≪説教≫
■えらい、えらい
7、8年前のこと、元旦礼拝が終わって、母が一人で暮らす実家に帰ったときのことです。実家は気楽です。上げ膳据え膳、ごろ寝でテレビ。さすがに気がひけて、母が出かけている間に、台所の食器洗いを始めました。めったにしないくせに、やるとなると変にこだわるのが男の家事の特徴で、食器を丁寧に洗い上げただけでなく、ナベやヤカンの底を磨き、シンクのゴミ受けまでピカピカにして、母の帰りを待ちました。母の驚く顔を楽しみにしながら待っていました。
ところが、帰ってきた母はそれに気づきません。けなげな息子の渾身の努力も知らず、何事もなかったかのように夕食の支度を始めてしまいました。もちろん、母に悪気などありません。日常のことほど、言われなければ案外気づかないものです。
しかしそのとき、妙に苛立ったのを覚えています。さりげなく、「ああ、お皿洗っといたよ」と言ってみましたが、「あらそう」と流され、余計に苛立ってしまいました。いい年をした息子は一体、何に苛立ったのでしょうか。
物心つく頃の親のひと言は、その子の人生を左右するほどの力を持っています。なかでも、「えらいね」とほめられる体験は決定的な影響を与えます。「あら、よくできたねえ、えらい、えらい」。「おや、自分でパジャマ着たの、えらい、えらい」。「まあ、一人でお片づけしてくれたの、えらい、えらい」。そんなひと言で、幼い心はどれほど誇らしく満ち足りることでしょう。その甘美な経験は脳の中に、心の奥底に深く刻まれ、さらなる「えらい、えらい」を求めて必死に努力するようになります。
ところが、大きくなれば世の中はそう甘くないことを知ることになります。もはや自分で服を着ても「えらい、えらい」とは言ってもらえず、がんばっていい成績を取っても言ってもらえず、職場でいい働きをしても言ってもらえず、牧師になっても言ってもらえず、シンクのゴミ受けをピカピカに洗っても言ってもらえません。
どうやら、どんなに大人になっても、心の奥には小さな自分がいて、だれかに「えらい、えらい」と言ってもらうために必死になっているようです。あの正月の苛立ちは、いい歳をしてなお、母親の「えらい、えらい」を求める、切ない不満が原因でした。
このときの弟子たちも同じだったのかもしれません。
■だれがいちばん偉いのか
「弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った」
マルコによる福音書によれば、イエスさまがご自分の受難を繰り返し教えているその道すがら、弟子たちは「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」と言います(9:33-34)。何と幼稚で、愚かなことを、と驚かざるを得ません。しかしそれでも、「だれがいちばん偉いのか」というこの問いは、弟子たちにとって、またわたしたちにとっても、とても重要な問いです。厳しい競争社会を生きる外ないわたしたちの心の奥深くには、とにもかくも、人から「えらい、えらい」と言われたいという切ない望みが渦巻いているからです。
ペトロがキリスト告白をした直後に、イエスさまの受難予告を聞いた弟子たちは驚き、その言葉を遮ろうとし、逆に「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」とイエスさまから叱責されました。イエスさまが苦難の僕としてのキリスト、救い主であるということを弟子たちが受け止めることができなかったのは、彼らのキリスト理解の問題であると同時に、それは、彼ら自身の生き方の中にある上位志向、権力志向の表れでもありました。だからこそ、弟子たちは、受難への道を歩まれるイエスさまのことを理解することができず、その後に従うこともできません。「だれがいちばん偉いのか」と問う弟子たちは、イエスさまからも、イエスさまを遣わされた父なる神からも、隔たり、対立することになります。
■子どもを真ん中に
そんな弟子たちからの問いかけを受けて、イエスさまは一人の子どもの手を取り、彼らの真ん中に立たせます。
その子は一体、どういう子どもだったのでしょうか。戦災孤児の一人ではなかったかという人がいます。今も変わらぬ、当時のパレスティナの歴史的な状況を思えば、大いに肯けることです。こう書いています。
「カファルナウムの町の陰に、親を失った子どもたちが何人か命をつないでいた。孤児となった理由は様々。兵士に殺されたもの、病に奪われたもの、生きたまま別れ別れになったもの、貧しさゆえに生きながら捨てられたものもいた。守るものがなくても、自分の力でどうにか生き延びようとしていた子どもたちにとって、カファルナウムの静けさはあまり居心地のいいものではなかった。人々は、時には思い出したように親切にしてくれたが、また気まぐれに冷たくあしらった」
当時、子どもは、可能性を秘めた、純粋無垢な、庇護されるべき存在というのではありませんでした。まともに働くこともできない、教育と躾を必要とする、愚かで、不完全な、小さな大人に過ぎませんでした。ある注解書には、そんな子どもたちの置かれた状況がこう記されています。
「飢饉、戦争、病気、社会混乱の中で、最初に被害をこうむるのは子どもだった。地域や時期によっては、大人になるまで両親が生きていることは、ほとんどなかった。孤児は、社会の最も弱く傷つきやすいメンバーの代表的存在だった」
このとき、イエスさまが弟子たちの真ん中に立たせた子どもが、そういう孤児の一人であったということは十分にあり得ることです。
ところが、だれがいちばん偉いかなどと議論していた弟子たちに、そんな子どもの存在など眼中に入るはずもありません。そういう存在が眼中に入らないということこそが、だれがいちばん偉いかと議論する弟子たちの本質を、問題性を表しています。
そのとき、イエスさまは、その見知らぬ孤児の手を取って、招き入れ、そんな弟子たちの真ん中に立たされたのです。片隅にではなく、真ん中にです。イエスさまは、その子どもを受け入れるということのありようを、はっきりと示されました。それは手本を示されたというようなことではなく、イエスさまの普段の振る舞い、とても自然なしぐさとして、そのようにされたのではなかったでしょうか。
イエスさまは、罪人としての苦しみと悲しみ、孤独と絶望の中にいた人々に、天の国が、神の愛の御手が今ここにもたらされていることを現実のこととして示すために、多くの癒しの業、奇跡をなされました。それと同じように、人よりも抜きんでることばかりを望む弟子たちから無視され、隅っこに追い払われていた、その子どもを真ん中に招き入れ、祝福されたのです。
■受け入れてくださる
この弟子たちの姿は、わたしたちの姿でもあります。自分の仕事に熱中し、自分の悩ましい現実に思い煩いを傾けるとき、そこにいる「いと小さき者」の存在は眼中に入りません。たとえ入ったとしても、せいぜい話の話題に取り上げて、憐れみの対象として見る程度でしかありません。それがわたしたちの現実です。
しかしそういう現実を越えて今、イエスさまが続いて語られた言葉に、わたしたちの頑なな心が打ち砕かれます。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」
目の前に、真ん中に招かれた子どもの、誇らしげな顔が目に浮かんでくるようです。
イエスさまは言われます。低いものこそ、いちばん偉い。低くされているこの子どものようになりなさい。そんな子どもを受け入れるものは、わたしを、またわたしを遣わされた父なる神を受け入れるのだ、と。
そうなのです。それで十分でした。この子どものように、少しも偉くなくても、神様から愛されているなら、もう、この世のだれからも「えらい、えらい」と言ってもらう必要などありません。むしろわたしたちは、イエスさまに招かれ、神様に抱き上げられている祝福、幸いを忘れてしまったときに、だれかから認めてもらおうとし始めます。
天の国は、神の愛の御手は、わたしたちを招くように、今ここに差し出されています。直前でイエスさまがペトロに言われたように、わたしたちはもうすでに「神の子ども」なのです(17:26)。天の父である、まことの親の喜びとされています。いのちを捨てるほどに、愛されているのです。ですから、それ以上に、何かえらいものになる必要などありません。今朝も、そして毎朝、目覚めてほほえむだけで、天の父がわたしたちを真ん中に招いて、立ち上がらせ、「えらい、えらい」と言ってくださっているのです。
■裁きの宣言
そしてイエスさまは、子どもを真ん中に立たせ、その体にそっと手を置かれたままで、6節以下、「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は…」と続け、神様が、小さな一人が滅ぼされることを驚くほどに激しく憤られるお方である、と語られます。
イエスさまはここで、「小さな者の一人」に「わたしを信じる」という言葉を付け加えておられます。この小さな者の一人とは、抽象的で、一般的なだれかというのではなく、弟子たちのすぐそば近くにいる、イエスさまを信じて後についてきている人々の中の一人、今、わたしたちの目の前にいる、具体的な「小さな者」の「一人」のことです。
「だれがいちばん偉いか」と議論し合っていた弟子たちの眼には全くとまらなかった、痩せこけた、薄汚れた子どもと同じように、小さく、弱い、この信じる者の一人ひとりが、どれほどかけがえのない者なのか、神様が愛してやまない者なのか。その神の愛を思うとき、その一人をつまずかせ、誤らせる者は、くびきのように大きな石臼を首にはめられて、海の中に「投げ込まれる」、滅ぼされると言われます。それでも「その方がその人にとって、ましだ」と言われます。つまり、この小さな者の一人をつまずかせる者には、この世での滅びよりももっと恐ろしいことが待っている、それほどの神の裁きがもたらされることになる、そうイエスさまは言われます。
さらに続けて、「世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」と、この世の災い、つまずかせる者への裁きを宣告された上で、自分自身がつまずき、誤る人は、「手」「足」「目」を失わずに「地獄に投げ込まれるよりは」、それを失ってでも「命にあずかる方が〔、天の国に入る方が、神の愛にあずかる方が〕よい」ではないか、と言われます。小さな者の一人をつまずかせる罪を犯し、自分自身がつまずき、誤る人は、神の救いにあずかれず、「地獄」に投げ込まれる、つまり神の裁きの前に滅ぼされることになる、そう宣言されるのです。
身震いするほどの言葉です。
この言葉には、一人の子どもをそっちのけにして、「自分たちの中でだれがいちばん偉いか」と議論する弟子たちに対する、そしてそれはとりもなおさず、神の正しさと偉大さと栄光ではなく、自分の正しさと偉大さと栄光ばかりを求めて、自分自身をつまずかせているこのわたしたちに対する、イエスさまの、神様の強い怒りが表れています。この子どもと同じように、小さく、弱くされた者の一人をつまずかせるのは、自己責任、自立、受益者負担、平等、権利という言葉を巧みに使いこなして、実は、自分の正しさと力と名誉ばかりを求めている、わたしたち自身の中にある「罪」です。イエスさまは、今、その罪を厳しく戒められます。
■えこひいきの神
と同時に、この身震いするほどの言葉には、小さくされている者に対する、イエスさまの深い愛が込められています。
イエスさまは、小さくされた者たちに、特別の愛情を注がれます。イエスさまはすべての人を等しく、同じだけ愛されたのではありません。イエスさまの示された愛は、小さくされた者、貧しくさせられた者に、優先的に注がれるものでした。
20世紀後半、戦争や植民地政策などの反省の中から、世界の教会は一つのスローガンを共有することに成功しました。それは、“Option For The Poor”、「貧しい人々への優先的選択」です。ある人はこの言葉を「えこひいきする神」という逆説的な言葉で説明します。神の愛は、この世の貧しくされた者、弱くされた者に、えこひいきなまでに優先的に注がれるのだということです。
そんな「えこひいき」は腑に落ちないと思われるかも知れません。わたしたちは、自分の利益にならない、利益が損なわれるとなると途端に目くじらを立て、そんなの不公平だと言い募ります。小さく、弱くされている人の問題、それは、その人自身の問題であって、気の毒ではあるが、自分の手に余るし、わたしとは何のかかわりもないといった無関心と無神経さが、人をつまずかせます。そして何より、「小さな者をつまずかせる」ということは、実に、そうする自分自身をもつまずかせることです。神様から与えられた似姿としての人としてのあるべき姿を自ら否定することです。そのとき、神の裁きによって滅びへと至ることになります。
しかし、ここでイエスさまが語られている言葉がどれほど激しく、厳しいものであったとしても、イエスさまが求めておられることは、神の裁きによる滅びではありません。
わたしたちがつまずかせる者、つまずく者であることを、実に罪ある者であることを、イエスさまはよくよくご存じです。そんなわたしたちであればこそ、神様は、「えこひいき」して有り余るほどの愛をこのわたしたちにも注いでくださっているのです。
だから、あなたたちも、イエスさまの十字架の道に従い、自分の大切なものを削って、小さなものに優先的に愛を注ぎなさい、隣人をつまずかせず、否定しないようにしなさい、そうすることで、自分の正しさや力や栄光を求めず、ただ神の義と力と栄光にすべてをゆだねて歩み、互いに平和と平安に過ごしなさい、イエスさまはそう諭してくださるのです。
神のえこひいきは、小さくされた者にだけではなく、無意識にか意識的にかに関わりなく、そのような人をつまずかせる、まさに罪あるこのわたしたちにこそ向けられているのでした。それこそが神の愛でした。
その神の愛を語られるイエス・キリストの言葉に従っていきたいと願います。そのことが、わたしたちを滅びから救い、この世において天の国をもたらすことだと信じつつ歩みたい、そう心から願う次第です。