福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

TEL.093-951-7199

10月1日 ≪聖霊降臨節第19主日礼拝≫『すべてはあなたがたのもの』コリントの信徒への手紙一 3章18~23節 沖村 裕史 牧師

10月1日 ≪聖霊降臨節第19主日礼拝≫『すべてはあなたがたのもの』コリントの信徒への手紙一 3章18~23節 沖村 裕史 牧師

■あなたがたは神殿なのだから

 直前17節にこう記されていました。

 「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」

 「神殿の破壊」とは、教会の中にあった内輪揉め、党派争いのことを指しています。コリントの人々が、ある人は「わたしはパウロにつく」、ある人は「わたしはアポロに」、またある人は「わたしはケファに」と言って、それぞれに党派を結び、互いに対立し合っていました。パウロはそのことを念頭に、ここまでこの手紙を書き続けてきました。

 「あなたがたはその神殿なのです」とパウロは言います。神殿であるあなたがた自身を破壊し、滅ぼすことになる、そんな党派争いがなぜ起るのか、なぜそんな内輪もめをしているのか。パウロは嘆きます。

 しかしそれは決して特別なことではありません。わたしたちの社会にもいろいろな問題が起こり、毎日のように凶悪な犯罪が起こっています。どうしてこんなことになっているのか。様々な要因が考えられます。しかし決定的なのは、一人ひとりの人間が生まれ、育つ「家」「家庭」に原因があるのではないか、そう言われることがあります。

 この数年の間に起こった、様々な少年犯罪について分析した本があります。たとえば、小さい頃から万引きなどの犯罪を起こしていた子が、盗みに入って見つかってしまった。これがばれると親にひどく叱られると思って、店主を殺してしまった。また別のケースでは、小さい頃からよい子と思われていたが、それは親の目を気にしてのことで、そういう鬱積(うっせき)から犯罪に走ってしまった。神戸のサカキバラ事件がそうです。あるいは、親の大きな期待に一生懸命に応えて頑張ってきたが挫折してしまった。すると親からの関心や愛情も失われてしまい、そんなことから犯罪に走って行ったケースなども挙げられています。そしてこれらのいろいろなケースに共通しているのは、家庭、親の問題です。親は子どものことより、実は、自分のことばかりを考えています。そんな親の自分本位の渦の中に巻き込まれて、子どもたちが大きな過ちを犯してしまう、そういったケースが多いと言います。

 三浦綾子の『裁きの家』という小説に、大学教授の兄とサラリーマンの弟、二組の夫婦とその家族の中で、親子、兄弟、夫婦、嫁姑など、様々な人間関係の中に渦巻く人間模様が描かれています。この中に「むずかしいのは、共に生きるということなのだ」という言葉が出てきます。さらに「あとがき」の中にも、「『家庭は裁判所ではない』ということを、わたしは度々口にする。しかし、現代は家庭もまた裁き合う場であって、憩いの場でもなければ、許し合う場でもなくなっていると言える」と記され、本当の家、家庭とは何かが鋭く問われています。

 これは他人ごとではなく、わたしたち自身の問題です。むしろわたしたちは皆、「罪人の中で最たる者」(1テモテ1:15)です。わたしたちは、だれよりも自己本位、自分中心で罪深い者です。そんなわたしたちが一緒に生きているのですから、いろいろな問題が起こるのも当然なのかもしれません。

 だからこそパウロは16節で、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と呼びかけました。「神殿」とは「神の霊が内に住んでいる」ところです。「霊の家」と言うこともできます。教会という神の家族のことです。見える建物というよりも、見えない交わりとしての共同体です。ガラテヤの信徒への手紙5章22節以下に、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とあります。互いの自己本位によって交わりが破壊されるのに対して、愛や平和の創造者である霊が働く共同体として、一人ひとりがなくてはならない存在になって、ひとつの家が、ひとつの教会が建てられるように、パウロはそう願っています。

 

■自分を欺く

 そんな切なる願いをもって、パウロはさらに語りかけます。18節、

 「だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」

 党派争いが起るのは自己本位だから、それは自分を欺いていることだ、とパウロは言います。ここで「自分を欺く」とは「自分はこの世で知恵のある者だと考えている」ということです。およそ対立や争いの根本には必ず、こうした自分中心の思い、うぬぼれがあるのだということです。

 「いやいや、わたしは自分が知恵ある者だなどとは思っていない。むしろ全く知恵の足りない者だから、もっと知恵を得たい、求めたいと願っている」という謙遜も、無意味です。そもそもコリント教会の人々もそう考えていました。だからこそ彼らは、知恵を与えてくれそうな指導者と結びつきました。ある人はパウロに、ある人はアポロに、ある人はケファに…。どの人も立派な優れた指導者です。そういう人と結びついてより優れた知恵を得よう、より良い、より立派なクリスチャンになろうとしたのです。党派はそうして生まれました。そうしていつしか、自分たちの方があのグループよりも優れた知恵を持っているとうぬぼれ、誇り合うようになったのです。

 自分は知恵のない愚かな者ですと謙遜していれば、「自分を欺く」ことにならないのか、そんなことはありません。「知恵がないから知恵が欲しい」という思いと「自分は知恵ある者だと誇る」思いとは紙一重、コインの表と裏のようなものです。普段は表が見えていても、ひっくり返せば裏が表れます。

 

■愚かな者になれ

 そんな知恵を求め、知恵ある者となって自分を誇ろうとする思いこそが、神の神殿を破壊する元凶だ、とパウロは言います。ではどうすればよいのか。

 「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」

 パウロはそう勧めます。人間の知恵から見れば愚かなことの中にこそ、神の知恵、本当の知恵があるからです。そのことはこの手紙の中で、何度も語られてきたことです。1章18節以下にこうありました。

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。…世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」

 パウロの言う「愚かさ」とは、十字架につけられたキリストの愚かさのことです。キリストの十字架は、人間の知恵から見れば愚かなものに見えます。最も惨めで恥ずべき死です。そんな十字架の死を、自分のための救いの業と信じるなどということは実に愚かなことに思われます。それを信じることで自分が成長したり、立派になったりするわけではありません。むしろ、それを信じるということは自分がどうしようもない罪人であることを認め、キリストの十字架の死によらなければその罪が赦されない、と認めることです。「愚かな者になりなさい」とは、そんな自分の愚かさ、自分中心の罪深さをこそ受け入れなさい、ということです。

 しかし人間の知恵はそれを好みません。十字架につけられたキリストではなく、もっと自分を向上、成長させてくれるようなキリストを信じた方がいい。キリストを模範に、その教えに従って努力していくことで、自分が次第に立派になっていくことができる、そんな信仰の方がいい。それが人間の知恵の求めることです。コリント教会の人々も、そんなキリストを求めました。そうして、十字架につけられたキリストを見失ってしまいました。そしてそこに党派争いが生まれました。ただ十字架のキリストに依り頼んで、愚かな者になるのではなく、賢い、知恵ある者となろうとしたところに、神の神殿を破壊する仲間割れ、党派争いが生じてきたのでした。

 

■すべてはあなたがたのもの

 そのような「この世の知恵は、神の前では愚かなものだ」(19節)とパウロは言います。人間が努力して、自分を向上させ、立派な者、知恵ある者となっていこうとすることは、神のみ前では愚かなことなのです。

 それはなぜか。そんな努力をしたって、どうせたかが知れている。人間はいくらがんばったところで、本当に知恵ある者などにはなれないのだ、ということでしょうか。そうではありません。21節以下、パウロは「だれも人間を誇ってはなりません」という教えに続いて、だれもが驚かされる、驚かざるを得ない言葉が語られています。

 「すべてはあなたがたのものです」

 パウロは今、「すべては、あなたがたのもの」と言い切ります。これほどわたしたちを満足させる言葉はないでしょう。しかしその一方で、そんなことを言っていいのだろうかと不安になります。「すべてはわたしのものだ」などとは、神のみ心に反することではないだろうか、と。しかしパウロは続けて言います。

 「パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの」

 教会の指導者たち、この世界、自分も含めて生きること死ぬことも、今、起こっていることも、将来に起こることも、みんなあなたがたのもの、みんなわたしのものだと言います。パウロはもちろん、この「あなたがた」の中に自分も含めています。互いに互いをすべて所有することができる。全世界を所有する宣言です。

 なぜこんなことが言えるのでしょうか。「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」だからです。あなたがたはキリストのもの、あなたがたの全存在が、イエス・キリストに属している、イエス・キリストの所有になっている、と言います。あなたがたの持っているもので、これだけはイエスさまに渡すわけにはいかないというものなど一つとしてありません。そしてそのキリストご自身が神に属している、神のものです。神がキリストを持ち、キリストがあなたがたを持っているのです。そして、パウロもアポロもケフアも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることもみんな、このキリストに属している、このキリストのものです。だから、あなたがたのものなのです。

 

■キリストに所属するもの

 洗礼式の中で読まれるペトロの手紙一2章9節にも、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」とあります。四つの意味深い言葉が記されていますが、特に印象的なのは「神のものとなった」という言葉です。それは、さきほどの23節のパウロの言葉と同じ、神の所有を意味すると同時に、神の愛の対象であるというニュアンスを含んでいます。わたしたちは、この世に生まれ、この世にありながら、永遠なる神のもの、恵み深い神の所有として、天に所属するものとなったというのです。つまりわたしたちの存在の根拠は、永遠に確かな神の愛の中にあるのです。

 神谷美恵子が著書『人間をみつめて』の中で、「人間というものは、人間を越えたものが自分と世界とを支えている、という根本的な信頼感が無意識のうちにないならば、一日も安心して生きて行けるはずはなく、真のよろこび、真の愛も知りえないものだ」と語っています。この世を超越した永遠なる存在の上にわたしたちの根拠がある時、まことの安らぎがあるのです。こうして生まれつき肉に属し、滅びに定められている存在が、神の御子キリストの十字架によって、肉に属するものから神に属するものへ、滅びから救いへと方向転換させられたのです。

 またヴィクトール・フランクルに、『それでも人生にイエスと言う』という感銘深い本があります。イエスとはイエス・ノーのイエスです。ナチス・ドイツの収容所の絶望的な状況の中で、「それでもイエスと言おう」と歌い、行動した人たちがいました。そのことをフランクルは、「人間のあらゆることにもかかわらず―困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても、人生にイエスと言うことができるのです」と深い感動をもって記しています。

 この世は暗い否定の世界です。「おまえはだめだ」という声が響いてきます。たとえ成功と勝利の人生であっても、死において否定が極まります。しかし御子キリストの十字架を通して、わたしたちが神の所有、神の愛の対象とされたことによって、人生のノーからイエスへ、否定から肯定へ、滅びから救いへの喜ばしき転換が起こったのです。

 そのキリストのみ手の中にあるあなたがたにとって、あなたがたが触れるすべてのものは、あなたがたのために起こること、あなたがたのために存在するものなのです。そう信じて受け入れたらよいとパウロは言うのです。

 

■主の恵みの内に留まって

 一切はあなたがたのものという恵みは、23節の「あなたがたはキリストのもの」ということと表裏一体でした。ローマの信徒への手紙8章28節に「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とあるように、わたしたちがイエス・キリストのものとなるとき、万事が益となるという恵みが与えられます。

 イエス・キリストを信じ、教会に連なっている信仰者には、苦しみや嘆きも含めてすべてのことが、益となるように共に働く。それが、すべてのものが与えられている、ということです。パウロやアポロやケファという、それぞれに違った賜物を与えられている指導者たちの内の誰か一人だけが、自分の益となるのではなく、みんながあなたの益となっている。それなのに、与えられているもののほんの一部だけを取り出して、それを誇ることに意味があるか、パウロはそう言っているのです。

 神の建物、神殿に連なる者とされているわたしたちは、そのような恵みの中にいるのです。この恵みを味わうために、今日も聖餐の食卓が備えられています。わたしたちのちっぽけな誇りが、人間のこざかしい知恵が、この恵みを破壊してしまうことがないように、「すべてはあなたがたのもの」と言ってくださる主の恵みの内に、しっかりと留まって歩み続けたいものです。