福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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10月13日 ≪聖霊降臨節第22主日/秋の「家族」礼拝①≫『あの子たちと仲良く!』(こども・おとな)『隣人になる―いのちとの出会い』(おとな) ルカによる福音書 10章25~37節 沖村 裕史 牧師

10月13日 ≪聖霊降臨節第22主日/秋の「家族」礼拝①≫『あの子たちと仲良く!』(こども・おとな)『隣人になる―いのちとの出会い』(おとな) ルカによる福音書 10章25~37節 沖村 裕史 牧師

お話し 「あの子たちと仲良く!」(こども・おとな)

■みなさんだったら、どうしますか?

 イエスさまは「善(よ)いサマリア人」という話を、わたしたちにしてくださいました。今日はみんなで、この話にでてくる人たちになってみましょう。

 さて、何人の人たちがでてきましたか?

 まず、旅をしていて強盗(ごうとう)に襲われ、けがをした人がいます。この人はユダヤ人でした。とっても苦しそうです。持っているものも着ているものも全部取られて裸にされ、ひどいけがをしています。このままでは死んでしまいそうです。みなさんだったら、どうしてほしいですか?もちろん早く誰かきて助けてもらいたいですね。きっと同じ仲間のユダヤ人なら助けてくれると思ったでしょう。

 そこに、ユダヤ人の祭司さんがやってきました。神殿というところで神さまのご用をしている人です。みなさんが祭司さんだったらどうしますか?もちろん助けるでしょう。だって神さまのご用をしている人なんですよ。しかしこの祭司さん、その人を見ながら道の向こう側を通って、知らんぷりをしました。なぜでしょう。強盗が出てくるような場所に近づきたくなかったからかもしれません。いえ実は、死んだ人に触れたら穢(けが)れると言われて、神殿の仕事ができなくなるからです。たぶんもう死んでいると自分で決めて、見なかったことにしたのでしょう。

 次にまた、ユダヤ人のレビ人がやってきました。この人も、さっきの祭司さんたちを助けて、神さまのご用をする人たちです。みなさんがレビ人だったら、どうしますか?もちろん助けるでしょうか。いやいや、祭司さんが助けなかったのだから、レビ人さんも知らんぷりでしょうか。そうなんです。レビ人さんも、死んでいる人には近づけないと行ってしまったのです。

 その次にやってきたのは、サマリア人でしたね。サマリア人は、ユダヤ人から嫌われていました。いつも相手にされなかったのです。そんなサマリア人が、この人のところまで来ました。みなさんがサマリア人だったら、どうしますか?いつも馬鹿にされたり、いじめられたり、嫌われたりしていたら、助けようとは思わないかな。そこにいるのはユダヤ人なんですから。同じユダヤ人の祭司さんやレビ人さんに助けてもらえばいいだろう、って思いますか。

 イエスさまのお話では、そのサマリア人は心から憐れに思って、急いで近寄ってきて慯の手当てをしました。いま何が一番大切なことかを考えたのです。普段(ふだん)から持っているもので、できるかぎりのことをしたのです。それだけでなく、自分のロバにのせて宿屋(やどや)へ連れていきました。お金がなくなったこの人の治療代、宿代、かかったお金の全部を払ったのです。そして、もっとかかったら帰りに払いますと約束までした、というのです。どうしてそんなことができたのでしょうか。強盗に襲われた人の、その身になって考えたからでしょうね。

 

■あの子たちと仲良く!

 さてここで、映画をいっしょに見ましょう。映画のタイトルは『八月のメモワール』。メモワールっていうのは「おもいで話」っていう意味です。

 今から50年以上前の1970年8月、アメリカはミシシッピー州の小さな町でのこと。ベトナム戦争から帰って来た、父親のスティーヴンは、戦争で心に深い傷(きず)を負(お)っていました。トレーラーハウスに住む一家の家計(かけい)は苦しく、ふたごの姉と弟、リディアとステューは、母親のロイスといっしょに貧しい生活を送っていました。

 姉弟(きょうだい)は、森の大きな樫(かし)の木にツリーハウス(木の上の家)を作ることを計画、それぞれ仲のいい友だちと材料(ざいりょう)を探し始めました。ステューは、リプニッキという家のガラクタ置場(おきば)に目を付けます。ところが見つかってしまい、リプニッキの六人兄弟からボコボコに殴(なぐ)られ蹴(け)られ、口に傷を負います。

 スティーヴンはそんな息子(むすこ)の傷に気づいて、「どうした?」と尋ねます。リプニッキの兄弟に蹴られたと話し、ステューが「我慢(がまん)しているけど、ときどき首をへし折りたくなる」と吐(は)き捨(す)てるように言うと、スティーヴンは「これっぽっちの我慢を忘れると、一生後悔することになるぞ」と諭(さと)します。

 スティーヴンは、以前精神科で治療を受けていたことが分かって、ようやく見つけた小学校の仕事をわずか一週間で失ってしまいます。それでも彼は、家族のために売りに出されていた家を手に入れようと、危険があっても高い賃金(ちんぎん)をもらえる石切り場の仕事に就(つ)くことにします。母親のロイスを驚かせようと、家のことは息子ステューとの秘密にします。パパはまたすぐクビになると言う姉のリディアに、ロイスは、父さんはわたしの一部なの、その父さんのことを悪く言うことはわたしを悪く言うこと、非難(ひなん)は許さないと強く言ってきかせます。その夜、リディアは父親と言葉を交わし、「父さんが年をとって死んだら、天使になってわたしを見守ってね」と甘えます。

 売りに出されていた家の競売(けいばい)に出かけたスティーヴンとステューは、ささいなことからリプニッキの父親と子どもたちに絡(から)まれます。スティーヴンは争いを避けようとしますが、ステューに身の危険が及(およ)びそうになり、思わずリプニッキの父親に暴力をふるい、息子に謝(あやま)らせ、また彼を罵(ののし)ったステューにも謝罪(しゃざい)させます。そのすぐ後、ステューは再びリプニッキの子どもたちに暴力をふるわれて激しく怒ります。ところが、父親のスティーヴンは暴力をふるった子どもたちに家族のために買った綿菓子(わたがし)を与えます。「どうして?」と憤(いきどお)る息子に、スティーヴンは「あの子たちは何ももらったことがないから」と答えます。スティーヴンは、怒りのおさまらないステューをツリーハウスのところに連れて行き、こう言います。

 「あの子たちと仲良くな!」

 「自衛のための喧嘩さ。父さんだって戦争で戦ったろ?」

 「戦ったよ。人を助けようとして。だが助けるより、大勢を殺してしまった」

 「……」

 「大勢の友だちも失った。誇りを失い、家を失い、家族を失いかけた」

 そして、重症を負った親友をやむをえず戦場に置き去りにした体験を告白し、「自分自身と国を許そうと努力した」と涙を流します。ステューも涙を流しながら父親スティーヴンにしがみつき、「もう喧嘩はしない」と約束します。

 しばらく後、スティーヴンが同僚(どうりょう)を助けようとして、石切り場で重症を負い、その数日後に死んでしまいます。ツリーハウスをめぐる、リプニッキ兄弟とステューたちとの間に争いが起こり、激しさを増し、いつしか本物の戦場にダブって見えるほどになります。そんなとき、リプニッキ家の末っ子ビリーが、古びた給水塔に落ちて溺(おぼ)れます。ステューとリディアは争いも忘れて、危険をかえりみず必死に救出(きゅうしゅつ)します。

 子どもたちがツリーハウスに飽きたころ、売りに出されていた家が落札されたとの知らせが届きます。家はおんぼろですが、新しい生活にやっと幸福の予感が漂(ただよ)います。リディアが学校の作文の時間に、父が残してくれた夏の思い出を誇らしげに朗読する姿が映し出されて、この映画は終わります。

 

 ここで、ツリーハウスの下でのスティーヴンとステューのやり取りの場面を見ていただきましょう。

 

 さて、いかがだったでしょうか。

 イエスさまは「誰が襲われた人の隣人になったと思う?」と聞かれました。隣人って、すぐそばにいてくれる人ってことです。ここで、みなさんに最後の質問です。隣人になったのは誰ですか?祭司さんですか、レビ人さんですか、それともサマリア人でしたか。言わなくてももう分かるよね。

 サマリア人が「憐れに思い」って書いてあるけど、それはただかわいそうに思ったということじゃなくて、その人のいのちを本当にかけがえのないもの、心から大切に思った、愛したってことでした。

 イエスさまは「行って同じようにしなさい」と言われました。困っている人、悲しんでいる人のそばに行って、わたしがその人の隣人になる。それってすばらしいことだと思いませんか!

 

メッセージ 「隣人になる―いのちとの出会い」(おとな)

■あなたの敵を愛しなさい

 「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」(マルコ12:31)

 イエスさまの教えは「愛の教え」と言われるほどに、新約聖書の中には愛という言葉が溢れています。

 ギリシア語には「愛」を意味する言葉がいくつかあって、そのひとつはエロス。これは、家族愛、友情、恋愛、自分を高めようとする自己愛など、わたしたちが日常的に経験する情愛のことを意味します。そして、もうひとつがアガペー。自分を犠牲にしてまで他者を愛する愛のことです。神の愛は、このアガペー的な愛で、決して見返りを求めない純粋な愛と言われています。つまり最も偉大な愛とは、自分を犠牲にして他者のためにいのちをささげる愛で、イエスさまは、「友のために自分の命を棄てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と、このアガペー的な愛のことを語っておられます。

 そういえば、以前見ていただいた映画『デッドマン・ウォーキング』では、シスター・ヘレンからイエスさまの無償の愛を見つめるよう助言された時、死刑囚のマシューは「俺とキリストさんとじゃ、考え方が違う。片方の頬を打たれたら、もう一方も差し出すんだろ」と嘯(うそぶ)きました。マシューが言っていたのは、ルカによる福音書に出てくる、よく知られたイエスさまの言葉です。

 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者のために祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」(ルカ6:27-29)

 イエスさまはここで、敵を憎悪して力でねじふせることで、自分の平安を得ようとする発想そのものに疑問を投げかけています。いったい「敵」とは誰なのでしょう。違った民族に属する人は、それだけで敵なのでしょうか。力による征服しか、平和への道はないのでしょうか。

 イエスさまはそのことを、今日の「善いサマリア人のたとえ」を通して問いかけました(ルカ10:25以下)。

 一見すると、このイエスさまのたとえ話は、ただ他人には親切にしなさいという道徳的な教訓としか読みとれないかもしれません。けれども、このたとえ話のポイントは、イエスさまがあえて、隣人の例としてサマリア人を登場させていることです。

 イスラエル王国が南北に分裂した時から、北王国イスラエルと南王国ユダとは互いに反目するようになり、ユダヤの人々とサマリアの人々とは敵と味方、憎悪の関係にありました。サマリアはもともと、北王国イスラエルの都があったところでしたが、アッシリアに滅ぼされ、アッシリア人と混じって人々が暮らした地でした。とりわけサマリア人は、ユダヤ人がエルサレムに中央神殿を建てた時に、そんな神殿は認めないとその正統性を拒んだため、両者は最悪の関係で、互いに挨拶することさえありませんでした。

 互いに敵対する関係にあったユダヤ人とサマリア人。この関係をよく知っている人にとって、このサマリア人の行いは信じられないものでした。そこでイエスさまが、「さて、では今の話の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問いかけた時、律法学者は、サマリア人ですと答えるのも忌々しく、あえて「その人を助けた人です」としか言わなかったのです。ユダヤ人にとって「隣人」とは、あくまで自分と同族のユダヤ人であって、サマリア人ではありえませんでした。

 イエスさまは、その憎悪をひっくりかえされました。イエスさまが単に、他人には親切にしなさいと言うのであれば、何もわざわざサマリア人を挙げる必要などなかったのです。しかしイエスさまは、あえてサマリア人を挙げて、あなたが憎む敵をこそ愛しなさい、と言ったのです。

 

■いのちと相対する

 サマリア人は、倒れている人に手を差し伸べ、ロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました。ここに、隣人を愛するとはどういうことなのか、が示されています。

 イエスさまの「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」という問いから分かるように、ユダヤ人との間の敵意やわだかまりを乗り越えて、倒れている人の「隣人になった」ということです。隣人を愛するとは、隣人になることです。隣人とは、「誰かと捜す」ものではなく、「なる」ものだということです。それが、「行って、あなたも同じようにしなさい」という言葉に込められています。

 隣人とは誰か、誰を愛したらよいのかと考えている間は、隣人を愛することはできません。大切なことは、「通りかかった」という言葉に示唆されているように、それを偶々(たまたま)のこととせず、“Now or Never”、「今、でなければ二度とない」出会いとして、今、なすべきこととして、人生の歩みの中で出会う人の「隣人になる」か、どうかなのです。隣人になろうという思いをもって、その出会いをかけがえのないものとし、その人と相対するのか。それとも、この人は自分が愛すべき隣人なのか、そうでないのかと考え、その出会いをやり過ごし、隣人とそうでない人との間に線引きをしていくような思いをもって、人と、そのいのちと相対するのか。そのことが問われています。

 そして、このたとえを読むたびにわたしはいつも責められるような思いになります。そうすることができていない自分に失望をするからです。しかし大切なことは、イエスさまご自身が「善きサマリア人」であることです。立ち直ることができないほどに傷ついているこのわたしに、手を差し延べ、自分の背中にこのわたしを負い、ロバにのせて、休み、眠ることのできる宿屋にまでつれて行って、介抱し、死にかけていたこのわたしを生かし直させてくださるのです。そのとき手を差し延べているのは、イエスさまご自身です。イエスさまは、わたしたちに「そうしなさい」と言われる前に、まず、ご自身のいのちをかけて、わたしたちに仕えてくださるのです。そのことにいつも心を打たれ、またこのたとえを通して、支えられ生かされていることのありがたさを思わずにはおれません。

 わたしたちは、律法の専門家と同じように、イエスさまからの問いによって、自分が神様も隣人も愛することができておらず、結局は自分だけを愛していることに、いえ、その自分さえ愛することができずにいることに気づかされては、言い訳や自己弁護ばかりしてしまう者です。

 それでもなお大切なことは、イエスさまからの「あなたはわたしの言葉をどう聞いているのか、そのように生きているのか」という問いかけを聞き続けることです。この「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスさまの言葉を、自分に対して語られた励まし、導きとして聞き、それぞれが出会う人との交わりの中で自分の手を差し伸べて、隣人となろうとすること、そのことだけです。