福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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10月3日 ≪聖霊降臨節第20主日礼拝/世界聖餐日≫ 『二階の部屋で―聖餐(10)』 ルカによる福音書22章14~38節 沖村裕史 牧師

10月3日 ≪聖霊降臨節第20主日礼拝/世界聖餐日≫ 『二階の部屋で―聖餐(10)』 ルカによる福音書22章14~38節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏    主はわが牧者 (R.H.ハーン)
讃美歌    20 (1,3節)
招 詞    詩編116篇5~7節
信仰告白    使徒信条
讃美歌    376 (1,3節)
祈 祷
聖 書    ルカによる福音書22章14~38節 (新153p.)
讃美歌    76 (1,3,4節)
説 教    「二階の部屋で―聖餐(10)」
祈 祷
献 金    65-2
主の祈り
報 告
讃美歌    436 (1,4節)
祝 祷
後 奏    主はわがかいぬし (D.フスタット)

≪説 教≫

■過越(すぎこし)の祭りで

 福音書の中に描かれる食事の中で最も印象深いのは、主の晩餐―二階の部屋での食事です。

 ルカは、二階の部屋での食事、それは過越の祭りの食事であったと言います。過越の食事は、イスラエルの民が奴隷から解放されたことを祝い、自分たちのアイデンティティ―贖(あがな)われ、愛され、救い出され、自由にされた神の民であることを思い出すための特別な祝宴、大きな喜びと感謝にあふれる食事でした。

 二階の部屋に集まった弟子たちにとっても、その食事は、贖いと解放、そして、救いの機会となるはずでした。ところが、過越を祝うためにエルサレムに押し寄せる何千人もの巡礼者たちの騒々しいまでの大きな喜びと、イエスさまと弟子たちの周囲を渦巻く暗闇とは、実に対照的です。ルカは、22章冒頭に「祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた」(2)と記しています。ユダはこのときすでに、イエスさまを裏切るための取引を敵と交わしていました。暗雲が立ち込めます。イエスさまと弟子たちが二階にある部屋に集まったのは、このコントラストな光と闇の中でのことでした。

 食事は、一日の最後の光が街から消え去る、日没直後に始まります。

 彼らが食卓に着いたとき、イエスさまは「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」(16)と告げて、食事を始められました。この食事の後に、断食と悲しみの時がやって来るのだ、ということです。パーティーの終わりが近づいていました。

 ユダヤ人の食事の習慣に従って、イエスさまは杯を取り、葡萄酒に感謝を捧げられます。「祝福の杯」です(1コリ10:16)。開会の感謝の祈りの後、「神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(18)と宣言され、その杯を弟子たちの間で分けられます。

 続いてイエスさまは、パンの塊を取り、それを裂かれます。まさに食事そのものです。過越の子羊も食卓に並べられていたに違いありません。パンへの感謝の祈りが捧げられます。この祝福の後、パンが裂かれ、テーブルの周りを廻されます。これも、慣れ親しんだ食卓の作法でした。

 しかしイエスさまはここで、過越の食事になじまない、驚くべき言葉を語り始められます。

 

■裏切る者

 「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」(21)

 食事と食卓での会話が始まるやいなや、イエスさまは爆弾を落とされます。

 食卓は混乱します。「それは、わたしのことだろうか」。一人ひとりが自らに問いかけます。レオナルド・ダ・ヴィンチが有名な絵画「最後の晩餐」で描いている、その瞬間です。「彼らは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」(23)とあるように、誰が裏切り者なのか、誰にも分かりませんでした。食卓に着いていた誰もがイエスさまを裏切るかもしれないのです。誰もが誘惑に晒されています。

 この後、神の国で最も偉大な者となるのは誰か、という議論が弟子たちの間で起こります(24-27)。他の福音書では、この議論は別の場面に置かれています。しかし、ドラスティックな、劇的な表現の天才であったルカは、ここにその議論を置きます。二階の部屋の場面に、偉大さを巡るこの論争を置くことで、ルカは、イエスさまとはいったい何者なのか―苦難の僕としてのイエスさまを弟子たちが全く受け入れていなかったこと、またイエスさまの御国がどのようなところなのか―貧しい人々や見捨てられた人々の御国であることを弟子たちが全く理解していなかったことを暴露します。

 偉大さを巡る議論は以前にもありました。9章46節以下、

 「彼らの間で、自分たちのうちで、だれがいちばん偉いかという議論が起きた。しかし、イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。『…あなたがた皆の中で最も小さい者こそ…偉い者である』」(9:46-48)

 あたかもその日に戻ったかのように、イエスさまは言われます。

 「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。…わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」(26-27)

 イエス・キリストの最後の七日間を描き、ブロードウェイでロングランを記録、また映画にもなったロックミュージカル、「ジーザス・クライスト・スーパースター」にこのシーンが鮮やかに描かれています。キリストが弟子たちに食べ物を与え、十字架での屈辱的な死に備えているこの場面で、弟子たちはぶどう酒をがぶ飲みし、その結末をこう歌い始めます。

 「わたしを見てください。わたしの試練と苦難のすべてを見てください。わたしが苦しみ、わたしが犠牲にしたすべてを見てください。いつの日か、彼らはわたしについて本を書くことでしょう」

 このシーンは喜劇であり、悲劇です。弟子たちの議論の中で、彼らが実はまだ、この新しい御国について何も分かっていないことが明らかになります。弟子たちは依然こう考えています、イエスさまは軍事的支配者、政治的君主、そして「何か良いことがあなたがたの上にもたらされている」と説き、報いを与える宗教的な起業家になろうとしているのだ、と。彼らはこのときもまだ、石をパンに変える「奇跡の人」を求めていたのです(4:3-4)。

 

■良き知らせ

 弟子たちが一番偉いのは誰かと口論をしているとき、イエスさまは、ディアコン―執事、あるいは給仕―となって食卓で待っておられました。ヨハネは、彼の福音書13章の中で、イエスさまがただ弟子たちに仕えるのではなく、その足を洗うことによって、その意味をよりはっきり示そうとしています。そうすることでイエスさまは、御国でのご自分の姿を、身分卑しい奴隷の振る舞いとしてお示しになるのです。

 とはいうものの、イエスさまが来るべき御国での栄光の席を約束しておられるのは、誤解と無知、混乱と自己中心の中にある弟子たちに対して、です。弟子たちの無知と裏切りは、彼らがその約束に価しない者であることをはっきりと示しているにもかかわらず、イエスさまは彼らのために、御国での宴会を準備するために進み行かれるのです。

 これは良き知らせ。まさに福音です。

 「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。(そうして)あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(28-30)

 罪、無知、そして裏切りのただ中に深まる暗闇の中で、イエスさまの慈悲深い光はより明るく輝きます。この良き知らせは、今、暗闇に包まれた二階の部屋の中で告げられた悪い知らせとは、対照的です。弟子たちは、イエスさまが食べ物や飲み物を分かち合うために選んだ罪人です。弟子たちは、イエスさまが仕えられる罪人です。弟子たちは、イエスさまが彼らのために偉大な宴会を準備しようとしている罪人なのです。

 31節から33節では、シモン・ペトロに焦点が当てられます。

 「サタンはあなたがたを手に入れようと神に求めた」と、イエスさまはペトロに言われます(31)。「あなたがた」と文の途中で単数形から複数形に切り替えられます。イエスさまはペトロにだけでなく、他の弟子たちにも語りかけておられます。サタンが弟子たちすべての仲間になったのです。誰もが、イエスさまを裏切るかもしれません。誘惑の罠から守られる者など一人もいません。

 しかしここで、もう一度、イエスさまは、この誘惑された者たちのために祈られます(32)。ペトロは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と宣言します(33)。しかしイエスさまは、ペトロが来るべき激動、激震の中でしっかり立っていることができないことを、よくよくご存知です。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(34)。それでもなお、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とイエスさまが祈られるのは、この弟子のためなのです(32)。

 

■もうそれでよい

 こうして、二階の部屋での最後の対話、剣についての会話が始まります。

 35節から38節です。とても奇妙な会話です。イエスさまは弟子たちに尋ねます、「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか」(35)。そのときイエスさまは、弟子たちが剣を持っているか、と言われます。

 「そこで彼らが、『主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります』と言うと、イエスは、『それでよい』と言われた」(38)

 イエスさまが突然、弟子たちに剣を持っていなさいと言われること自体、おかしなことです。ほんの少し後に起こることを考えれば、実に奇妙です。当局がイエスさまを捕まえようとやって来て、弟子たちがその剣を使おうとすると、イエスさまは厳しく彼らを叱責されます。51節です。

 「やめなさい。もうそれでよい」

 ある学者はこう説明します。二本の剣は、旧約聖書の律法で、誰かに死罪の判決を下すときには、二人の証人が必要だと定められていることと関係しているのではないか、と。これが正しければ、本当は、「あなたがたがわたしに背いたことの証拠はあるか」とイエスさまが言っておられるのだ、ということになります。

 そう、証拠があるのです。二本の剣がここにあります。弟子たちがイエスさまに従ったときに、何も持ってはならない、とイエスさまは彼らにはっきり言われなかったでしょうか(ルカ10:4)。財布も袋も履物もいらない、当然、剣もいらないのです。二本の剣の存在は、イエスさまが弟子たちに言われたことを、彼らが守ることができなかったことの決定的な証拠なのです。

 このイエスの運動がうまくいかなかった場合に備えて…、と弟子たちは考えたのかもしれません。イエスの力が十分ではないと判明したときに備えて…。成り行きが荒っぽいことになったときに備えて…。一対の剣は、そのための保険でした。しかし、剣によって安全を確保しようとするその願いは、弟子たちが不服従であるということの証拠でしかありません。

 この後、弟子たちは、イエスさまが「あなたがたが誘惑に陥ることがないように祈りなさい」(40,46)と促されることになる、あのオリーブの山へと出かけて行きます。しかし悲しいかな、彼らはそこでも眠ってしまいます。そして、ついに兵士たちと捕縛者たちがイエスさまを捕らえに来るそのとき、弟子たちも、捕縛者たちも剣を持っていました。両方が暗闇の力に加担します。弟子たちの行いと武器、捕縛者たちの行いと武器、そこに何の違いもありません。

 弟子たちがそんな暗闇の中に逃げ込んでいる間に、イエスさまが死へと導かれようとするとき、イエスさまは「もうそれでよい!」と命じられるのです。

 悲しい物語です。次の日、イエスさまが裁きと死へと連れて行かれるとき、イエスさまの最も親しい十二人の友人たちは、イエスさまを見捨てて逃げます。

 今、わたしたちの目の前で起こっていることは、わたしたちが歴史の中で何度も何度も繰り返してきた、またわたしたち自身の人生の中で何度も演じてきたことと同じ、恐怖、自己中心、無知、臆病、裏切りの悲劇です。わたしたちは弟子たちのように一緒に働こうと努力します。わたしたちは忠実な者でありたいと願います。わたしたちは勇敢であろうとします。わたしたちは友人に忠実で、正義のために立ち上がるつもりでいます。しかし結局のところ、成り行きが悪くなるとき、贖うべき値があまりにも高いとき、わたしたちが自分の善意に基づいて行動しなければならないとき、わたしたちは深まりゆく暗闇の中に、名もなき者として群衆の中に、安全な匿名性の中に逃げ込むのです。

 

■悪の只中の良き知らせ

 しかし、すべての悲しみの背後に、二階の部屋の出来事の奥底に、喜びが潜んでいます。食事の他の物語と同じように、この物語にも良き知らせ―福音があります。救い主は罪人たちと一緒に飲み食いしてくださるお方なのです。たとえ、弟子たちが罪の只中にあっても、イエスさまは弟子たちに、御国の宴会の食卓の中の、それも一際目立つ場所を約束されるのです。イエスさまは、図らずも弟子となったこの罪人たちのために、その食卓を備え、整えてくださるのです。

 それこそが、二階の部屋での聖木曜日の食事、奴隷から自由への過ぎ越しでした。その夜、新しい契約が結ばれ、死に至るほどのキリストの愛によって契約が定められました。古い契約と同じように、その新しい契約もまた、神によって結ばれるもので、わたしたちによってではありません。わたしたちは最後まで忠実であることができませんでしたが、だからこそ、神はわたしたちに忠実であり続けてくださったのです。わたしたちは最後まで神のそばに立つことができませんでしたが、それでも、イエスさまはわたしたちのそばにいてくださったのです。たとえ、わたしたちの愛が揺らぎ、つまずいても、神の愛は耐え続けました。

 その夜、ユダだけが裏切り者だったのではありません。彼だけが接吻をもってイエスさまを裏切り、イエスさまを抱き締めるふりをして見捨てたのではありません。マタイは、「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(26:56)という言葉で、この物語を閉じています。「皆」なのです。

 わたしは今、木曜日の暗い夜に、ユダが、そしてペトロと残りのすべての弟子たちがイエスさまと一緒に食卓に着いていたことを、心から喜んでいます。なぜなら、もし彼らがそのとき、そこにいなかったら、日曜日の朝に主の晩餐に与るために、こんなわたしが、そしてあなたが、主の食卓の周りに集まることなど到底できなかっただろう、そう思えるからです。感謝です。

 「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られました。だから、過越祭を共に祝おうではありませんか」(1コリント5:7b-8a)