福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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10月27日 ≪降誕前第9主日/秋の「家族」礼拝②≫『神の子どもにされる』(おとな) ローマの信徒への手紙 8章 15~17節 沖村 裕史 牧師

10月27日 ≪降誕前第9主日/秋の「家族」礼拝②≫『神の子どもにされる』(おとな) ローマの信徒への手紙 8章 15~17節 沖村 裕史 牧師

■霊

 すべてのものに終りがあります。美しく咲き出た花も、青々とした木々の若葉も、やがては枯れて散ってしまいます。若いいのちを燃やして生きて働いていた人も今は年老い、誰もがやがて死んでいきます。すべてが死ななければならない、それがわたしたち人間と自然の運命です。

 いのちとは一体何か。死とは何か。さまざまな面から追求され、論じられてきました。特に近代以降、自然の中の「生物」のひとつとして研究されてきました。こうした人間を一個の生物としてみる見方に反対して考え、論じることはナンセンスです。

 繰り返して引用する創世記2章7節には、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と書かれています。そして3章19節に、こう続きます。「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」と。

 「帰る旅」という詩があります。食道がんで八か月、臥せていた高見順の作品です。

  ……この旅は自然に帰る旅である。

  帰るところのある旅だから

  楽しくなくてはならないのだ

  もうじき土に戻れるのだ

  ……大地に帰る死を悲しんではいけない

  肉体とともに精神も

  わが家へ帰れるのである。

 わたしは、そしてあなたは、土から取られたのだから土に帰る、それでいいのだ、と言います。その通りです。しかし、それだけが真理であるかというと、そうではないと言わなければなりません。

 わたしたちのいのちは、目には見えない神から吹きこまれた息、いのちの霊です。自然の土の中から生まれ出たものではありません。わたしたちは土から成っています。しかし神の息を呼吸し、いのちの霊を生き、むしろ生かされています。そこに人のかけがえのなさ、人のいのちの無限の尊さがあります。

 霊とは、わたしたちのいのちにかかわるものです。神の息としてのいのちの霊です。いのちは死にます。しかし今や、新しく支えられる神のいのちの霊があります。その霊は、死人を生かし、無から有を造りだす力に満ちた神の恵みの霊です。わたしたちは土から土に、帰るべきところへ帰ります。それでも、わたしたちはただ土に帰っていくだけでなく、永遠の神の祝福のみ手に帰っていくのです。

 

■アッバ

 その霊、「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」

 15節の「アッバ」というアラム語は、如何にもという感じの言葉です。生まれて間もない赤ん坊が、少し物心がつき、やがて目の前にいる人に向かって、パッパッとか、ンマンマとか、アブアブと聞こえる音を発するようになります。それを、そのまま表記しただけの言葉です。しかしそんな言葉によって、幼な子は生みの親を求めるようになり、慕うようになり、信頼し切って呼ぶようになります。

 井上洋治という人が「私にとっての祈り」という一文の中に、こんなことを書いています。

 「祈りとは、『アッバ、父よ』という言葉を口にすることだ。『アッバ、父よ』というのは、幼な子の言葉。成長して、ひとりの息子が、今日は父親と話し合いたいことがあると身構えて、『親父!』と言うように呼びかける言葉とは違う。父と子が向かい合っているところで使われる言葉ではなく、むしろ父親の腕の中に抱かれている幼な子が、自分を暖かく包み込んでいてくれているその人に向かって、自然に発する声―『自ずからなる呼びかけ』だと思う」

 「自ずからなる」呼びかけ。何も考えず、ただ思わず口を突いて出て来る言葉だ、と言います。親にやさしく抱かれながら、その顔を見ながら、「アッバ、アッバ」と呼ぶ。信頼し、喜びに満ちて、そう呼びかけます。

 しかも「呼ぶ」というこの言葉は、どうにも抑え切れない、心の奥底から出てくる声、叫びといったニュアンスの言葉です。何の心配事もないときに、安心して「アッバ」と呼ぶというのではありません。そうせずにおれない、そうするほかないようなところで、いのちの主である神が、わたしたちをそのみ腕の中に幼な子を抱くようにして支えてくださっている。だからこそ、わたしたちはどんなときにも、いえ、どうしようもないときにこそ、「アッバ」と呼びかけることができるのだ、と言います。なんと大きな恵みでしょうか。

 

■父の姿

 とは言え、子どものときであればともかくも、大人になっても、「アッバ、アッバ」「アブアブ」と呼びかけることは、それほど簡単なことではないかもしれません。

 「おやじはキライだ」

 自分ではよくは覚えていないのですが、大学に入ったわたしは母親にそう言ったそうです。中学になったころから、父親に対して根深い抵抗感を持ち続けていました。その抵抗感が次第に融け始めたのは、皮肉にも「キライだ」と言った大学生になってからのことでした。親元を離れ、少し距離をおくことができたからかも知れません。四〇歳も間近になって、自分のこどもが思春期を迎え、自分自身が子どもとの距離に悩み始めた頃、そして父親の頭に白髪が目立ち始めた頃、何とはなしに、ときに意識しながら突き放していた父親の姿が、ようやく、でも、はっきりと近づいてきたように思えました。

 子どもの頃は何の抵抗もなく「父ちゃん」と呼んで、頼り切り、信頼していたのに、成長し、背たけが伸びてくると、頑固一徹な父親の存在がどうにも煙たいものに思えました。父親が変わったというのではありません。わたしが父に追いつき、追い越そうと、もがき始めていたのでしょう。しかし、それは到底叶わぬこと。であればこそ、余計に反発を感じていたのでしょう。そのときのわたしは明らかに、父の姿を見失っていました。見失っていたからこそ、「父ちゃん」「父さん」と呼びかけることができずにいました。

 でも本当は、そんなときにこそ、そんなときだからこそ、「アッバ、父よ」「父ちゃん」と言って、父親に真正面からぶつかっていけばよかったのだ。それは、自分が父と同じ親になって初めて、気づかされたことでした。

 

■ヨブもまた

 そんな愚かな息子から伝道者の道を歩む決心を告げられたときには何も言わなかった父が、神学校を卒業する直前、一緒に夕食をとっているときにポツリと呟きました、「聖書全巻を何度も読み通してみたが、聖書はなかなかいい」と。驚きつつ「何がよかった」と聞くと、「ヨブがいい」と一言。どれほどの労苦にあっても、愚痴一つこぼさない父でした。父とヨブの姿が重なりました。

 ヨブは真直ぐに、神を畏れて生きていました。その彼が一朝にしてそのすべてを失う経験をします。その上、その健康も蝕まれ始めます。正しく生きてきた自分がなぜ苦しまなければならないのか。悪人が何の悩みもなく生きて栄えているというのに。そもそも自分のようなものに生が、いのちが与えられたこと自体がまちがいなのだ。ヨブの問いは激しく徹底的したものでした。ヨブは苦しみながら、呻きながら、自分の身をぶつけるように神に迫ります。わたしたちもまた人生の谷間で、何度、このヨブの声を頷(うなづ)きつつ聞いたことでしょうか。

 ヨブは問う人でした。しかし彼は恐れてはいません。信じているから問うのです。彼の前にある大きな胸に向けて自分をぶつけていくのです。自分をぶつけることでかろうじて立っている人間です。その意味で、彼は「アッバ、父よ」と呼びかける幼な子のようです。それは、苦難の底にある彼と共に、彼に寄り添って立っておられる、この世の何者よりも彼に近い神を、彼が知っていたからでした。ヨブ記19章25節から27節、

 「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。しかもわたしの味方として見るであろう」

 彼が信じていたのは、人間の思いをはるかに越えた「全能の神」ではなく、全能でありつつもまた、わたしたちに「限りなく近くにある」ことを望んでくださる父のごとき、また母のごとき神でした。彼は、全存在をかけて神にぶつかりながら、そうやって傷つきながら、何よりも、そういう仕方以外に、彼は信仰者として生きることができませんでした。

 

■神の子どもにされて

 だからこそ、「アッバ、父よ」と呼ぶという言葉の前に、パウロはこう書いています。

 「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」

 「子とする」という言葉は、普段使う言葉で言えば、「養子にする」ということです。わたしたちは神の養子なのです。パウロはそれを、はっきり奴隷と区別して語っています。わたしたちは、生まれながらの神の子どもではありません。ただ神が、神の子どもに、養子にしてくださいました。洗礼のとき、わたしたちはみな、神の霊を受け、神と全く新しい関係に入りました。それは、わたしたちにその力があるからでも、わたしたちがそれにふさわしいからでもありません。わたしはただ、わたしたちの力を超えた、造り主なる神、いのちの神を信じる。そのようにして、神との関わりに招き入れられたのです。

 その時に、間違っても奴隷の思いを抱いてほしくない、とパウロは言います。奴隷も主人持ちです。しかし、奴隷は主人に対して、いつも「びくびく」と脅えます。不安を抱きます。力と力による向かい合いだからです。自分の力が弱く、向こうに圧倒的な力がある。強制されれば、言うことを聞かざるを得ません。うっかり主人の命令に背きでもすれば、殺されるかもしれないのです。内心は、憎しみと報復の思いでいっぱいかもしれません。

 けれども、神とわたしたちの関係は違います。わたしたちは、神の子どもなのです。神は生みの親です。親と子の関係は、何よりも信頼です。子どもが、父や母に対してあるがままでいられるのは、どんなことがあっても、その絆は壊れない、と思っているからです。信じ切っているからです。自分の父や母が、自分のいのちを奪うなどとは考えられない、と思うからです。

 わたしたちがいつでも、自分を神の子どもであるように感じるわけではありません。人から見て、神の子どものように見えるわけでもありません。また実際に、神の子どもらしく行動しているわけではないことを、神は知っておられます。そんな現実の生の只中にあってそれでもなお、わたしたちが、自分たちの欲望だけを求め、己を絶対とし、己を神のように振舞うことを断念し、互いのいのちを慈しみ、愛によって、新しい、平和な交わりの中を生きること、そのことをパウロは願いながら、すべての源である親なる神に向かって、ひざまずいて「アッバ、父よ」と祈るよう教えるのです。

 わたしたちは確かな見通しをもって、自信をもって歩いているわけではありません。パウロが「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」と言っているように、わたしたちは、惑い、迷い、おののき、恐れつつ生きています。ただわたしたちは、すべてを支配され、すべてを超えて、わたしたちに限りなく近くに共にいてくださる神のみ名を呼ぶことで、かろうじて生かされ生きている者に過ぎません。

 だからこそ、神の子どもとして安心して、信頼して、何もかもすべてのことを委ねて、どんなときにも「アッバ、父よ」と呼びかけ、希望と喜びをもって、与えられた人生を大切に歩んでいただきたい、そう願わずにはおれません。