福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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11月12日 ≪降誕前第7主日礼拝≫『力としての福音』 コリントの信徒への手紙一 4章 14~21節 沖村 裕史 牧師

11月12日 ≪降誕前第7主日礼拝≫『力としての福音』 コリントの信徒への手紙一 4章 14~21節 沖村 裕史 牧師

 

■愛する子

 心の重くなるような手紙です。書いているパウロ自身、実に重い気持ちの中で、それでも心を込めて懸命に相手を諭そうとしている様子が伺えます。冒頭14節、

 「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」

 「恥をかかせるためではなく」ということは、逆を言えば、ここに書かれている言葉がコリント教会の人々の心にぐさりと突き刺さり、彼らを恥入らせるようなものだということです。しかしそれは、決してあなたがたを辱めたり、やり込めたりするためのものではない、パウロはそう語り始めます。そしてその思いを分かってもらうために、パウロは自分とコリント教会との特別な関係を人々に思い起させようと、「愛する自分の子供」-わたしはあなたたちの父親であり、あなたたちはわたしの子どもです、と呼びかけます。

 ご存知のように、コリント教会はパウロの伝道によって生まれた教会です。パウロが去った後、いろいろな教師がやって来てはこの教会を指導しましたが、彼らの信仰はパウロによって植えつけられたものでした。15節、

 「キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」

 「教育学」という英語 pedagogy の語源が、ここに「養育係」と訳されているギリシア語 paidagogos です。当時は、学校制度が今日のように普及していなかったため、子どもたちのしつけや教育のために家庭教師が採用され、中には戦争で捕虜となった教養ある奴隷が養育係として雇用される例が数多くありました。子どもたちの教育と成長が、その養育係の手に委ねられました。

 その養育係がたとえ一万人いたとしても、本当の父親はただ一人、コリント教会にとっての父親はこのわたし、パウロである。「わたしがあなたがたをもうけた」とあります。この「もうけた」とは「生んだ」という意味です。あなたたちを生んだのは他の誰でもない、このわたしではないか。わたしは今、父親として、愛する子どもであるあなたたちを諭しているのだ。わたしの語る言葉がどれほど厳しく響こうとも、どうか、父親による愛の言葉として受けとめてほしい、そうパウロは語りかけます。

 

■わたしに倣う者になりなさい

 およそ、人を「諭す」ことほど難しいことはないかもしれません。諭す人と諭される人の間に信頼がなければ、諭すことは失敗に終わります。そのため、諭し、戒めようとするそのとき、誰もが足踏みをすることになります。

 それでも、諭すことが生かされる道があります。その一つの道は、「愛する自分の子供として」とパウロが呼びかけたように、諭す人が愛をもって諭すことです。権威主義的になって、地位を振りかぎしたり、知識をひけらかしたりするのではなく、その人に仕え、その人を愛する心があるかどうか、そのことが問われます。

 わたし自身、貧しい経験の中で、諭すことに失敗してしまったことが何回もあります。振り返えれば、わたしにその人への愛があったのかどうか。単に自分の面子がつぶれるとか、プライドが傷つけられたとか、そんな思いが心の中にあったのではないか。忸怩たるものがあります。

 そんな愛をもって諭すとき、パウロが語り勧めることは、16節「わたしに倣う者になりなさい」ということでした。これが、諭すことが生かされる二つ目の道でした。諭す人が諭せる人かどうかは、言葉ではなく、その人の「生き方」をもって諭せるかどうかにかかっています。

 あなたたちはわたしの子どもなのだから、父であるわたしに倣う者となってほしい。これは、「わたしのように立派な、きちんとした、清く正しく、強い者になれ」ということではありません。「わたしに倣う者となれ」と言われているその「わたし」とは、直前10節にある「わたし」です。あなたたちはキリストを信じて、賢い者、強い者、尊敬される者となっているが、わたしは愚か者、弱い者、侮辱される者となっている。そんなわたしのようになりなさいということです。

 「わたしに倣う者になりなさい」という言葉は、パウロの自信の表れではありません。自信を持って生きているのはむしろ、コリント教会の人々の方です。自信満々のコリントの人々に、自分への自信を支えに生きることをやめ、弱い者、何も持たない貧しい者となって、ただキリストの恵みにすがり、神の愛に委ねて生きる者となりなさい。そうパウロは教え諭すのです。

 

■テモテを遣わす

 そのためにこそ、パウロはテモテをコリントに遣わしました。17節後半に「至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう」とあります。コリントの人々が以前、見て知っていたはずなのに、忘れてしまっているパウロの生き方―弱い者、貧しい者、愚かな者として、ただひたすらキリストに依り頼んで生きる姿―をもう一度思い出させ、そのような生き方をこそ、見倣っていくべきであることを教えるためでした。

 パウロがこの手紙を書いていたのは、コリントからエーゲ海を挟んだ対岸にある小アジアのエフェソでのことだったと言われます。エフェソからコリントまでの道程(みちのり)は決して楽ではありません。陸路を行くにはエーゲ海を大回りしなければなりませんし、船で行くには季節を選ばなければなりません。それに加え、使徒言行録19章に、そのエフェソ伝道の最中、町全体を巻き込むような騒ぎが起ったときの様子が描かれています。そのため、なかなかコリントへ行くこともできず、コリント教会の人々とパウロとの間の溝を深める結果にもなったようです。パウロはもうコリントには来ないという噂が広がり、ある人々には失望を与え、またある人々には教会がパウロの影響から抜け出す絶好の機会と感じられました。18節の「わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです」という言葉には、そのような人々に対する失望と皮肉が感じられます。

 しかし、と19節、

 「主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう」

 パウロの、父親としての愛による諭しを聞こうとせず、なお高ぶっている者がいる。信仰によって、あくまでも豊かな者、強い者、尊敬される者になろうとする、あるいは、そうなっているという自信に生きようとする者がいる。そんな人たちをいつまでも、そのままにしておくつもりはない。主の御心によって道が開けさえすれば、すぐにでもそちらに行って、はっきりと決着をつけよう。そして最後21節、

 「あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか」

 こう締め括って、パウロはコリント教会の人々に決断を迫ります。

 テモテを先に遣わしたことの意味がここにありました。いきなりパウロが出向いていけば、決定的な決裂が起ってしまうかもしれません。この手紙を書き送り、テモテを遣わすことによって、そのことを避け、コリントの人々には、よく考えて決断する時間を与えようとしています。テモテを遣わしたことはまさに、パウロの深い親心であったと言うことができるでしょう。

 

■言葉と力

 決断を迫るパウロは、高ぶっている者たちに「あなたがたの言葉ではなく力を見せてもらおう」と言った後で、刀を返すようにして、20節「神の国は言葉ではなく力にあるのだ」と力を込めて語ります。宣言といってもよい、今日のパウロの言葉の中心、核となる一句です。

 まず「言葉ではなく力を見せてもらおう」とあります。「あなたがたは口では偉そうなことを言っているが、実際、何ができるのか。見せてもらおうじゃないか」ということです。

 コリントの人々は知恵を誇っていた、と1章に語られていました。知恵は言葉によって表現されるものです。1章17節の「言葉の知恵」とは、その意です。知恵と言葉はしばしば結びつけられて用いられます。2章1節にも「優れた言葉や知恵」とあり、続く13節にも「人の知恵に教えられた言葉」とあります。コリントの人々は、知恵と言葉を誇っていました。

 賢くなり、知恵に満ちた言葉を語ることができるようになると、自分の言葉に自信が持てるようになります。自分の言葉に自信を持っている人は、自分の言葉を聞く人々を集めようとします。そのようにして、党派、グループが生まれます。そして自分の言葉とは違う、他の言葉を批判、攻撃するようになります。コリント教会に起っていた問題の根っこにあるのは、そういうことでした。争いの根本に知恵の言葉による高ぶりがある、とパウロは見ています。

 では、言葉ではなく力を見せてもらおう、というときの「力」とは何でしょうか。それは、その言葉がどのような「現実」を作り出しているか、ということです。言葉の生み出している成果と言ってもよいでしょう。言葉から生まれる現実にこそ、その言葉の力が現れます。

 コリントの人々がそのとき、どんな現実を作り出していたか。それこそ、党派争い、仲間割れという現実でした。彼らの言葉は、そういう現実を生み出すだけでした。そこに彼らの語る言葉の正体が見えてきます。イエスさまが「木はその実を見ればわかる」(マタイ12:33)と語られた通りです。「あなたがたの言葉が生み出した現実を見せてもらおう」ということです。その現実を見れば、彼らが誇っている言葉の本質が明らかになるというわけです。

 

■現実と理想

 では、20節の「神の国は言葉ではなく力にあるのだ」とは、どういうことでしょうか。

 この「力」が人間の力であるのなら、神の国は人間の言葉や行動によってもたらされることになります。しかし未だかつて、人間の言葉や行動によって神の国がもたらされたことはありません。どれほど崇高な「理想」であっても、それは人間の知恵、人間の言葉に基づいた不完全なものでしかありません。完全なる神の国が人間の力によってもたらされることはありえません。神の国、神の支配は神の力によってもたらされます。ですから、「神の国は言葉ではなく力にある」というときの力とは、人間の力ではなく、まさに神の力のことです。

 人間の力と神の力。このことを考えるときに、いつも思い出すことがあります。以前、お話をしたことがあります。

 今思えば、わたしは両親から愛されて育ち、相当自由に生きてきました。しかしそれでも、中学生になると反抗ばかりするようになりました。しかも理屈も理由もなく反発ばかりするのですから、次第に腫れ物に触るようになります。そうされればそうされるほど苛立ち、傲慢な態度とは裏腹に、心の中は萎縮していきました。親は精一杯受け容れようとしてくれているのに、「今のこのままでは愛してもらえない!」という思いが、わたしの心の奥深くに沈殿するように閉じ込められていました。

 思春期に誰もが経験する、飢え乾くようなあの「いらだち」の正体は、一体何だったのか。それは思春期だけのものなのでしょうか。決してそうではありません。

 「理想の自分と現実の自分」

 その決して埋まることのない狭間に、すべての悩みと苦しみが渦巻いています。理想の自分がないという人はいないでしょう。それをどの程度強く望むかどうかはともかく、だれでも必ず、心のどこかに理想のセルフイメージをもっています。たとえば、健康で、美しく、才能にあふれ、誰からも好かれる、明るい自分。そして、だからこそ苛立つのです。不健康で、さえない、無能で、嫌われる、暗い自分。つまり、現実の自分に苛立つのです。特に失敗したとき、失望したとき、失恋したときなんかは最悪です。甘く夢見た理想の自分は崩れ去り、後には決して見たくなかった現実の自分が取り残されます。そんな現実に耐え切れず、わたしたちは呟きます。

 「こんな自分なんか、いないほうがましだ」

 確かに人は理想がなければ生きていけません。みんな夢見て、憧れて、少しでも現実を理想に近づけようと、健気な努力を続けています。それこそが人間らしさの本質だと言えるでしょう。

 しかし、もしもその理想が人を苦しめ、苛立ちと諍(いさか)いを生み出し、ついには夢見た当の本人が「いないほうがましだ」と消えてしまうならば、それこそ究極の本末転倒というべきです。自分を否定するのではなく、本当はこう言うべきではないでしょうか。

 「こんな理想なんか、ないほうがましだ」

 思えば、いつも理想を追いかけて、「あれが、ぼくだ」と思い込んできました。だから、そうでない自分をあばき、そのイメージを傷つける人を逆恨みし、対立し、ときに争うことさえしてきました。しかしそんな悲しいことは、もうやめにしようと思うようになりました。

 ここに「現実」のわたしがいる。自分で勝手につくった、あるいは知恵の言葉やこの世の基準によって押しつけられた自分の「理想」に振り回されるのではなく、この自分から出発しよう。この現実を全面的に受け入れて、ここから出発するなら、きっと貧しい理想を超えた、豊かな現実が待っていると信じよう、いや信じることができる。そう思えるようになりました。

 どんな「理想」も「現実」にはかないません。なぜなら、理想はすべて人間の頭の中のことで、頭の中はそれほど正しくも、美しくもないからです。理想は人間がつくったもので、現実は人間を超える方―神がつくられたものです。ですからいつだって、理想より現実の方が尊いのです。

 受け入れがたい現実、愚かで、弱く、罪深い、認めたくない自分に、そっとつぶやきましょう。「これが、わたしだ」と。そのとききっと、「そう、それがあなただ。それを生きろ」と、神は答えてくださるはずです。

 

■力としての福音

 神の国は、人の力ではなく、神の力です。些かなりとも、人間の傲慢や計らいが、その妨げとなってはなりません。

 人間の知恵による言葉は、高ぶりや自己卑下を生み、諍いや争いを生むものでしかありません。しかし神の国、神の支配は、人間の知恵の言葉ではなく、神の力です。その神の力が、わたしたちに本当の意味での力を与えてくれます。それは、わたしたちが賢い者、強い者、豊かな者、尊敬される者となり、自分に自信を持つことができる力ではなくて、パウロのように、弱い者、貧しい者、愚かな者が、ひたすらキリストに依り頼んで生きる、そこに与えられる力です。

 力の源は自分の中にはありません。イエス・キリストの十字架による救いを喜び祝うことにこそ、わたしたちの本当の力の源があります。この源から、豊かな力が湧きあがって、わたしたちの生活の具体的な現実を潤し、新しくしていきます。そこには、自分の力によって、自分に自信を持って生きようとすることとは全く違う、歩みが生まれます。

 わたしたちはともすれば、信仰によって、自分が賢く、強く、立派になって、自信を持って生きていけるようになることを求めてしまいます。信仰によって自分が強くなれば、何かが変わると思ってしまいます。しかしそれこそ、コリント教会の人々が陥った間違いです。わたしたちも、パウロがここで語っている言葉、心にぐさりと突き刺さる、冷水を浴びせられるような言葉に、自分に対する諭しとしてしっかりと耳を傾けましょう。そのことによってこそ、神の国、神の恵みの支配が、愚かな、弱い、罪人であるわたしたちの現実の中に、力強く実を結び、具体化していくのですから。