福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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10月22日 ≪聖霊降臨節第221主日礼拝≫『愚か者になる』 コリントの信徒への手紙一 4章 6~13節 沖村 裕史 牧師

10月22日 ≪聖霊降臨節第221主日礼拝≫『愚か者になる』 コリントの信徒への手紙一 4章 6~13節 沖村 裕史 牧師

 

■高ぶり

 コリント教会の人々は高ぶっていました。パウロは、コリント教会の中に争いがあることの根っこに、その「高ぶり」があると見ています。
 
 6節から7節、「『書かれているもの以上に出ない』ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」

 「一人を持ち上げてほかの一人をないがしろに」するとは、神が立て、遣わされた使徒、指導者たちを自分の思いや感覚で裁き、評価し、判断するということです。そこには、神を差し置いて、自分が裁き手となろうとする思いがあります。それこそが「高ぶり」です。

 わたしたちも、人のことを評価したり、判断したり、つまり裁きながら生きています。そうすることが自分には許されていると思っています。些かなりとも判断を下す材料を自分は持っている、いろいろな事情を知っている。そう思って、人のことを裁き、判断します。そのことを高ぶりだとは思ってもいません。少なくともこれを言う資格と理由が自分にはあると思うから、人を裁き、批判するのです。コリント教会の人々もそうだったのでしょう。パウロは、自分が高ぶっているとは思ってもいない人々に向かって、あなたがたは高ぶっていると言います。

 なぜ、そう言えるのか。彼らが「書かれているもの以上に出」ているからです。「書かれているもの」とは聖書のことです。人を裁き、批判する思いは、聖書が教えていること以上のもの、はみ出ています。

 7節前半、「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです」

 「優れた者」という言葉は原文にはありません。直訳すれば「あなたを他の人から区別したのは誰ですか」。「あなたを、人を裁くことができる者として他の人から区別したのはいったい誰か」ということです。反語です。予想される答えは「そんな者はいない」。あなたは人を裁くことができる特別な者ではない、ということです。

 なぜなら「裁くのは主」、「主が裁いてくださる」からです。これは聖書に繰り返し出てくる言葉です。主なる神こそが人を裁くことのできる唯一の方、他に人を裁くことができる者などいません。それなのに、神を差し置いて、人が裁き手になろうとするところに人間の罪がある、と聖書は教えています。聖書に聞かず、書かれているもの以上に出て、「少なくともこのことについてわたしは裁くことができるはずだ」と思うとき、わたしたちは高ぶっていて、その高ぶりに気づくことすらできずにいるのです。

 聖書が教えていることが、もう一つあります。

 7節後半、「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」

 あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるか、すべては神からいただいたもの。これもまた、聖書が繰り返しわたしたちに語っていることでした。聖書には、神が恵みをもってこの世界のすべてを造り与えてくださり、何の相応しさもないイスラエルの民を恵みによって選び、神の民として導き、豊かな賜物を与えてくださった、とあります。ダビデのこんな祈りも記されています。「すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」(歴代誌上29:14)。そう、わたしたちが持っているものはすべて、財産だけではなく、いのちも体も、家族も友も、そして救いも信仰も、神が与えてくださったものでした。

 ところが、それをいただかなかったように、つまり自分がもともと持っている、自分の力で獲得したものであるかのように考え、振舞っている。コリント教会の人々は、そういう高ぶりに陥っていました。そしてその高ぶりから、自分の信仰を誇る思いが生れます。その誇りの拠り所が、「自分は何々先生の教えを受けている」ということでした。そのようにして、ある指導者に結びついて党派が生まれ、そこに互いに対立し合う争いが生じていたのでした。

 

■キリストのために愚かな者となる

 パウロは皮肉を込めて、コリントの人々に投げかけます。

 8節、「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」

 何と激しい皮肉でしょうか。それだけでは不十分とみたのか、パウロはもっと激しい言葉を続けます。9節から13節、

 コリント教会の人たちは、「キリストを信じて賢い者となっています」、「あなたがたは強い」、「あなたがたは尊敬されてい」ます。それなのに使徒であるパウロは、「死刑囚」のようにされ、「見せ物」になっており、「愚か者」となり、「弱く」、「侮辱され」、「飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく」、仕える生活をしています。そればかりか、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています」。ひと言で言えば、「今に至るまで、わたしたちは世の屑(くず)、すべてのものの滓(かす)とされています」とまで言い切ります。

 この激しい言葉によって、パウロが教え、語ろうとしていることとは何でしょうか。
 
 キリストのために愚かな者となりなさい、ということです。

 信仰とは、賢い者、強い者、人々から尊敬される者になることではありません。そういうことのために努力していくことでもありません。信仰とは、愚か者となることです。弱い者、侮辱される者となることです。それは、世間の人々が愚かだと思うことをわざとするとか、人から軽蔑されることを平気でする、ということではありません。「キリストのために愚か者となっている」とあるように、これはイエス・キリストを信じ、キリストと結びつくことです。キリストを信じる者となる時、わたしたちは、賢い者になるのではなく、愚か者になるということです。

 どういうことでしょうか。コリントの人々のことを考えてみれば分かります。彼らは、信仰によって自分たちは立派になった、知恵ある者となった、と思っています。多少なりとも立派になったことがあるとしたら、それはすべて、神が与えてくださった恵みであるのに、それを自分の持っている立派さや知恵であるように思って、誇っています。それが、キリストを信じて賢い者となった、ということです。つまり賢い者とは、自分の知恵や力によって生きている者ということです。

 しかし、イエス・キリストを信じるとは、自分の知恵や力にではなく、ひたすらイエス・キリストに依り頼んでいくことです。愚か者は、自分の中に生きる支えを何も持っていません。だから、ひたすらイエス・キリストに支えを求めていきます。イエス・キリストにすがって生きる人のそんな姿は、決して格好のよい、見栄えのよいものではありません。弱い者、軽蔑すべき者と見られるかもしれません。

 逆に、自分の知恵と力によって生きていくことは、格好いいことです。賢い、強い、尊敬すべき者に見えるからです。しかしパウロによれば、それは、すべて神からいただいたものである知恵や力を、いただかなかったような顔をして、つまり自分の力で得た自分のものであるかのように思って、キリストにではなく、自分が持っている知恵や力を拠り所として生きている、という高ぶりなのです。

 言い換えれば、彼らはキリストというアクセサリーを身につけて颯爽と生きているのです。信仰という素敵な飾りを身につけて、自分はこんなにきれいになった、立派になった、賢くなったと思っているのです。パウロは、キリストを信じるとはそういうことではない、と言います。11節以下のパウロの、侮辱され、迫害され、ののしられ、世の屑、すべてのものの滓とされている姿は、そのように、ただひたすらイエス・キリストにつながって生きている者の姿なのです。

 イエス・キリストは、わたしたちの人生のアクセサリーとして、わたしたちをより美しくし、知恵をつけ、力を増し加えるためにこの世に来られたのではありません。そのようなことのためなら、十字架にかかって死ぬ必要はなかったのです。イエス・キリストが十字架にかかってくださったのは、罪や汚れや弱さ、苦しみ悲しみを負っているわたしたちを丸ごと背負い、救ってくださるためでした。このイエス・キリストにつながることによってわたしたちは、自分の知恵や力によって生きる賢い者であろうとする高ぶりから解放され、キリストによって支えられて生きる、愚か者となることができるのです。

 

■雨ニモマケズ

 宮沢賢治の書いた「雨ニモマケズ」という詩があります。誰もが一度や二度は、読んだり、聞いたりされたことがあるでしょう。

 雨(あめ)ニモ マケズ/風(かぜ)ニモ マケズ

 雪(ゆき)ニモ 夏(なつ)ノ暑(あつ)サニモ マケヌ

 丈夫(じょうぶ)ナ カラダヲ モチ

 慾(よく)ハナク/決(けっ)シテ瞋(いか)ラズ

 イツモ シヅカニ ワラッテ ヰ(い)ル

 一日(いちにち)ニ 玄米四合(げんまいよんごう)ト

 味(み)噌(そ)ト 少(すこ)シノ野(や)菜(さい)ヲ タベ

 アラユル コトヲ

 ジブンヲ カンジョウニ 入(い)レズニ

 ヨク ミキキシ ワカリ/ソシテ ワスレズ

 野原(のはら)ノ 松ノ林(まつのはやし)ノ 陰(かげ)ノ

 小(ちい)サナ 萱(かや)ブキノ 小屋(こや)ニヰ(い)テ

 東(ひがし)ニ 病気(びょうき)ノコドモ アレバ

 行(い)ッテ 看病(かんびょう)シテヤリ

 西(にし)ニ ツカレタ 母(はは)アレバ

 行(い)ッテ ソノ稲(いね)ノ束(たば)ヲ 負(お)ヒ

 南(みなみ)ニ 死(し)ニソウナ人(ひと) アレバ

 行(い)ッテ コワガラナクテモイゝ トイイ

 北(きた)ニ ケンクヮ(か)ヤ ソショウガ アレバ

 ツマラナイカラ ヤメロ トイヒ(い)

 ヒデリノ トキハ ナミダヲ(を) ナガシ

 サムサノ ナツハ オロオロ アルキ

 ミンナニ デクノボー トヨバレ

 ホメラレモ セズ/ク(苦)ニモ サレズ

 ソウイウ モノニ/ワタシハ ナリタイ…

 賢治の代表作のひとつと言われるこの詩の最後に、「ソウイウモノニ、ワタシハ、ナリタイ」とあります。「ソウイウモノ」とはもちろん、賢治自身のことではありません。この「雨ニモマケズ」という作品にはモデルとなった人がいました。斎藤宗次郎という人です。

 斎藤宗次郎は、賢治よりも9年早い1887年、賢治と同じ岩手県は花巻に、寺の三男坊として生まれました。小学校の教員となった宗次郎は、内村鑑三の影響を受けて聖書を読むようになり、洗礼を受け、クリスチャンになります。花巻初めてのクリスチャンでしたから、洗礼式には、クリスチャンとはどのようなものかを一目(ひとめ)見ようと多くの人が教会に詰めかけた、と言います。

 しかし、それからが大変でした。当時、キリスト教は「ヤソ教」とか「国賊」と呼ばれ、彼も洗礼を受けたその日から迫害を受けるようになります。石を投げられ、親にも勘当されてしまいます。そればかりか、日本とロシアとの戦争の最中、内村鑑三の「非戦論」ー戦争に反対する内村の主張に共鳴し、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意を表明して県当局から睨まれ、小学校の教師も辞めざるを得なくなってしまいます。

 しかし苦難の中にあってなお、宗次郎は神に祈り続け、むしろ町の人々に神の愛をもって仕える道を選び取りました。宗次郎は教師を辞め、朝の3時から牛乳配達と新聞配達をし、仕事の帰りには病人を見舞うといった生活を続けました。肺結核を患って、何度か血を吐きながら、それでも毎朝3時に起きて働き続けました。

 そんな生活を30年間も続けました。新聞は10数種類、重さは20キロ以上あったと言います。一日40キロの配達の道のりを走りながら、嫌がらせをする人々に聖書の言葉を伝え、教えました。10メートル走っては神様に祈り、10メートル歩いては神様に感謝をささげた、という話はあまりにも有名です。

 嫌がらせは彼自身だけでなく、家族にまで及びました。近所で火事が起きたときには、何の関係もないのに嫌がらせで放水され、家を壊されました。家のガラスを割られることもありました。そして、さらにひどい事件が起こります。九歳になる長女の愛子が、「ヤソの子供」となじられてお腹を蹴られて腹膜炎を起こし、死んでしまいました。

 それでも宗次郎は、いつも菓子や小銭をポケットに用意し、行く先々でこどもたちにそれを与え、また物乞いや貧しい人に恵みを施し、病で床に臥せっている者を訪れては慰めることに努めました。彼は、雨の日も、風の日も休むことなく、町の人たちのために祈り、働き続けました。実際「デクノボー」と言われながらも、彼は最後までその愛を貫き通したのでした。

 宗次郎の日記に、こんな言葉が書かれています。

 「こんな労苦に満ちたわたしの働きが、たとえ死ぬまで続くとしても、それを嫌い、疲れて、やめることなど決してありません。むしろ、この愛の働きを歩み続けることで、天の国、神の国に近づいているという確信と希望がわたしの中に生まれ、そうして初めて、わたしは本当の勇気と希望というものを持つことができるのです」と。

 そうした宗次郎の姿、そして長女・愛子の死、それから3年後の妻・スエの相次ぐ死を通して、地域の人たちのキリスト教への偏見は、次第に尊敬へと変わっていきました。町の人たちはやがて「斎藤先生」と挨拶するようになり、「ヤソ、はげ頭、ハリツケ」などと囃し立てていたこどもたちも「名物買うなら花巻きおこし、新聞とるなら斎藤先生」と歌うようになっていきます。

 1926年、宗次郎は内村鑑三に招かれて、東京に引っ越すことになります。花巻の地を離れる日、見送りに来てくれる人など誰もいないだろうと思いながら駅に行くと、そこには、町長を始め、町の有力者、学校の先生、生徒、神主、僧侶たちのほか、物乞いにいたるまで、身動きがとれないほどの人々が集まり、駅長は停車時間を延長して、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させたと言います。その群衆の中に、若き日の宮沢賢治もいたのでした。

 この斎藤宗次郎の人生に、イエスさまの生涯が重なってくるようです。どんなに愛の言葉を語っても、どんなに愛の業を示しても、故郷の人々、ユダヤの指導者たちに受け入れられませんでした。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に描かれた「デクノボー」のように愚かで、しかしどんな苦しみと悲しみにあっても、隣人への愛を貫いた斎藤宗次郎の姿の中に、イエスさまの限りない愛の姿を、また、ここでパウロが語る姿を見る思いがしないでしょうか。

 

■キリストと共に

 キリストのために愚か者となったパウロは、「飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もな」い中で、「苦労して自分の手で稼いで」生きています。そしてその中で、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返して」いるのです。そのようにして、イエス・キリストに従い、仕えているのです。

 しかしこれはすべて、イエス・キリストがわたしたちのためにしてくださったことでした。イエス・キリストは「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返」しつつ、十字架の死への道を歩んでくださいました。イエス・キリストがそのようにしてくださったことによって、わたしたちは救いにあずかり、神の子とされたのです。

 キリストにつながっている愚か者は、自分の知恵や力によって生きている賢い者が決して歩むことができない道を、イエス・キリストと共に、喜びと希望をもって歩んでいくのです。死に至るまで、十字架の上に至るまで、人に仕えられたイエスさまの驚くべき愛の姿が、そして今日のパウロの姿が、わたしたちを深く慰め、力強く励ましてくれます。感謝です。