを聞くことになります。ジェニファーの話から、父が多くの人に愛され、何よりも妻と子を深く愛していたことを知らされます。
ウィルが家に戻ると、エドワードが入院し危篤(きとく)状態になっていました。一人付(つ)き添(そ)いをするウィルに、医師ベネットがこんな話をします。『ウィルが生まれる日に、エドワードはセールスのために出張していて出産に立ち会えなかった。そのことをずっと悔やんでいた』。だからホラ話をするんだ。それは、息子のことを心から愛しているからだ、と。
夜中、危篤の父エドワードが意識を取り戻し、息も絶え絶えに息子ウィルに自分の最期の話をしてくれと頼みます。ウィルは父の頼みを聞いてホラ話の結末を考えました。
「翌朝、元気になったエドワードはウィルとともに急いで病院を抜け出す。邪魔(じゃま)するものを躱(かわ)してカーチェイスの末に川に着くと、エドワードに関わったすべての人々が待っている。ウィルに抱えられて笑顔で別れを告げるエドワード。それをみんな笑顔で見送る。川にはサンドラが待っていた。エドワードは口から婚約指輪を出してサンドラに渡し、水中で『ビッグ・フィッシュ』となり、そのビッグ・フィッシュは川を泳いで去っていった」
ウィルの話に満足して、エドワードは息を引き取ります。エドワードの葬式に、これまでホラ話だと思っていた人々がたくさん集まってきます。その姿かたちは誇張(こちょう)されてはいましたが、本当のことを話していたと分かります。
数年後、実家のプールで遊んでいるウィルの息子が友だちに、「おじいさんは五メートルの大男と戦ったことがあるんだ」と自慢すると、ウィルは「その通りだよ」と答えるのでした。
(では、これから最初と最後の場面だけ見ていただきましょう)
どうでしたか。
ときに父である神様のことがよく分からなくなり、ときに神様のことを避けてしまうわたしたちですが、それでも父である神様はわたしたちのことを決して、見放したりしません。ありのままに、ずっと愛し続けてくださる神様です。そのことを信じて、今年も、どんなときにも希望と勇気をもって、みんなと一緒に歩いていきたい、そう願っています。お祈りします。
メッセージ『身を焦がす愛』
■「それなのに」
これからお話をしたいのは、たとえ話の後半部、兄の話です。
赦すことには、苦痛が伴うものです。やってしまった不始末に見合う罰を与えて赦すというのであれば、痛みは弟が負うべきでした。ところが、何の罰も痛みも受けず、帰って来た弟は、ただ赦され、受け容れられ、歓待さえされるのです。「家に入ろうと」しなかった兄の怒り、抗議は、当然のことです。
「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」
「それなのに」という言葉に、兄の思いが凝縮されます。普段から、友人と宴会をするための子山羊が一匹欲しいのに、と不満を抱いていたというのではありません。父が、あの弟のために肥えた子牛を屠(ほふ)ったことを聞いたとたんに、兄の心の中に、父は自分のためには子山羊一匹すらくれたことがない、という思いが涌きあがってきます。肥えた子牛は子山羊よりもずっと高価です。自分のためには子山羊一匹くれない父が、あの弟のためには肥えた子牛を屠る。一生懸命仕えている自分よりも、あの弟の方が父にとっては大事なのか、自分の努力には何の価値も認めてくれないのか、それが彼の怒りの中心です。
この怒りは、弟の帰還と、父がそれを喜んで迎えたことによって引き起こされたものです。弟が遠くの国で放蕩三昧の生活をしていようが、その結果無一物になって苦しんでいようが、兄にはどうでもよいことでした。しかしその弟が帰って来て、父が喜んで迎え入れたことによって、兄の心は怒りで満たされたのです。
兄は「あなたのあの息子が」と言っています。自分の弟のことを、もう弟とは呼びたくないのです。そこには、父に対する強い不満が込められています。弟のように父から離れ去ることもせず、その父に懸命に仕える自分こそ、愛されて当然ではないのか。それなのに、自分は十分には愛されていない。
それだけではありません。「それなのに」とは、実は、兄が父の家に留まり、父と共にいることを喜んではいないことを明らかにしています。兄もまた、父のことを本当に愛しているわけではないのです。弟は、父の家にいることを束縛と思い、そこを飛び出しました。兄は家に留まっていますが、内心では彼も、ここにいることを喜んではいないのです。長男の責任もあり、弟が出て行ってしまったから仕方なく家に留まっているのです。そこに、これだけ我慢しているのだから報いがあって当然だという思いが、より強く生まれます。弟は目に見える形で、体ごと父に背いていますが、兄は、体は留まりつつ、心は同じように父に背き、父のもとから離れ去っているのです。
この二人の息子の話は、一方は放蕩をつくした罪人で、他方は立派な、父に忠実な人の話というのではありません。実は二人とも、父のもとから失われ、罪に陥っているのです。弟の方は、家を遠く離れてしまいましたが、今、兄の方は、怒って家の中に入ろうとはしないのです。
ここにも、わたしたちと重なる兄の本当の思い、姿が描き出されます。敬虔さや熱心さの中に潜む危険、表面的な立派さ、正しさ、信心深さの陰に隠されている、自分の正しさ、自分の行いによって救いを得ようとする、深い罪が表面に現れてきます。
兄は、父の愛を、身を焦がすほどに一方的に与えられる、愚かしいまでの、驚くほどの愛を見失っています。だからこそ、怒りを父に向け、愚かなと詰るようにして攻め、結果、父を傷つけます。
■身を焦がすほどの愛ゆえに
罪を赦すということには、苦痛が伴うものです。
この父親は、兄の激しい非難の言葉に対して、しもべ数人を呼んで無理にでもこの兄を家に引っ張り込むこともできるはずです。しかしここでもまた、父親はそうはしないで、兄の非難に対して、ただ呼びかけるのです。
「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」
イエスさまの他の多くのたとえ話と違って、このたとえ話には結びの言葉がありません。結論のない物語です。この物語は、もはやたとえ話の領域を越えて、イエスさまご自身が無力になってしまうほどまでに、人々の苦しみや叫びや喜びに共感して挙げられる、身を焦がすほどのあの愛の叫び声そのものだからです。
この父親の叫びはそのままに、声の荒い人々の非難と罵詈雑言を浴びながら、十字架に死んでゆかれる、あのイエスさまの無力さと愛に重なります。この父親の無力さと愛は、イエスさまの無力さと愛であり、そして神の無力さであり、驚くべき愛なのです。
不道徳で、愚かしさの限りをつくした人々のみならず、立派な識見をもつ人々でさえも、避けることのできない、人間なるがゆえの弱さと愚かしさに共感し、「わたしだ。わたしがあなたといつも一緒にいる」と呼びかけておられるだけの、この神の無力さと愛ゆえに、この無力さと愛は、全能の無力さであり、愛なのです。
わたしたちは、父の家に帰るということ、帰るべきところに帰るということの意味について考えてきました。
その帰ったところは、喜びの祝宴の音楽や笛の音がなり響いているところだ、とわたしたちは考えがちです。しかしあにはからんや、この帰るべきその原点は、無力な父の立ち尽くすところなのです。わたしたちが経験する、わたしたち自身の愚かさや、わたしたち自身の悲しみ、その結果がもたらすものの中で、わたしたちが切歯扼腕して、この世の中に神も仏もあるものかとそう思うその場所で、身を焦がしほどの愛ゆえに立ち尽くしておられる神の無力さに出会うということ、そこにこそ、実はまことの神に出会うということがあるのではないでしょうか。
父は今、父の家を離れ去った弟を赦し、父をなじって家に入ろうとしない兄をも祝福して、そのための痛みをすべて、ご自身が負われます。父が待っていたということ、父が共にいるということの中に、父の忍耐と大きな痛みがあることを忘れてはなりません。自ら痛みを負って待っていてくれる父なる神がおられるから、弟のように、あるいは兄のように、わたしたちもまた帰って行くことができる、繰り返し、繰り返し、そうすることが許されるのだ、と申し上げることができます。
自ら痛みを負われる神、それは、愛するひとり子を十字架につけて審かれるほどに愛してくださる、実に理解しがたい、親馬鹿と言うほかない、愚かな神です。その神が、わたしたちが立ち返ることを心から喜んでくださるのです。
そのことは、神の懐(ふところ)に抱かれた後でわかってきます。自分が帰ったのではない。神が自分を見つけ出してくださったのだ、と。少しずつ、わかってきます。次第に、わかってきます。そのことがわかってきて、ゆるがない平安をいただくようになるのです。感謝して祈ります。