≪説 教≫
■天国の福音
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
この言葉は、永遠につながる喜びとは何か、救いとは何かについて、わたしたちに教えてくれます。
イエスさまがわたしたちと共にいてくださる。それもただ、わたしたちの間にいてくださるというのではなく、原文のままに訳せば、わたしたちの「真ん中に/只中に、今も/これからもいる」と約束してくださっています。
どこか片隅におられるというのではありません。優秀で熱心な人の近くにいて、何もできない人からは遠くにおられるというのでもありません。二人、三人の誰であれ、共に集うわたしたち一人ひとりのすぐ傍近くにいてくださる。それも、いつともわからない将来のことではなく、喘ぎつつも生きている「今このとき、ここに」共にいてくださる、と約束してくださっているのです。
イエスさまのこの言葉は、わたしたちに「天の国」の福音を思い起こさせるものです。イエスさまがこの地上で語られた最初の言葉、「天の国は近づいた。悔い改めて、福音を宣べ伝えなさい」。これもまた、天国が、神の支配が、今ここに、もうすでにあなたのところに来ている、という喜びの知らせでした。
■孤島
新藤兼人という映画監督をご存知でしょうか。女優・音羽信子の夫でもある新藤はかつて広島県の尾道という町に暮らしていました。そのこともあり、瀬戸内を舞台にした映画作品をいくつも残しています。その中に『裸の島』という、秀逸で、とても印象深い作品があります。1960年に上映された、台詞の全くない98分の映画です。
舞台は、尾道から三原へと向かう途中、JRの電車の中からも見える、周囲約五百メートルの小さな島、瀬戸内海の孤島です。この島に、夫婦と二人の子どもが暮らしていました。島の土地は痩せていましたが、夫婦の懸命な努力で、波打ち際から島の上まで耕され、美しい段々畑になっていました。春は麦をとり、夏はさつま芋をとって暮す生活。ただ一番の問題は、島に水がないことでした。畑へやる水もなければ、飲む水もありません。来る日も来る日も、遥か向こうに見える大きな島から、テンマ船でタゴと呼ばれる桶に入れて運ばなければなりません。しかも、水を入れた桶を天秤棒に担いで、急斜面の小さな道を登って、島の中腹にある家まで運びます。厳しい陽射しの下、噴出す汗を拭くいとまもなく繰返される作業。夫婦の仕事の大半は、この水を運ぶことに費いやされました。
子どもは上が太郎で、下が次郎。太郎は小学校の二年生で、大きな島まで通っています。ある日、子どもたちが一匹の大きな鯛を釣りあげました。夫婦は子どもを連れて、遠く離れた町、三原へ巡航船に乗っていきます。鯛を金にかえて日用品を買うためです。ささやかな喜びが画面いっぱいに溢れます。ところが、ある暑い日の午後、突然、太郎が発病します。テンマ船を必死に漕いで、その孤島にようやく医者が駈けつけた時、太郎はもう死んでいました。
葬式が終りました。夫婦は何事もなかったかのように、いつもと同じように水を運び続けます。と、妻が突然、狂ったように畑の作物を全部、抜き始めます。訴えようもない悲しみを大地へ叩きつけるかのように抜き続けます。夫はそれを黙って、ただ見つめます。
泣いても叫んでも、この土の上に生きてゆかなければならない。灼けつくばかりの小さな島にへばりつくようにして、今日も明日も、ただただ黙々と働き、生活をする家族の姿が、実に淡々と描かれます。そして最後に字幕が表れます。
「天国に一番近い島」と。
孤島での、この過酷な生活のどこが、「天国に一番近い」というのでしょうか。いぶかしく感じながらも、浮かんでくる映画の一場面一場面を思い出していて、ふと気づかされました。この上もなく貧しく、過酷な生活にもかかわらず、その様子が淡々と、実に淡々と描かれている。その淡々とした映像表現が、淡々としたものであればこそ、熱いものが胸の奥からこみ上げてくるようでした。その貧しさ惨めさにもかかわらず、いいえ、貧しく惨めだからこそ、そのような過酷な状況の中に黙々と生きる姿が、与えられたいのちを精一杯に生きているその姿が、とても美しい。そう思わされました。その美しさが、天国と重なってくる、そんな映画でした。
■神様の愛ゆえに
イエスさまが語られた天の国の福音は、神様が「今ここに」共にいてくださっている、それも良いことばかりではなく、避けることのできない苦しみや悲しみに喘ぎつつも生かされ生きている、そんなわたしたちと共にいてくださっている、その真実をわたしたちに教え示そうとされるものでした。
そして今日も、イエスさまは語りかけてくださいます。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
あなたたちの中に、今、わたしはいる、そうイエスさまは言われます。
わたしたちがどれほど欠け多く、取るに足らない者であっても関係ありません。神様がわたしたちにこのいのちを与えてくださったお方だからです。神様がわたしたちを愛してくださっているからです。だから、神様はわたしたちの誰ひとり、見捨てられません。
そのことを、イエスさまはご自分の生涯、いのちをかけて教えてくださいました。イエスさまは、馬小屋の飼い葉桶という貧しさの極みの中にお生まれになりました。人から罪人と忌み嫌われていた病気や障がいに苦しむ人々にそっと寄り添い、癒されました。罪汚れた彼らと共に歩み続け、ついには十字架に架けられ殺されました。
イエスさまのことを、奇跡の人、卓越した指導者、革命的な英雄だと考えていた多くの人々にとって、イエスさまが貧しさの只中で、罪と汚れにまみれるようにして生きて、この上もない惨めさと屈辱の中で十字架にかかって死なれたことは、理解しがたい、受け入れがたいものでした。躓きでした。その躓きの只中に、イエスさまはよみがえられて、わたしたちが神様によって愛され、赦され、良しとされていること、与えられたこのいのちゆえにすべての人がかけがえのない、取り換えることのできない存在であることを教え示してくださいました。
もはや、わたしたちが人と比べて優れているから、誇りうるから、正しいからではなく、ただ神様の愛によってのみ、わたしたちは「今ここに」生かされている、「今ここに」共にいてくださる、とイエスさまは言われます。
■天の父の望み
ところが、わたしたちは、イエスさまが今もここに共にいてくださるのに、そのことに気づかずにいます。そのため、ひとりで生きる外に道がないかのように、肩肘を張り、エゴを振りかざし、仲違いをし、互いに争って、暮しています。教会の中に、社会の中に、学校や職場の中に、家族の中にさえ、亀裂や対立が生まれてくるのです。残念ながら、わたしたちのだれもが、自分中心に考えてしまう、生きてしまう外ない、愚かで罪深い存在です。
そんなわたしたちを前に、イエスさまが今、九十九匹と一匹の羊の譬えを語られます。
「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」
イエスさまがこの物語で語ろうとしておられることは、「一匹が迷った」ということ、そのことです。躓いた、罪を犯したということです。この後15節以降に、罪を犯した兄弟のことが書かれていますが、それこそ、迷い出た一匹の羊そのものです。罪を犯すことによって、非難され、見捨てられ、顧みられなくても仕方のないことかもしれません。罪の報いとして当然だと、わたしたちは考えるでしょう。しかし、そんなことを天の父は望まれないのです。
ここに、このたとえの中心があります。
イエスさまはこうおっしゃっているのではないでしょうか。迷い出た羊の話を聞いて、あなたはそういう羊などどこにいるだろうかと周りを見回すかもしれない。でも、迷い出たのは、あなた自身ではなかったか。あなたはその羊と同じように、すぐ迷い出てしまう。そんな罪の中で、呻き、悲しみ、悩んでいるのではないか。しかし、しかしそのあなたが滅びることを、あなたの父、天の父は決して望んでなどおられないのだ、と。
■あなたと共に生きたい
15節以下をもう一度ご覧ください。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。丁寧に訳せば、「もし、あなたの兄弟があなたに罪を犯したなら」です。「あなたに」罪を犯したのは、ほかでもない「あなたの」兄弟です。それゆえ、行って二人だけのところで忠告します。もし聞き入れたなら、あなたはあなたの兄弟を得たことになります。しかし、「聞き入れなければ、あなたと共に、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるため」です。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」とあります。
教会は、あなたの兄弟姉妹のため真剣に祈るところなのです。牧師はいろんな相談を受けます。皆さんからすると、そこまで牧師がしなければならないのか、そうした相談を受けます。けれども、どうしようもない課題が教会に申し出られる、そのことに誠実に関わるのが教会なのです。そして、教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい、とイエスさまは言われます。
トゥルナイゼンという人がこう書いています。ここでイエスが、異邦人や徴税人のように見なしなさいというのは、放り出せというのではない。イエスが異邦人や徴税人にどう関わったか。たとえばザアカイやマタイにどう関わったかを思い起こせ。イエスは優しく関わった。そのイエスにお委ねすることだ。教会は、どんな人も裁いてはならないのだ、と。
そして18節、「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。地上の教会と天上の教会が深い関わりを持つというのです。解くということは罪の赦しで、つなぐことは裁きのことでしょう。そして神様の御旨、御心は、赦しです。地上の教会の使命、役割は、どこまでも解くこと、罪の赦しを差し出すことです。裁くこと、あなたはだめだということは簡単です。けれども神様の御心に沿って、どこまでも赦しを差し出す、そこに地上の教会の使命があります。
「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」のです。「はっきり言っておく」とは、「まことに、まことに、あなたがたにわたしは言う」です。イエスさまが弟子たちに、このことを分かって欲しいと願われるときに使われる表現です。イエスさまは、よく聞いて欲しい、と言われます。一人の魂が苦しんでいるとき、迷い出ているとき、罪を犯したとき、その人のために、二人で心を一つにして祈るなら、神様は必ず聞き入れてくださる、と言われます。教会の大切な使命は、どんな人をも裁かないことです。
だから20節、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるの」です。一人の友のために二人または三人で祈るところに、イエスさまも一緒に祈っておられる、というのです。
小さい者をつまずかせることは大きな罪です。天では小さな者が大切にされています。イエスさまは地上においても、小さな者が大切にされるよう、十字架の道を歩まれました。そのイエスさまを信じる群れである教会は、小さな者をつまずかせないよう心を用いるだけでなく、小さな者をつまずかせる者のためにも祈りなさい。神様の御心は赦しにあるのです。そう教えられます。
分裂し、対立してしまうことは、人間の宿命、避けがたいことと言えるのかも知れません。それでも聖書は、それをよしとはいたしません。放っておけば分裂し、対立してしまうわたしたちです。ともすると裁き合い、互いに排除しようとするわたしたちです。そんなわたしたちの真ん中、ど真ん中にイエスさまがいてくださる、どのようなときにも共にいてくださるのですから、ひとつとなることを目指し、互いのために祈り続けることこそが、信仰に、教会に生きるということなのでしょう。それこそが、至るところに亀裂が走り、分裂しかけているこの世界を一致と平和へと導いていく、その一歩となるはずです。
『裸の島』に描かれていた、ただ与えられたいのちを喘ぎつつも生きる人の姿と重なってきます。どんなに貧しく過酷な生活を送ろうとも、どんなに人から蔑まれようとも、どんなに惨めに思えても、わたしのような小さな者の声に、神様は耳を傾けてくださっています。わたしのような罪深い者に、神様は目を留めてくださっています。そんな愚かなわたしたちの傍らに、イエスさまは立ち続けていてくださっているのです。そうでなければ、ひとりで生きていくことのできないわたしたちが、人と共に生きることなどできはしないのです。
だからこそ言われます。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。
わたしは、あなたたちと共に生きたい、そう宣言をしてくださっているのです。