福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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11月29日 ≪降誕前第4・待降節第1主日礼拝/アドヴェント≫ 『笛吹けど踊らず』マタイによる福音書11章7~19節 沖村裕史 牧師 - 小倉東篠崎教会

11月29日 ≪降誕前第4・待降節第1主日礼拝/アドヴェント≫ 『笛吹けど踊らず』マタイによる福音書11章7~19節 沖村裕史 牧師

■福音を告げ知らされる
 直前5節、イエスさまはご自身がなさって来られた数々のみ業の最後に、「貧しい人は福音を告げ知らされている」と言われました。貧しい人々に福音を告げることこそ、究極のみ業でした。そして続けて6節、「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われます。貧しい人々に福音を告げられるイエスさまに、つまずくことが、つまずく人が、どれほど多かったことでしょう。およそすべての人が、このイエスさまにつまずき、ついにはイエスさまを十字架に架けました。福音書は、そのことを語ります。
 「福音を告げ知らされる」。
 このことにすべてをかけておられる方々がおられます。ご高齢になり、体に不自由を感じながらも、いえ、であればこそなおのこと、日曜日のこの礼拝に出席するために、月曜日から土曜日までの生活のすべてを整えて、この礼拝に出席されている方々が、今もここにおられます。その一人ひとりのお姿が信仰の証であり、その信仰によってこの礼拝は真の礼拝となります。わたしたちの礼拝が完璧だと言うのではありません。足りないこと、欠けていることはいくらでもあります。それでも、告げ知らされる福音を聞き取ることに集中する、そのことが礼拝を礼拝にします。
 イエスさまが洗礼者ヨハネについてこの7節以下で語られた言葉もまた、そのことです。
 洗礼者ヨハネは社会事業をやった人ではありません。癒しの奇跡をイエスさまのように行ったわけでもありません。ただ言葉を語っただけです。ただそれだけに生きた人です。だからこそ、「荒野に呼ばわる声がする」と言われました。その声そのものになったヨハネの姿を、イエスさまは、ただ「風に揺らぐ葦」のような弱々しいものでもなく、柔らかい着物を着て、王宮にふんぞりかえっているような者でもない、と言われます。旧約聖書の中に語られる預言者の姿に留まらない、「預言者以上の者だ」とはっきり言われます。

■預言者以上の者
 「預言者以上の者」。「預言者以上の者」とは、どういう意味でしょう。
 12節に「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」とあります。「天の国は力ずくで襲われており」という言葉は、「天の国が激しく入り込んでいる」と訳すこともできます。このヨハネの時から、天の国がこの世界に激しく入り込んで来たということです。別の言葉で言えば、神ご自身がわたしたちの人間の世界の中に介入して来られたということです。ここに神の新しい歴史が始まったのです。その新しさによって、これまでの価値観がすっかり変わってしまいました。すっかり意味を変えてしまうようなことが、今ここに始まったのです。
 教会が語るべきこと、礼拝で告げ知らせるべきことはただ一つ、この福音です。神の支配が始まったということです。神は遠く天におられる、わたしたちと無関なお方ではありません。今ここに生きて働いておられるのです。
 礼拝を通して、わたしたちは神に出会います。神は、今ここで、わたしたちの生活に入り込んで来ておられるのです。わたしたちは、その神と相対します。神のみ前に出る時ほど、わたしたちが真剣に生かされ生きる時はありません。そんな神の歴史が始まったのです。ヨハネにおいてです。そして、ヨハネを先駆けとする御子イエス・キリストにおいてです。これが「預言者以上の者」ということの意味です。
 今日、わたしたちはアドヴェントを迎え、クリスマスを待ち望みつつ、この礼拝を守っています。クリスマスに御子イエスがお生まれになったということは、この神の新しい歴史が始まったということです。
 神の支配が今ここに始まった。自分のところに神が来てくださった。ヨハネが語ったことはそれだけです。神の支配が始まった。だから、早くそれを迎える準備をしよう。あなたたちにはもう、その準備はできていますか。ヨハネは、そう問い続けたのです。

■嘆きの歌
 しかし、ヨハネを先駆けにこの世に来られたイエスさまが、今、嘆いておられます。ヨハネとイエスさまが共に神のみ業を始めたのに、人々は一体何をしているのか。16節から17節に、嘆きの言葉が記されます。
 「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』」
 17節の言葉は、当時の子どもたちが歌ったものだろうと言われます。わたしたちの身近でも、子どもたちの「お嫁さんごっこ」や「お葬式ごっこ」を目にすることがあります。同じように、ユダヤの子どもたちも、そんな「ごっこ」遊びをしていたのでしょう。そして、「お嫁さんごっこをやろうよ」と誰かが言い出すとき、「そんなのつまんないよ。僕、やんない」という子どもが必ず出てくるものです。そういう時に歌った、嘆きの歌です。
 「笛を吹いて、お嫁さんごっこをやろうと言ったのに、ちっともみんな踊ってくれなかった。お葬式ごっこをやろうと言って、弔いの歌を歌ったのに、だれも悲しんでもくれなかった」。
 「今の時代」というのは、「この人たち」と訳すことができます。「ここに生きているこの人たち」ということです。
 「この人たち」を何に比べようか。この嘆きの歌を歌っている子どもたちと似ている。これして遊ぼう、あれして遊ぼうと呼びかけるけれど、少しも相手が乗ってくれないので、ぶつぶつ言っている子どもに似ている、と言われます。神様に「この喜びを共にしてください、この悲しみを共にしてください」と願うのに、神様がちっとも調子を合わせてくださらないと言って、文句を言っているように聞こえる、ということです。
 それはちょうど、葬式や結婚式の時だけ、神様にお出ましを願っている人のようです。自分の喜びを確かなものにし、自分の悲しみを慰める時だけ、神様にサービスしていただく。しかし、それ以外の余計な時には、出て来ていただく必要はないし、そうしていただくわけにはいかない、迷惑なのです。これは、わたしたち信仰者の生活の中にも忍び込んでくる考え方です。
 もちろん、求められれば、いつでも喜んで祈ります。けれども、そんなふうに神が利用されるとすればいかがでしょう。耐え難いことです。わたしたちの人生の中で、今は幸せな祝いのときですから、神様、喜んで祝福してください、今は悲しいので、神様、一緒に泣いてください、と願うだけで良いのでしょうか。イエスさまは、そんなわたしたちのことを深く嘆いておられるのです。

■拒絶の歌
 しかし、今の話を聞きながら、「おやっ」とお思いになった方があるかもしれません。むしろ、子どもたちに「遊んでくれ」と呼びかけているのは、洗礼者ヨハネであり、イエスさまではないのか。その呼びかけを聞きながら、一緒に遊ぼうとしない人こそ、「今の時代」「この人たち」なのではないかと考えることもできるのです。そう考える人の方が多いかもしれません。とすると、ヨハネやイエスさまが、本当の悲しみの中に立ち、また喜びに踊ろうとしても、人々が乗って来ない、そういう嘆きだということになります。
 今ここに神様がおられて、わたしたちに「一緒に」と声をかけてくださっています。神様が全く自由に、たとえわたしたちがどのような者であろうと、わたしたちに「一緒に」と誘ってくださっているのに、いろいろな理屈をつけて、断ってしまうのです。神様の仲間になることを、一緒にいることを、人は嫌い、拒んでしまうことがありはしないでしょうか。
 ヨハネが禁欲的な生活をします。食べることも飲むこともしません。そうすると、あんな禁欲的な生活などわたしたちには無理だ。あんな馬鹿げたことをしているのは、悪霊に取りつかれて、おかしくなっているのだと言ってしまうのです。そしてまた、イエスさまが徴税人や罪人と一緒に楽しく宴会をし、大いに飲んだり食べたりしておられると、大切な掟を破り、厳格な規律を捨てて、神を信じてもいない、あのぐうたらな徴税人や罪人たちと一緒に乱痴気騒ぎをする者だ、ただの「大食漢で大酒飲み」ではないかと言うのです。
 ヨハネが示した神の悲しみも、イエスさまが示した神の喜びも、聞いても聞かず、見ても見ません。そこに共感などありません。むしろ、それを踏みにじってしまいます。
 さきほどの12節に、「天の国は力ずくで襲われており」とありました。この言葉は「天国が激しく入り込む」ということだと申し上げましたが、もちろん新共同訳聖書のように「力ずくで襲われており」と訳すこともできます。
 どのように襲われているのか。暴力によってです。「力ずく」という言葉は、「荒々しく暴力をもって」というニュアンスを持っています。ということは、「天の国が暴力で踏みにじられている」ということです。
 マタイによる福音書21章33節以下の、あのぶどう園のたとえを思い出します。ぶどう園の僕たちが、主人から預かっているぶどう園を奪い取ってしまおうとします。そしてついには、その主人のひとり息子がやって来て交渉したとき、それをつかまえて殺してしまいました。
 イエスさまが言われていることは、そういうことです。それと同じように、神の支配を、人間がよってたかって踏みにじるのです。自分の思う通りにいかないからと言って、今ここにもたらされている神の悲しみも喜びも無視して、いやむしろ、それがもたらされることに苛立って、これを踏みにじるのです。

■共に悲しみ、共に喜ぶ
 思えば、わたしたちはしばしば、神に相対して座り込んでしまいます。座り込んだままです。立とうともしません。神の方から、こちらにやって来てくださらなければと思っています。いつのまにか、そう思い込んでしまいます。そんなふうに祈っています。そんな座ったままの祈りがどんなに多いことでしょうか。
 祈るということは、立ち上がって、自分の気持ちを神の方に持って行くことです。そして神をほめたたえる、神はすばらしい方ですとほめたたえることです。そのようにして、神の悲しみと喜びとに、自分の存在を添わせることです。神が何を悲しみ、何を喜びとされるのか、そこにわたしたちのすべてを注いで、それを我がこととすることです。
 この神の悲しみと喜びに、神の知恵が現れます。
 19節に「知恵の正しさは、その働きによって証明される」とあります。「その働きによって証明される」という言葉は、ルカによる福音書7章35節では「それに従うすべての人によって証明される」となっています。神の知恵に従うすべての人に働く知恵の働きが証明するということでしょう。「それに従うすべての人」とは、もちろんわたしたちのことです。
 わたしたちがヨハネと同じように悲しみ、イエスさまと共に喜ぶのです。何を悲しんだり、喜んだりするのでしょうか。罪をです。わたしたちが罪人であるかということ以外に、何かあるでしょうか。
 イエスさまに始まった神の国、神の支配は、なぜ、その激しいほどの力を持たなければならなかったのでしょう。それは、わたしたちの罪と戦うためでした。罪と戦う激しさをもって入り込んで来てくださった時に、実は、人間の罪が荒々しくそれを踏みにじってしまうからです。
 そこで、ヨハネの首がはねられるのです。
 そこで、御子イエスが十字架につけられて殺されるのです。
 教会は、御子イエスのみ言葉、み業を語ります。それはつまり、わたしたちがどんなに罪深いかということと、その罪を神がどれほどの深いあわれみをもって赦し、愛してくださっているのかということを語るのです。
 とすれば、礼拝で告げ知らされる福音は、「あなたたちの罪は赦されている」という、神の赦しのみ業を宣言すること以外にありません。神は悲しみつつ、喜びつつ、わたしたちに告げ知らせてくださるのです、「あなたの罪は赦されている」と。ここに神の救いが起こります。
 わたしたちは決してひとりではありません。御子イエスが今ここに来てくださって、ずっと一緒にいてくださいます。だから、何も難しいことはありません。大丈夫です。それが、御子を待ち望むわたしたちに与えられている大きな希望なのです。

お祈りをします。主なる神。ろうそくの光りがひとつ灯りました。わたしたちの心も燃やしてください。わたしたちが喜びの涙をもって、悔い改めの涙をもって、自分自身に起こっているあなたの愛を語り、歌うことができるように。あなたがいつも共にいてくださいます。だから希望を持って、困難に満ちているこの世の生活の中へと今ここから出て行きます。心に懸かることがたくさんあります。立ち往生してしまいそうな難問があります。でも、どうぞわたしたちがひるむことのないようにしてください。主のみ名によって。アーメン