メッセージ
■受けいれる
パウロは今、「信仰の弱い人を受けいれなさい」と語り始めます。
彼は、同じ世界に生きる者でありながら、互いを受けいれ合うことができない、わたしたちの現実を見つめています。教会を初めて訪ねて来られる方たちが、教会の中に温かな人と人との交わりがあることを喜ばれ、そこから信仰へと目が開かれるといった経験をされることは決して少なくないでしょう。しかし逆に、そのことに疲れ、躓き、教会から遠ざかってしまうという経験をなさる方もおられます。パウロは、そんな人と人との関係の重さ、辛さ、悲しさから目をそらさず、「受けいれなさい」と語ります。
この「受けいれる」には「ねぎらう」「もてなす」という意味もあり、「家族のように他人(ひと)を受けいれる」といったニュアンスを持つ言葉です。「まあいいや、あの人がここにいても仕方がない、いたいだけいさせてやろう」という受けいれ方ではなく、そこにその人がいることを喜び、もてなし、ねぎらう、そういう思いで自分とは考えや生き方の違う人をも受けいれなさいと勧めています。
しかも、「その考えを批判してはなりません」と付け加えます。受けいれるのにも、いろいろな受けいれ方があります。「じゃあ、あの人にも残ってもらおうか。どうぞ、どうぞ」と言い、お茶をご馳走(ちそう)し、お菓子を食べさせておいて、「時に、あなたのその考えは問題だよね」などと批評するようなことをしてはならない。その人の考えが自分と違っているとしても、一方的に論評し、対決をして、その人の間違いを正してやろうなどという考えで、自分たちの交わりの中に受けいれるということがあってはいけない。そうパウロは言います。
■軽蔑
そして続けて、より具体的で、日常的な生活の問題を通して、わたしたちに語りかけます。
「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならない」
この世の中には、生き方が違い、考え方が違う人がいます。当然のことです。ところが、そうすると、どうしても自分と考えの違う人を「軽蔑し」「軽んじて」しまいます。「軽蔑する」「軽んずる」とは、相手を重く見ないということですが、もともとのギリシア語の意味は、ただ相手を重く見ないというだけではありません。それは、存在を認めないという、もっと強い「拒絶」を意味しています。そこにその人がいるのに、いないことにしてしまう、そんな意味の言葉です。
謙虚に、心の内にある自分自身の姿を振り返ってみると、意識してか無意識かは別にして、自分の気にいらない人を、その人はいないことにするという形で解決をしてしまっていることに、ハタと気づかされることはないでしょうか。そして、そのような解決方法が、実は何の解決にもならないばかりか、自分自身のあり方をひどく歪(ゆが)めていることに、愕然(がくぜん)とされることはないでしょうか。わたしたちは、人と人との関係を生きるほかない存在です。ですから、相手の存在を心の中で打ち消そうとすることは、わたし自身の存在そのものをも否定しようとすることです。仮にそうせざるを得ないとすれば、それは、とても深刻で悲しいことです。
にもかかわらず、その時々に、その人がそこにいることが邪魔になります。しかもここでは、食べる者が食べない者を軽んずるだけでなく、食べない者も食べる者を裁いています。「裁く」ということは、「軽んずる」よりももっとはっきりと意識して、相手の罪を問い、罪ある者として非難し、罰しようとする、頑(かたく)なな心です。
■裁く
わたしたちは、互いを「拒絶」し、「断罪」し、疎外(そがい)し合うような、頑な心を、どのように克服することができるのでしょうか。4節、
「他人の召使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」
裁くことは決してよくないとわたしたちも知っています。なぜいけないのか。相手の人権を重んじなければならない、自由を奪ってはならないと言われるかもしれません。けれども、あなたの裁いている人、その人は他人の召使い、他人の僕(しもべ)ですよ、という言い方をするでしょうか。「あなたが裁いているのは」あなたの家の者ですか、他人の家の者ではないのですか、あなたにその人を裁く権限があるのですか。
この「他人」という言葉は、言うまでもなく、わたしたち以外の人のことです。わたしたちは、誰のものでもなく、主のもの、神様のものなのだ、とパウロは言います。人はすべて、主のもの、神様のもの―これが人間の尊厳(そんげん)の根拠です。人のいのちは神様から与えられ、イエス・キリストによってかけがえのないものとして贖(あがな)われたものです。それを人が裁いたり、軽んじたり、差別したり、支配したりすることは赦されません。「誰にも」赦されることではないのです。
■しかし立ちます
ですから、主人である神様が引き立ててくれればその人は立つし、打ち倒されたらその人はもうどうしようもなくなる、そう言った後でパウロはすぐに、こう言います。
「しかし、召し使いは立ちます」
確かに、わたしたちは倒れることがあります。絶望の中に倒れ伏すほかなくなることがあります。それでも、倒れても、また立ちます。立つことができます。主が立たせてくださるからです。立たしてくださるのは、神様である主人のなさることです。主は、わたしたちを立たせてくださることができるのです。
僕、召し使いであるわたしたちを鞭(むち)でひっぱたいておいて、死ぬほどまで苦しめておいて、わたしはお前の主人だぞというのではなく、過ちと罪のために息も絶え絶えに倒れている僕を、わたしを立たされるのです。そういう主人がわたしたちと共におられ、今も、わたしたちすべてを立たせてくださっている、というのです。
そういう主がおられるのです。
以前にもご紹介したことのある、絵本の編集者であり、カトリックの信徒でもある末盛千枝子さんという方が、こんな一文を書いておられます。
「『求めなさい、そうすれば与えられるであろう』という聖書の言葉の、何と温かいことでしょう(マタイによる福音書7章7節)。
しかし悲しいかな、私たちはつい、自分の目の前にある困難や苦しみを取り除いてもらうことばかりを考えてしまいます。でもそれでは、ただ単にご利益を求めることになってしまうし、だいたい、神さまを自分に都合よく利用するようなことになりはしたいでしょうか。
小さな息子たちと私を残して夫が急死したとき、私は「これからもまだまだ、いくつもの困難があるだろう。でもそのときに、必ずそれを乗り越える力が与えられるに違いない」と、心の底で語りかげる声を聞いていました。
あれから二十年近くたったある日のこと、長男がスポーツ事故に遭い、九死に一生を得たのですが、脊髄損傷で、胸から下が一切動かない重度の障害を持つことになってしまいました。周りはどれほど嘆いたことでしょう。しかし、本人は悲しい顔をしながらも、じっと耐えて、過酷なリハビリに励みました。そして、両手が動くのを幸いに、いまではパソコンで世界中と交信し、自分なりの生活を送っています。
私はそのような息子を見なから、彼の姿に深い尊敬を覚えます。そして、そのような息子を見ることができる幸せを感じます。これは、あのときの苦しみと悲しみの果てにたどりついたもので、いまになって、求めたものはすべて与えられていたと思うのです。
あの聖書の言葉が裏切られることはなかったのだと思っています。」(『ことばのともしび』新教出版社、14~15頁)
■主のもの
生きていく中で、言葉では言い尽くせぬほどの困難や悲しい出来事に出会うことがあります。そのような困難や悲しみをわたしたちが、そのままに受け入れることができればよいのですが、過去を振り返り、今を見据(みす)える時、そうした出来事の多くが如何(いか)にも理不尽に思えます。それでも、その困難を乗り越えなければなりません。そうしなければ生きていくことさえできません。
わたしたちは、泣いて諦めようとしたり、それと気づかないままに心の中に封をして忘れ去ろうとしたり、ときには誰かを責めることで自分の重荷を軽くしたり、もしかすると、すべてを神様のせいにしたりするかもしれません。また、そのような悲しみや苦しみは、一人では担(にな)えなくても、二人であればまだ担いやすいように思え、溺れる者が藁(わら)をも掴むように、誰かにすがりつこうとするかもしれません。確かに神様は、一人では重すぎる人生の重荷を、二人で担い合うようにと男と女を造られましたが、そのようにして結ばれたパートナーであっても、悲しみや苦しみが大きければ大きいほど、それを担う合うことは決して容易なことではありません。
そんなわたしたちに、8節のみ言葉が心に深く沁みます。
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」
悲しみや苦しみを避けることのできないわたしたちの人生すべてが、わたしたちのいのちそのものが、神様のものだと言います。神様のものだからこそ、どれほどの悲しみや苦しみの只中にあっても、神様はわたしたちと共に生きて、いつもわたしたちの傍らにいてくださる。どんなときにも神様はわたしたちを丸ごと抱えてくださっている、というこの確信はどんな助けよりも心強く、わたしたちを勇気づけるものです。その信仰があれば、どれほどの困難にも、死という悲しみにも立ち向かっていくことができる、そう思えます。
だから、わたしたちの人生を、そのような神様によって立たされ、生きている人間として、与えられているその愛にふさわしいものとしようではないか。パウロは今、心を込めて、わたしたちにそう語りかけています。