福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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11月10日 ≪降誕前第7主日/降誕前「家族」礼拝≫『野原の中に寝ころんで』(こども) 『カラスと雑草』(おとな) ルカによる福音書 12章 22~32節 沖村 裕史 牧師

11月10日 ≪降誕前第7主日/降誕前「家族」礼拝≫『野原の中に寝ころんで』(こども) 『カラスと雑草』(おとな) ルカによる福音書 12章 22~32節 沖村 裕史 牧師

お話し「野原の中に寝ころんで」(こども・おとな)

■レンゲ畑の思い出

 今日のイエスさまの言葉を聞いていて、ふと思い出したのは、レンゲ畑に寝ころんでいた子どもの頃の自分の姿でした。家の周りは田圃(たんぼ)ばかり。稲を刈った後のその田圃にレンゲの種が蒔(ま)かれます。レンゲの根っこが田圃の大切な栄養になるからです。春になると、あたりの田圃はレンゲの花でいっぱいになります。柔らかな緑の草の中にピンクの花が敷き詰(つ)められます。

 ある晴れた日の学校からの帰り道、ランドセルをあぜ道に放り投げ、体を柔らかな緑とピンクの絨毯(じゅうたん)の上に投げ出します。仰向けになって、空を見上げます。真っ青な空に浮かぶ白い雲。空から近づいて来たようで、手を伸ばせば掴(つか)めそうです。顔を横に向けると、そこにはレンゲの花。花の付け根は白く、花びらの先にいくに従ってピンクが濃くなっていきます。塗りつぶしたピンク色ではありません。ため息が出るほどにきれいな花、花、花…。そこに小さなミツバチが飛んできて、花の中に頭を突っ込んで、せわしなく蜜を吸っています。甘くておいしんだろうなと思いながら顔を下に向けると、土の匂(にお)いが鼻の中に強くなり、草と土の匂いがわたしの体を包みます。

 わたしの周りには、いのちが溢れていました。そんな忘れられない思い出に重なる、「生きる」と題されたこんな詩があります。

  神さまの/大きな御手の中で

  かたつむりは/かたつむりらしく歩み

  蛍草は/蛍草らしく咲き

  雨蛙は/雨蛙らしく鳴き

 

  神さまの/大きな御手の中で

  私は/私らしく/生きる

 この詩を書いたのは、水野源三。その水野に「傷跡」という詩があります。

  三十三年間/寝たきりの

  私の額には/三つの傷跡がある

  その一つ一つの傷跡には

  美しい野山を/遊び回った/思い出がある

 

  神様が/与えて下さった/尊い十年間が

 1946年8月、敗戦からちょうど一年目が過ぎたころのことでした。故郷で集団赤痢が発生。小学校四年生の源三も感染します。町中患者があふれ、どこの病院もいっぱい。ようやく病院に入院できましたが、脳膜炎(のうまくえん)を起こしていました。十数日後、熱が下がり、意識を取り戻した時には、すでに体の自由は奪われていました。脳性麻痺(のうせいまひ)でした。治療の手立てもないままに退院。しばらくは壁を伝ってよろけながらも二、三歩歩けましたが、それもすぐにできなくなり、六畳一間に臥(ふ)すほかない身体(からだ)になりました。九歳の秋でした。

 源三は、信州(しんしゅう)の豊かな自然の中で育ちました。いっせいに花が咲く春は野山を駆(か)けめぐり、夏は千曲川で泳ぎ、手づかみで魚を取り、秋にはきのこ狩り、冬になると手作りの竹スキーやみかん箱のソリで遊びました。ありふれた、でもかけがえのない幸福な少年時代。それが、九歳八か月で終わりました。外遊びが好きな、生傷(なまきず)の絶えない腕白(わんぱく)でした。それだけに天井を見つめて一日中を過ごすようになった不幸をどれほど呪(のろ)ったことでしょう。やがて死にたいと口走(くちばし)っていた口もきけなくなり、源三に残されたのは、見る、聞くだけになりました。

 そんな暗く投げやりだった源三の態度が一変したのは、キリスト教との出会い、洗礼を受けてからでした。顔つきが変わり、いつもにこにこして、弟妹(きょうだい)が口をそろえて、「ほんとうにゲンちゃんはパッと変わった」と言うほどの劇的な変わりようでした。後に、源三はその時のことを手紙にこう書いています。

 「ただ植物のように生きる私でしたが、主イエスの十字架に顕(あらわ)された真の神の愛と救いに触れ、喜びと希望をもって生きることができるようになりました」

■野の花を見なさい

 イエスさまも、そんな身近にある鳥や草花に目を留め、いのちの大切さ、そのかけがえのなさに、わたしたちの目を向けさせようとされます。

 でも、ここに出てくる鳥は「カラス」です。カラスという鳥は、日本でもあまり好かれる存在ではありませんが、イエスさま時代のパレスチナでも、不吉な嫌われる鳥でした。マタイは漠然(ばくぜん)と、空に飛ぶ鳥としてイエスさまの言葉を書き留めましたが、聖書の研究をしている人たちは、イエスさまがたとえの中で持ち出したのは、ルカの「カラス」のほうだったのではないかと言います。もうひとつ例に出された「野の花」のほうは、マタイもルカも同じですが、以前は「野の百合(ゆり)」と訳されていて、こっちのほうが今でもよく知られています。しかしこれも「カラス」と同じく、イエスさまが語ったのは百合のように美しい花ではなくて、見すごされてしまう野原の名もない花のことだと今は考えられています。

 イエスさまが言われたのは、あの嫌われもののカラスを見てごらん、野原の小さな花を思い浮かべてごらん、すべてのものにいのちを与えてくださった神様はそのいのちゆえに、いつも、どんな時にも大きな愛を注いでくださっている、ちっぽけで、取るに足りない存在、忌(い)み嫌(きら)われるようなものをさえ、決して見過ごしにされず、いえ、それらこそをいとおしく養ってくださっている、だから、その何百倍も豊かなにされているあなたたちのことを愛し、養ってくださらないはずはない、だから、あなたたちも明日のことを思い煩(わずら)ってはならない、ということでした。

 このイエスさまの小さな花のたとえをタイトルにしたのが、ウィリアム・E・バーネット原作、ラルフ・ネルソン監督の『野のユリ』(1963年)です。その中にこんなシーンが出てきます。

 主人公の黒人青年ホーマーと、東ドイツからやって来た修道院院長のシスター・マリアが、英語とドイツ語の聖書をつき合わせながら、自分の言いたいことを相手にわからせようとする場面です。ある晩、ホーマーはこれまで自分が働いた分の賃金(ちんぎん)を院長であるマリアに請求(せいきゅう)したのですが、彼女は素知(そし)らぬ顔です。実は修道院に、彼に払えるような現金はありません。ルカによる福音書を引用して、働く者は報酬を受けて当然だと主張するホーマーに、マリアは、マタイによる福音書の一節、「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華(えいが)を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」で応酬(おうしゅう)します。栄華を極めたソロモンの装いも野の花の美しさには及ばない。だが、明日は炉に投げ入れられる野の花さえ、神様はいのち与えられ、このように装ってくださった。ましてや、あなたがたにそれ以上良くしてくださらないはずがあろうか、と。マリアは言います、いのち与えられた神様は、このいのちゆえにすべてのものを愛し、養ってくださっている。だから何も心配はいらない。お金のことなんかで思い煩ってはいけない。その日のやるべきこと、勉強や仕事を終えられたことに満足して、それを喜べば十分だ、と。さて、皆さんはどう思われるでしょうか。

 (ではここで、そのシーンをご覧いただきましょう。)

 わたしたちは、一日一日の出来事を素直(すなお)に受け入れているでしょうか。きっと嫌なこと、悲しいこと、苦しいことがあれば、だれもが、ちっとも楽しくない、つらい一日だったと感じることでしょう。でも、つらいと感じるのは、その出来事を受け入れていないからではありませんか。イエスさまはただ、がんばれって言っているのではありません。そうではなく、今日一日を精一杯生きて、苦しいことや悲しいこともあったけど、それでもこうして無事に一日を終えることができた、ただそのことを神様に感謝したらどうか、と勧めるのです。

 毎日の終わりに自分をふりかえって、足りなかったところ、まちがっていたところを反省し、何よりも神様がどんな時にも、いつも共にいて、見守り、養ってくださっていることを信じて、明日への希望と生きる力を取り戻していく。苦労が受け入れられるのはお金をもらう時だけというのでは、あまりに貧しく悲しい、とは思いませんか。

 

メッセージ「カラスと雑草」(おとな)

■まず弟子たちに言われた

 福音書記者ルカは、マタイと同じ「思い悩むな」という小見出しのつけられた、イエスさまの言葉をここに書き留めました。いずれもほぼ同じ言葉で書き記されていますが、それでも、わずかに異なる言葉があります。なぜ異なっているのか。はっきりとは分かりませんが、ルカは、イエスさまが語られた福音をわたしたちに正しく伝えるために、というはっきりとした意図をもって、時に言葉を加え、時に書き換えたに違いありません。

 まず冒頭の22節。ルカがここに付け加えた最初の言葉です。

 「それから、イエスは弟子たちに言われた」

 イエスさまは誰よりもまず、弟子たちに語り始めます。今、イエスさまが、集まってくる群衆に心奪われ、忙殺されている弟子たち、思い煩いに捉われているにわたしたちに向けて、福音を語り始めます。その第一声です。

 「だから、言っておく」

 「だから」とは「このことゆえに」という意味です。「このこと」とは、もちろん直前、13節から21節でイエスさまが語られたことです。そして、この13節以下も、ルカだけが書き留めたイエスさまの言葉です。その15節以下です。

 「そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人のいのちは財産によってどうすることもできないからである。』それから、イエスはたとえを話された。『ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らしたが、やがて言った。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」しかし神は、「愚かな者よ、今夜、お前のいのちは取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。』」

 これを、「あなたがたは、自分の倉を大きく建て、そこに財宝を蓄え残しても、人は何も持たずに死ななければならない。だからそういう愚かなことはしないで、人に与え、人を助けるような人になりなさい」とか、「貪欲に自分の中にとり込むことだけを考えないで、人に与えようということに心を向けなさい」と教えたのだとすれば、確かにすばらしい人生の教訓にはなったとしても、福音にはならないでしょう。施しのできる人間になりなさいと言うだけであるなら、それはユダヤ人たちが大切にしてきた律法の教えであり、愛のすすめにはなっても、福音にはなりません。

 そこで、この金持の農夫の話を少し掘り下げてみましょう。

 この人の言葉の中には、「わたし」という言葉がたくさん出てきます。ギリシア語原文では、18節の「倉」「穀物」「財産」は「わたしの倉」「わたしの穀物」「わたしの財産」、19節の「自分」は「自分のいのち」となっています。「わたし」と「いのち」とが強調されています。ここに二つの問題が現れます。

 一つは、彼は自分と神との関係、神に対してどうかを考えず、自分のことだけしか考えていないという点です。神とわたしたちとの関係は、多額の借金をしていた僕を憐れんで、主人がその借金を許してやったように、わたしたちは神から赦され、愛されている、という関係にあります。ところが、金持ちの農夫は、神からただ一方的に愛され、赦されている神と人間との関係を知らず、また愛の神から問われている自分であることにも気がついていません。そのために、穀物、財産の豊かさにばかり心を奪われ、わたしが、わたしが、という生活をしていました。そこに彼の愚かさがありました。

 もう一つの問題は、わたしが、わたしがと言っている、自分に対する過信です。自分には何事かを為すことができる。自分の力に依り頼んで生きていこうとする。そういう自分の力を過信したことが愚かさの第二です。

 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人のいのちは財産によってどうすることもできないからである」

 この言葉を受けて、今日の22節以下のイエスさまの言葉が、福音が語られていきます。

 

■生かされているいのち

 イエスさまは今、「忌み嫌われるカラスや厄介者の雑草のことを、それがどのように育つのかを考えなさい」と言われます。

 それは、どうしてだったのか。単に、自然の美しさや自然の豊かな営みに学びなさいということ以上に、そこには、イエスさま独特の逆転の発想があると言わなければなりません。

 「先のものはあとになり、あとのものが先になる。貧しい者は幸い」と言われたイエスさま。戦乱と飢饉、圧倒的な軍事力による圧政の中で、路頭に迷わざるを得なかった、まるでストリートチルドレンのようなこどもたちを指さして、「子どもたちをわたしのもとに来させなさい、妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と教えられたイエスさまです。

 神の国、今ここにもたらされている神の愛の御手、救いの御手を、イエスさまは、こうたとえられます。

 「あなたがたカラスのように忌み嫌われる者たちよ。神はあなたがたに目をとめ、あなたがたを守り養ってくださる。あなたがた雑草のように厄介者とされる者たちよ。神はあなたがたをこそ、美しく装ってくださる。金銀財宝で自分を装おうとする者よりも、あなたがたは美しい。そのままで美しい」。

 イエスさまの言葉はまず、切り捨てられ蔑まれる人たちへの祝福に満ちています。そして反対に、おごり高ぶった人たちへの激しい批判にも満ちています。

 「欲に任せて刈り集め、倉に収め、貧しい者からも奪い取り、大輪の白百合のようにこの世の栄華を咲き誇る者たちよ。集めても、集めても飽きたらず、明日のことを心配し続ける者たちよ、神の養いに身を委ねて生きるカラスや雑草の、まことの美しさに学びなさい。神の国はこのような者たちのものであることを知りなさい」

 人間は誰しも、生かされているいのちなのだ、ということです。イエスさまの言葉は、すでに生かされてあるいのち―この根源的な事実を指し示すものです。この世界に作られた被造物のすべては、そのようなものとして、イエスさまの目に映っているのです。

 イエスさまの目には、カラスも雑草も、すべての被造物は、全く新しい姿で立ち現れています。生きとし生けるものすべてが、神の言葉となり、わたしたちに、君も君のあらゆる働きに先立って、すでに神によって生かされているいのちであることに気づきなさい、と語りかけるのです。

 この温かくも厳しいイエスさまの言葉を、そのまま受けとめるものでありたい願います。

 

■エーメン♪

 最後にもう一度、さきほどの映画『野のユリ』に触れて、メッセージを閉じさせていただきます。

 アカデミー賞の長い歴史の中で、黒人で初めて主演男優賞に輝いたのがこの映画のホーマーこと、シドニー・ポワチエでした。黒人への差別と偏見がまだ色濃く残っていた1963年、これは画期的なことでした。

 ポワチエと言えば、代表作の『夜の大走査線』や『招かれざる客』でも黒人差別が描かれていて、そういう作品で使われるのは黒人俳優の宿命とも言える時代だったはず。ところが、この『野のユリ』にはそうした差別的な場面がまったくと言っていいほど出てきません。

 大きな夢を持ちながら、十分な教育を受けられなかったらしいホーマー。それほど裕福ではなかったであろう彼の生い立ちを匂わせてはいるものの、肌の色が黒いことも、修道女たちへの「英会話レッスン」の中で、「色」として教えるくらいで、差別意識はありません。素朴で奔放なホーマーはどこまでもアメリカ人らしいアメリカ人です。

 印象深いシーンをご紹介しましょう。ホーマーはしぶしぶ始めた教会建設を通して、東ドイツからの移民である院長のマリアやメキシコ人労働者たちと衝突しながらも、次第に相手を理解し、互いに成長をしていきます。

 修道院で出される粗末な食事に不満をもらしながらも、シスターたちには礼儀正しく優しく接するホーマー。手振り身振りを交えた「英会話レッスン」の楽しさは「エイメン♪」と歌うゴスペルと並んで、この映画の最大の売りでしょう。明るく大らかなホーマーと、無邪気なシスターたちの相性は抜群。英語の「イェー!」とも微妙に発音の違う、ドイツ語なまりの「ヤァー!」で心を通わせるさまも、実に清々しいものがあります。

 「エイメン♪」で始まり、「エイメン♪」で終わるラストシーンが素敵です。教会が完成した夜、礼拝を待たずホーマーはまた旅に出ます。「エイメン♪」を歌いながら、爽やかに。別れを受け入れようとする院長マリアの複雑な表情も心を打ちます。陽気な青年と厳格な院長には、いろいろな確執がありました。だからこその表情でしょう。

 この映画の素晴らしさは、個々の違いを肌の色ではなく、それぞれの文化の違いで表しているところです。映画史において、最も人種差別から解放された作品の一つと言っていいでしょう。人種や宗教が違っても、神からいのち与えられ、生かされ生きている同じ人間同士、わかりあえないことはない。「エイメン♪」は平和の合言葉、そう思わされます。戦争や紛争が続く今こそ、世界中の人に観て欲しいと思う映画です。