■死ぬばかりに悲しい
闇が深まる夜道を辿り、ゲッセマネの園に到着されたイエスさまは、八人の弟子を残し、三人の弟子だけを連れて、園の奥へと入って行かれました。そのときのこと、
「悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい』」
ルカによる福音書は、血の汗を流すようにして祈られた、と記しています。イエスさまはなぜ、それほどまでに悩み、呻くほどに苦しまなければならなかったのでしょうか。
そもそも、ゲッセマネの園に来られたということは、イエスさまがご自分の死を選びとられたのだ、ということです。この夜イエスさまのおられる場所が、最後の晩餐を守ったあの二階の部屋か、このゲッセマネの他にはありえないことを、裏切り者のユダが知らないはずはありません。そのことをイエスさまもよくご存じのはずです。ユダの知らない他の場所に逃げることもおできになったはずです。しかしそうはなさらず、わざわざゲッセマネに来られました。イエスさまは、いわば、ご自分で選びとられたはずの死を目前にして、その死を恐れておられるのです。
「わたしは死ぬばかりに悲しい」
これを直訳すれば、「わたしの魂は死ぬほどに悲しんでいる」となります。詩編42編、43篇と重なる言葉です。この二つの詩編はもともと、一つの詩であったと考えられます。両方に跨(またが)って、全く同じ言葉が三度も繰り返されているからです。その繰り返される言葉の冒頭に、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ」とあります。イエスさまの言われた「悲しい」という言葉は、当時のギリシア語訳旧約聖書の「うなだれる」というヘブライ語に当てられたギリシア語と、全く同じ言葉です。つまり、イエスさまは「わたしの魂は死ぬほどにうなだれる」と言われていたのです。
魂がうなだれ、呻くような苦しみとは、どのようなものだったのか。詩編42編2節にこうあります。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」。鹿が水を求めて谷に降りて来たけれども、川は涸れてしまっていて水がない。その鹿のように神を求めるけれども、神は応えてくださらない。そんな魂の渇きに、この詩人は苦しんでいます。42篇から43編まで、これと同じ嘆き、苦しみ、呻きの声が繰り返されます。その苦しみの中で、人々から「お前の神はどこにいる。どこにもいないではないか。助けてくれないではないか」と嘲(あざけ)られます。ただ辛いという以上の、もだえ呻くばかりの深刻な苦しみです。イエスさまは、詩人のそんな苦しみにご自分の苦しみを重ね合わせるようにして、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と呻き、苦しんでおられるのです。
■罪を背負って
神の救いと助けを求め、願っているのに、それが与えられないという飢え渇きを、わたしたちもまた味わいます。その飢え、渇きの中でわたしたちは、神は自分の罪をお赦しにならず、もう自分のことなど見捨ててしまわれたのではないか、と苦しめられます。そして、「お前の信じている神はどこにいる」という声が周囲の人々からというよりも、むしろ、自分自身の心の中から聞こえてきて、わたしたちを苦しめます。
しかしそう考えて、ハタと気づかされます。イエスさまがここで味わっておられる苦しみと、わたしたちの受けている苦しみとでは、意味が違うのではないか、と。
わたしたちの苦しみや悲しみは、多かれ少なかれ、自分自身に原因があります。わたしたちは、ただ一人のものとして、それぞれが全く異なる身体(からだ)と人格と感性を持ったものとして造られた存在です。その意味で、わたしたち人間は多様で、そのことは豊かさでありますが、根源的には自分中心、エゴとしての存在でしかありません。人間関係における苦しみや悲しみは、たとえ自分にいろいろと言い分があるとしても、やはり互いに原因があるのであって、相手だけが一方的に悪いということは滅多にありません。わたしたちの苦しみや悲しみは、わたしたち自身から生じているのであって、わたしたちは、自分の罪によって生じた苦しみを苦しんでいるのです。神ではなく、自分を主人として生きていて、神をも隣人をも、自分の思いにおいてしか愛することができず、自分の意に添わなければ神からそっぽを向き、また自分を守るためには隣人を攻撃し傷つけてしまうことも平気でする、そういう罪の中にいるわたしたちは確かに、神に見捨てられてしまっても仕方がない罪人なのです。
しかしイエスさまは、ご自身の罪によって苦しまれるのではありません。イエスさまはわたしたちのすべての罪を背負って、わたしたちに代って苦しみを受けてくださるのです。十字架につけられ、神に見捨てられて、滅ぼされるほかないわたしたちのために、その罪に対する神の怒り、裁きを引き受け、神に見捨てられる苦しみを、その身に受けてくださるのです。イエスさまは、わたしたちの罪のゆえの苦しみを、当のわたしたち以上に深く苦しんでくださるのです。「わたしは死ぬばかりに悲しい」と呻かれ、もがくようにして苦しんでおられるのは、わたしたちの罪ゆえでした。
そのイエスさまの死は、いわゆる殉教者のように、信仰のため、あるいは正しいことのために死を覚悟する、というものではありません。罪を犯した人間が死刑になる、そういう死です。神に呪われ、捨てられ、悪魔の手に渡されることになる、そんな死です。そのような死の恐ろしさを本当の意味で知るイエスさまだからこそ、その死を前に、それほどに苦しみ、呻き、もだえられたのでした。
■この杯を過ぎ去らせてください
わたしたちの罪ゆえの苦しみの中で、イエスさまは祈られます。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」
ある方から聞いた話です。今年の一月、彼に初めての孫が与えられました。その子が生まれて三か月経った頃、物凄い高熱が続き病院に搬送され、そのまま入院をすることになりました。普段であれば、乳児の入院ですから、母親も一緒のはず。ところがコロナのことがあり、母親は泊まることもできません。面会も許されません。我が子がどうなっているのか、きっと心配しているだろうからと看護師さんが気を利かせ、赤ん坊の様子を動画に撮って送ってくれました。彼もその動画を見せてもらいました。
哺乳瓶からミルクをもらっている様子。あてがわれた玩具で遊んでいる様子。その傍らに看護師さんがいる。でも、その看護師さんは青い防護服に身を包んでいました。家にいる時は、泣けば母親や父親がすぐに飛んできて抱き上げたり、あやしたり、おむつを替え、ミルクを飲ませてもらえます。しかし病院では、他にも患者さんがいて、すぐには対応してもらえないでしょう。その内、泣き疲れて眠ってしまう。どんなに淋しかったか。どんなに辛かったか。想像するだけで、もう胸が熱くなった。
溜息をつくようにそう語った彼が、最後にこう言いました。ただ、孫の場合は、元気になって退院できたけれども、報道によると、コロナ禍の中、病院で亡くなる方たちは、最後、お別れもできなかったと聞く。本人も家族も本当に大変な経験をされたのだと思う。そのことを痛感した、と。
ゲッセマネで「わたしは死ぬばかりに悲しい」と告白し、頼りになりそうもない弟子たちに向かって、「どうか、わたしのために、ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていて欲しい」と訴える、我が子イエスのその姿をご覧になった父なる神は、どうお感じになったでしょうか。すぐにでも走り寄って、抱きしめてやりたかったに違いありません。そうすると今度は、その子が訴えてくるのです。「お父さん、どうぞできることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。このとき、父なる神にとってもまた、苦しみもだえるほどの闘いだったのではないでしょうか。我が子イエスを「世の罪を取り除く小羊」として十字架にかけなければならない。親子の親しい愛の交わりが断たれ、苦しみもだえる我が子を見殺しにしなければならない。それは腸(はらわた)のちぎれるような決断であったことでしょう。
しかし、わたしたちを救うには、これしかなかったのです。父なる神は、そう決断されました。わたしたちの神は愛のお方です。そして全能の神です。そのお方が愛を尽くし、思いと心を尽くして選び取られた道。それが御子キリストの死、十字架の死をもってわたしたちを生かすためのただ一つの道でした。
■御心のままに
「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」
続くこの言葉が、「祈り」とは何かを教えてくれているように思えます。そう思いつつ、同じ出来事を記したルカ福音書を読んでいて、そこに興味深い表現があることに気づかされました。「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると…」とあります。「いつものように」「いつもの場所」です。おそらくイエスさまは、過越の祭でエルサレムを訪れる度ごとに、このゲッセマネの園で、いつものように祈っておられたのでしょう。そして今日の44節にも、「三度も同じ言葉で祈られた」と記されています。「三度」とは「何度も」ということです。何度も何度も「同じ言葉」で祈られた。その祈りの言葉が、39節「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」であり、42節「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」でした。
「御心のままに」「御心が行われますように」、御心を求める祈りです。
イエスさまの祈りは単なる要求ではありません。自分の意志を神に押しつけようとするものではありませんでした。それとは反対に、イエスさまの意志は、父の御心次第です。イエスさまは、神の御子として、決まった筋書き通りの道を歩まれたのではありません。苦しまずに、ただ救い主の役を演じられたのでもありません。十字架の死を受けて、その先どうなるのか。父なる神の御心を信じるほかはありませんでした。この戦いに耐えることのできた秘密は、ただ「父よ」と神を信じ、「御心のままに」「御心が行われますように」と祈ることでした。
■祈り―三つのこと
このゲッセマネの祈りから、祈りがどういうものであるのか、わたしたちは三つのことを学ぶことができるでしょう。
まずは、「父よ」「お父さん」と呼ぶことです。父は、わたしたちを限りなく憐れみ、愛してくださることを信じて祈るということです。またイエスさまが、「この杯をわたしから取りのけてください」と言われたように、一番切実な問題を避けることなく、率直に祈るということです。
二つ目は、「御心」を求めるために祈る、ということです。祈りとは、神を操作し、わたしにとって好ましい結果を引き出すための手段ではありません。祈りとは、神との会話、神と交わりです。祈りの中で、神のお考え、ご計画、その願いに触れることです。考えてみれば、全知全能の神のお考えが最終的には一番素晴らしい、また永遠のいのちに至る道は神だけが本当にご存知なのですから、その方の御心を求める祈りを、最終的にはわたし自身がさせていただくように、わたしが変えられていくこと、それこそが祈りの体験でしょう。
そして最後は、「委ねる」ということです。「御心を知っていること」と「その御心に明け渡すこと」とは別問題です。この時、イエスさまは父の御心が何であるかを知っておられました。しかし十字架を前に、恐れに満たされます。「御心のようになりますように」と祈る前に、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と、素直に心の中にある恐れを口に出して祈っておられます。ご自分の弱さを包み隠すことなく祈った上で、最後の最後に「わたしの願いではなく、御心のままに」と、すべてを父なる神に委ねられたのでした。神がお与えになるものは、どんなものでもお受けする。神が喜ばれること以外は求めない。もし御心であるならば、どんな苦しみにも耐える。すべてを神の御手にお委ねする。それが、わたしたちに求められる祈りであると言ってよいでしょう。
■主の祈りに支えられて
とはいえ、わたしたちにイエスさまのように祈ることなどできるのでしょうか。三人の弟子はこの大事な時に眠っていた、とあります。わたしたちも、弟子たちと同じではないでしょうか。
イエスさまはこのとき、弟子たちを二度も起こして注意され、ついに三度目、こう言われます。
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた」
以前の口語訳聖書では、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った」となっていました。この訳は明らかに、眠っている弟子たちに対する叱責の言葉、「あきれた、こいつらはもうどうしようもない」と諦めたような響きになっています。しかし原文は、「眠っているのか、休んでいるのか」という疑問文ではなく、新共同訳のように普通の文です。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる」。それは、弟子たちへの叱責ではありません。むしろ、憐みをもって彼らを見つめてくださっているのではないでしょうか。「休んでいる」という言葉にも、それが感じられます。心は燃えても肉体が弱いあなたがたは、疲れ果てて眠っている。休んでいる。それは、彼らの弱さと挫折を、責めるのではなく、深い愛をもって見つめてくださっている言葉です。
弟子たちの、わたしたちの弱さと挫折の現実のただ中で、イエスさまはひとり、わたしたちのために死ぬほどの苦しみ、悲しみを背負い、その中で祈り続けてくださったのです。眠り込み、祈りを失い、挫折していくわたしたちを、死ぬほどの悲しみの中でなお、父なる神に深く信頼し、その御心こそがなるようにと祈ってくださった、その祈りによって支えてくださっているのです。このゲッセマネの祈りに支えられているからこそ、弱く、愚かなわたしたちはそれでもなお、神のもとに留まり、イエスさまの祈りに導かれて、「父よ」「天にまします我らの父よ」と、繰り返し祈っていくことができるのです。
そして、「いつものように」「いつもの場所」で祈りを積み重ねる中に、父なる神というお方がどういうお方であるのかが、本当に分かってくるのです。日々そのお方と共に歩む中で、神は善いお方であるということを知るようになります。そのお方は、決して見捨てるようなことはなさらない、必ず助け守り導いてくださる。そのことを何度も何度も経験し、深く味わい知らされていくからです。全知全能の愛の神が、深く心にかけ心配してくださっているのなら、必要な時に必ず事を動かしてくださらないはずはありません。
わたしたちは祈りを通し、この神の御心に触れ、御心にすべてを委ねて歩んで行きたいと願いますし、またそうすることができるのです。感謝して、お祈りいたします。