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10月23日 ≪降誕前第9主日礼拝≫『心痛める人の背後に立って』マタイによる福音書26章14〜25節 沖村裕史 牧師

10月23日 ≪降誕前第9主日礼拝≫『心痛める人の背後に立って』マタイによる福音書26章14〜25節 沖村裕史 牧師

 

■神の企て

 「そのとき、十二人の一人でイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした」

 前回お話をしたように、この時、イエスさまと祭司長たちの双方が十字架の時期について、それぞれ異なることを考えていました。イエスさまは弟子たちに、「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(2節)と告げ、十字架の出来事は二日後の過越祭のときに起こると言われます。一方、イエスさまを捕らえ、殺害しようと相談していた祭司長や長老たちは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」(5節)と言い、過越祭に続く除酵祭が終わった後、十日余り後のことを考えています。

 十字架の時期がズレています。人間が策を練りに練り、用意周到に準備していました。しかし、祭司長たちの思惑は外れ、祭りの最中―神様が、イエスさまが決めておられた二日後に、多くの民衆の前で、イエスさまは十字架につけられることになります。多くの人が言うように、「人の企ては貫かれなかった。神の企てが貫かれた」ということなのかもしれません。

 そして今日の箇所には、その神の企てのために、決定的な役割を果たす一人の人物が登場します。イスカリオテのユダです。マタイは、他でもないイエスさまの十二弟子の一人であるユダが敵の手にイエスさまを引き渡した、それもお金で売ることをユダの側から持ちかけた、という衝撃的な事実をわたしたちに伝えています。

 ユダが訪ねた相手は祭司長たちでした。ユダが持ちかけてきた話は祭司長たちにとって、まさに「渡りに舟」でした。過越祭前後のエルサレムには、普段の三倍を超える巡礼者が訪れていました。その大勢の「民衆の中に騒ぎ」を起こさせず、群衆の中に紛れ込んでなかなか掴めなかったイエスの居場所を突き留め、混乱を最小限に抑えた上で、密かにイエスを逮捕することができる。最高の提案でした。しかもユダの方から、「あの男をあなたたちに引きわたせば、幾ら貰えますか」と報償金の額の交渉まで持ちかけてきました。祭司長たちは、ユダの決意は固い、そう確信することができたはずです。

 

■選ばれたユダ

 とはいえ、十二人の弟子はほかならぬイエスさまご自身が選ばれた者たちです。ルカによる福音書によれば、徹夜の祈りをもって使徒となるべき十二人を選ばれたと記されています。選ばれたその一人による裏切りです。そのユダを選んだイエスさまの選び方に責任はなかったのでしょうか。

 さらにわたしたちを混乱させるのは、24節の発言です。ユダを弟子にしたイエスさまの口から、「生れなかった方が、その者のためによかった」という言葉が飛び出します。何とも悲しく、淋しい思いにさせられる言葉です。

 このとき、ユダは何を思い、何を考えていたのでしょうか。

 この過越の食事の席にユダがいたということは、彼もイエスさまを来るべきメシア救い主として心に迎えていたからでしょう。しかし、イエスさまと寝食を共にしながら、次第にある違和感を覚えるようになっていたのかもしれません。この時のユダの心の内を、中野京子が『名画と読むイエス・キリストの物語』の中に、こう描いています。

 「いくつもの鬱屈(うっくつ)がユダの中で重なったのは間違いない。使徒のうち、ただひとりガリラヤ出身ではない疎外感。教団の金庫番という立場の困難。イエスに愛されるマグダラのマリアやペテロやヨハネヘの嫉妬(しっと)。何よりイエスがユダの期待に応えようとしないこと―イエスは今の政治状況をドラスティックに変革する気はなく、弟子を増やして教団を大きくするつもりもなかった。エルサレムで鞭(むち)打たれ、十字架にかけられると予言し、その予言を自ら引き寄せようとするかのように神殿で暴れ、関係者を舌鋒(ぜっぽう)鋭く攻撃した。権力側へ喧嘩を売ったのだ。さらに悪いことに、売ったこの喧嘩によって、民衆の人気はいっそう高まり、その先の具体的な政治行動を期待させてしまった。イエスにその気が全くないとわかった時、人々の失望はどんな反動をもたらすだろう。ユダは自らに照らし、そのリアクションの大きさが想像できた。

 イエスに見切りをつけ、黙って教団を去る選択もユダにはできた。社会を現実的に変えようとする別の師を探すか、あるいはこれまでの経験をふまえ、自らの弟子を集めればいい。なのにそうはせず、裏切りの道を選んだのは、イエスへの歪(いびつ)な愛ゆえだったろうか?自分ひとりのものにできないくらいならいっそ、という捻(ね)じれた愛の形は、これまでもこれからも古今東西、延々と続けられる、哀れな人間の珍しくもない心の動きなのだから。

 それともユダは、イエスがほんものの救世主かどうかを確かめたかったのだろうか?いくつもの奇蹟を見てきてなおユダが信じきれていなかったことは、『最後の晩餐(ばんさん)』の場において明らかになる。イエスが裏切り者の存在を告げた時、驚いた皆が『主(=キリスト)よ、我なるか』と問うのに対し、ユダだけ『主』と呼ばず、『ラビ(=師)、我なるか』と言うからだ。思わず口をついて出た言葉だけに、日ごろの思いがあらわれている。しかし仮にそれが理由だったなら、どうしてユダはイエスの死を見届ける前に、首を吊って自殺してしまうのか、なぜ『死の三日後の復活』まで待たなかったのか。いずれにせよユダは行動を起こした」

 いかがでしょう。これまで、すべてを投げうってイエスさまについて来たユダにしてみれば、自分が裏切る前に、イエスさまに裏切られた、「心痛む」そんな思いが募り、期待が恨みに変わり、憎しみとなっていったのではないかとも想像できます。

 

■わたしたちの問題

 しかしそれは、ひとりユダだけではありませんでした。

 20節に「夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた」とあります。「イエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた」ユダを含む十二人が、この食卓に招かれました。その席でイエスさまは言われます、

 「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」

 イエスさまは何のためにこのようなことを言われたのでしょうか。裏切ろうとしているユダに「お前の計画は全てお見通しだぞ」と言って、思い止まらせるためでしょうか。そうではないでしょう。イエスさまのこの言葉を聞いたユダが思いとどまった形跡など、どこにも見当たりません。

 むしろ驚き、動揺したのは他の弟子たちでした。彼らは「心を痛めて」「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めます。わたしたちの中の一人がイエスさまを裏切ろうとしている、それはもしかしたら、このわたしのことではないか、弟子たちはそう思ったのです。最も身近にいた弟子たちのすべてが、自分の中に裏切りの可能性を見出したのでした。

 イエスさまの言葉は、ユダにではなく、弟子たち全員に、自らの裏切りの思いを意識させるものでした。それこそが、イエスさまがこの言葉を語られた理由でした。「あなたがたのうちの一人が」という言葉は、弟子たちの誰にでもあてはまります。弟子たちのすべてが、これは自分のことではないかと思わざるを得ません。「まさかわたしのことでは」と言い始めた弟子たちに、イエスさまはさらに言葉を重ねます。23節「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」。これもまた弟子たちすべてに当てはまることです。イエスさまは今ここで、イエスさまを裏切り、抹殺しようとする思いが、誰の心にもあることをはっきりと意識させようとしておられます。

 事実、弟子たちの誰もが、イエスさまが逮捕されるや否や、蜘蛛の子を散らすようにしてイエスさまを見捨てて逃げ去ってしまいました。そこにいた弟子たちのすべてが、裏切り者でした。

 そして、「あなたがたのうちの一人が」というこの言葉は、ここにいるわたしたちにも向けられています。わたしたちの中にも、イエスさまを裏切り、拒絶し抹殺してしまおうとする思いがありはしないでしょうか。その思いがどう現れるかは、人それぞれでしょう。時に、弱さによって誘惑に負けて裏切ってしまうこともあるでしょう。イエスさまが自分の思いや願いを聞いてくれない、自分の思い通りにならないと呟きながら、イエスさまを恨み、呪ってしまうこともあるかもしれません。あるいは、イエスの教え、イエスをキリスト救い主と信じる信仰は間違っているとはっきりと批判して、それを拒否することもあるでしょう。わたしたちがイエスさまを裏切り、拒み、抹殺しようとする理由は様々です。だからこそ、マタイはあえて、ユダがなぜ、どのような思いで裏切ったのかを語ろうとはしませんでした。それは、わたしたち一人ひとりの問題だからです。「それはあなたの言ったことだ」というイエスさまの言葉が突き刺さります。ユダとは、わたしたち自身なのです。

 そのことを思うとき、弟子たちが「裏切るのはおまえだろう」「いやおまえこそ」と互いに言い争うのではなく、ただ心を痛めつつ、「まさかわたしのことでは」とそれぞれに心の奥底を覗き込むようにして呟いたその姿に驚き、またホッとした気持ちにさせられます。と同時に、罪人である人間が神に赦されるということは、ただ一方的な神の恵みの出来事なのだということを、改めて深く知らされる思いがしてきます。

 

■驚くばかりの恵み

 思えば、イエスさまが語られた天の国、神の国の福音とは、神様の無条件の愛、無条件の赦しを告げ知らせるものでした。しかし当時のユダヤ社会では、罪人が無条件で赦されることなどあり得ないことでした。いえそれは、当時のユダヤ社会だけでなく、現代でも同じです。それが、この世の常識、この世の秩序というものです。ところがイエスさまは、繰り返し「そうではない!神の赦しは無条件、無条件の愛なのだ」と語り続けられました。

 神の赦しを考えるとき、いつも心に浮かぶイエスさまの教えがあります。18章に出てきた、一万タラントンの借金を主人から免除されたにもかかわらず、たった百デナリオン、労働者百日分の賃金に当たる借金をしていた仲間の家来を赦すことができなかった、というたとえ話です。

 普通、「七回の七十倍赦しなさい」、言い換えれば「何度でも赦してやりなさい」と言われたら、「そんなことしたら、神の義が立たないじゃないか!その人をダメにしてしまう!」と考えるでしょう。ところが、あたかも神の側に立つようにして、そう反論するわたしたちに向かって、「実はあなたこそ、巨額の借金を帳消しにされている存在なのですよ。そのように赦されていながら、どうして百万円の借金を赦せないのですか。徹底的に赦されているのは実は、あなた自身ではないか。そんなにまでも赦されているのに、『無条件に赦したら、赦された方がダメになる』などと、まるで他人事のように心配するのですか」、そう言われるのです。

 このとき、ユダと祭司長たちとの取引はすでに成立していました。残っていたのは、実際にイエスさまの身柄を引き渡すことだけです。イエスさまは、ユダが成したすべてをご存じの上で、過ぎ越しの食事にユダを招かれました。そして、逃げ散ってしまうことになる弟子たち一人ひとりの足を洗われ、そして、裏切り者と名指しされることになるそのユダの足をも洗われたのでした。最後まで、ユダは、そして弟子たちはそれぞれに、イエスさまがその傍に置かれた、愛する十二弟子の一人だったのです。

 もう一度、24節をご覧ください。イエスさまはこう言われます。

 「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」

 イエスさまが引き渡され十字架につけられて殺される、それらすべてのことが聖書に書いてあること、つまり神のご計画によることだ、ということです。ユダの心を、イエスさまはもうすでに見抜いておられました。その裏切りの背後に神様が立っておられる、と言われるのです。

 ここに驚くべき恵みが見えてきます。イエス・キリストの十字架に露わになるユダの、そして弟子たちの裏切りを、罪を、神は心深く悲しまれ、弟子たちの心の痛みよりも、もっと深い痛みを覚えられておられるのです。ユダの裏切りをも、ご自身の痛みとしておられたに違いありません。

だからこそ、自分を裏切るような者は、生まれなかったほうがよかった、そう言われました。それは、厳しい叱責、裁きの言葉というのではなく、自殺せざるをえなくなるほどに心傷ついているユダへの、溢れるほどの深い憐れみから語りかけられた、慰めの言葉ではなかったでしょうか。

 ユダだけのことではありません。これは、わたしたちのことです。このわたしたちが生まれてきてよかったと言えるようになるために、弟子たちがそのとき覚えた痛みよりも、はるかに深い主の痛み、十字架がありました。その痛みの中から響いてくるもの、それこそ、主の痛みに根ざす慰めでした。

 わたしたちのいのちは、主の痛みと深く結びついています。すべてのことを、わたしたちに先立ってやり遂げてくださり、すべての準備を整えて、さあここに来るがいい、ここにいのちの賛歌が響き渡る、そう言ってくださるのです。わたしたちに、何ほどのことができるはずもありません。それでも、主のみ業をただ響かせることができればよい。いや、主がそのようにしていてくださることを信じるだけでよいのです。その時にこそ、わたしたちは生きることができるのです。生まれなかった方がよかったような罪人であるわたしたちが、生れてきてよかった者として、不幸だ、わざわいだと言われる人生ではなくて、幸いな、祝福を豊かに受ける人生を歩むことができるのです。心痛めつつ生きるほかないわたしたちの背後に、主が今も立っていてくださるのです。何という恵み、何という感謝でしょうか。