福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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11月15日 ≪降誕前第6主日礼拝≫ 『受け入れる』マタイによる福音書10章40節~11章1節 沖村裕史 牧師

11月15日 ≪降誕前第6主日礼拝≫ 『受け入れる』マタイによる福音書10章40節~11章1節 沖村裕史 牧師

■激励
 11章1節に「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると」とあります。
 10章の冒頭、十二人の弟子を選ばれたイエスさまが、5節に「この十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた」とある、その教えを締めくくるために語られたイエスさまの言葉が、今朝の40節から42節です。
 イエスさまはこれまで、十二弟子にこう語りかけられました。
 「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(6-8)
 「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」(14-15)
 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(16)
 「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(21-23)
 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(26)
 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」(34-35)
 「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(39)
 十二弟子に向けて語られたこれまでの言葉は、すべての信仰者、わたしたちに向けられた言葉でもあります。戸惑い、思わず後ずさりしてしまいそうになる、厳しい迫害と分断を予感させる10章の教えを締めくくるとき、イエスさまは改めて、わたしたちへの励ましとして今朝の言葉を語ってくださいます。

■受け入れる
 その冒頭40節、
 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」
 これとよく似た表現がマルコ福音書9章37節にありました。
 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」
 マルコでは、一人の幼な子をイエスさまの名のゆえに受け入れるとなっていますが、マタイは、幼な子を弟子たちに書き替えます。この弟子たちは、イエスさまのものとして聖別され、派遣されたのだと信じ、彼らをその名ゆえに「受け入れ、もてなし、耳を傾ける」(これが「受け入れる」デフォマイの意味ですが、そうする)人は、イエスさまご自身を受け入れたこと、またその父である神を受け入れたに等しい、そう言われます。
 この40節を言い換えるようにして、さらに41節の言葉が語られます。
 「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」
 弟子たちはこの言葉に従って、イエスさまがなさったのと同じように町や村をめぐり歩き、福音を宣べ伝えました。その弟子たちのわざを受け継いだ後の教会、たとえばマタイの教会でも、福音を宣べ伝える者たちが旅をしていました。41節の「預言者」とは、当時の教会の職務のひとつだったと考えられます。パウロの手紙にも、使徒や教師と区別された預言者の職務が語られています(ローマ12:6、1コリ12:10,28、エフェ4:11)。巡回説教者ともいうべき預言者たちが、イエスさまの福音を携えて旅をしました。「正しい者」も、預言者ではないとしても、同じようにイエスさまを救い主キリストと信じる、文字通り「義」とされていた信徒たちのことと思われます。
 その弟子たち、預言者たち、正しい者たちを「受け入れる」。
 ここで6回も繰り返されるこの言葉は、今申しあげたような状況の中、具体的で、大きな意味を持ちました。伝道者たちが旅をします。彼らを迎え入れ、もてなす。それは、5節以降語られていた、弟子たちに対する厳しい非難と激しい攻撃に、受け入れる人たちもまた我が身をさらすことを意味します。そんな危険を自らに「受け入れる」覚悟なしにはできないことです。
 言うならば、伝道者たちを「受け入れる」ということは、イエスさまの福音を伝えようとする人との「受難の共同体」「信仰の共同体」へと、人々を導くものでした。だからこそ、それはまさに、イエスさまを迎え入れ、受け入れることを意味します。イエスさまご自身をわが家に迎えたことになるのです。そして、それはまた、父なる神を迎えることでもありました。
 そこで、弟子たち、わたしたち一人ひとりが、どのように扱われるかということが、その人の救いを定めるほどのことだ、と言われるのです。たとえば、みなさんの家族がみなさんをどう扱うか。クリスチャンとして、重んじるか、軽んじるか。それは、イエスさまを重んじるか、軽んじるかということであり、神を迎え入れるか、入れないかということにまで連なるのです。
 まるで、弟子たちが、そしてわたしたちが、キリストそのもの、神とひとつになっているかのようです。驚くべきことです。

■かけがえのない者とされる
 しかし、弟子たちに、またわたしたちに、何ほどの値打ちがあるというのでしょうか。それほどに神々しい存在なのでしょうか。荘重な言葉を語って、人々を圧倒したのでしょうか。そうではないでしょう。42節、
 「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」
 「小さい者」とあります。これは、文字通りには「小さな子ども」を意味しますが、ここでは明らかに「弟子たち」のことです。立派な大人を「小さい者」と呼んでいます。なぜでしょうか。
 ここに「冷たい水一杯」とあります。わたしたちの感覚で言えば、たいして値打ちのないものです。このマタイの言葉も、ほんの細やかな愛の行為と考えることもできるでしょう。しかし、古代ユダヤでの話です。水道の蛇口を捻って水が出てくるわけでも、ペットボトルで簡単に水が買えるわけでもありません。いのちをつなぐための、実に貴重な水です。
 その水を与えるのが、大きな存在、権力者や財産家であれば、この水に十分に報いてくれるに違いないと考え、ためらわず提供するかもしれません。しかし、弟子たちは本当に「小さい」のです。何も持っていません。何の報いも期待はできません。水一杯を提供する値打ちがあるかどうか、躊躇(ちゅうちょ)せざる得ないほどです。
 「小さい」というのは、そういうことです。尊敬し、愛する価値などない、実に卑しく、力なく、何の役にも立たない、この世の底辺を生きるような人のことです。 「この小さな者」が、十二弟子たちであり、またわたしたちです。しかし、小さな、取るに足らない、そんなわたしたちに、水一杯でも飲ませてくれる人は、永遠のいのちを与えられる、必ず救われる、と言われるのです。
 つまり、それほどにわたしたち一人ひとりに値打ちがある、かけがえのない存在だということです。だからこそ、わたしたちを「受け入れ、迎え入れ、もてなし、耳を傾けてくれる」人もまた、永遠のいのちにあずかれるのだ、と言われます。
 わたしたちが、イエスさまの弟子となり、この世に遣わされるとき、わたしたちが変えられるのだ、ということです。何の役にも立たない、どんなに小さな者であっても、嫌われ、迫害され、捨てられても仕方ないような者であっても、値打ある、かけがえのない者とされるのだ、ということです。
 わたしたちは、人から様々な評価を受け、さまざまに言われる言葉や向けられるまなざしに、喜んだり、傷ついたりします。そのことがいつも、気にかかり、思い煩います。しかし、わたしたちにとって何よりも大切なことは、御子イエスが、主なる神が、わたしたちをどのように見ていてくだるのか、どのように取り扱ってくださるか、ということです。
 こんなわたしであっても、かけがえのない者として見られ、取り扱われるとすれば、実に驚くべきことです。そんな奇跡のようなことが、イエスさまによって起こるのです。そう、それこそが、イエスさまによって救われる、ということでした。
 そして、そうして救われるのはすべて、このわたしたちが神の栄光を表すため、人を愛するため、イエスさまを信じて生きるためでした。
 とすれば、この「小さい者」というのは、「主と共に生きる者」という意味になります。 イエス・キリストは死んで甦られ、天に昇られましたが、今は霊において、この世にあってわたしたちと共に生きておられます。どのような姿をとってか。そのはっきりと見えるものの一つが、教会です。
 しかしこの教会とは、壮麗な会堂のことではありません。緻密な制度としての教会のことでもありません。その教会を代表するような偉大な人物でもありません。あるいはマザー・テレサのような、すぐれて献身的な働きをしている人だけというのでもありません。
 このわたしたちです。弟子であるわたしたち自身に、イエスさまが臨在されるのです。ルターはすべての信徒が祭司であると言いました。それと同じことです。誰もが皆、それぞれにキリストを持ち運び、神のわざを担います。だからこそ「受け入れる」のです。イエスさまが今も、そうしてくださっているように、です。

■十字架というしるし
 そうです。何よりも、イエスさまご自身、いつも人々を分け隔てなく、受け入れられました。その周囲にはいつも、もてなされた人々の群れがありました。身も心も飢えていた人たち。罪人として軽蔑されていた徴税人や娼婦たち。排除されていた病者や障がい者たち。差別されていた異邦人たち。彼らは、「あなたをあなたのまま受け入れる」というイエスさまの歓待に包まれて、どれほど癒されたことでしょうか。その極みとして、すべての人の罪をわが身に迎え入れて、いのちをささげられたイエスさまです。十字架はこのわたしたちへのもてなしであり、それは神がわたしたちを受け入れてくださっていることのしるしです。なんという安心。なんという自由でしょう。
 わたしたちの小ささを、イエスさまはむしろ喜んでいてくださいます。いえ、わたしたちがイエスさまのゆえに、ますます小さくなることを喜んで、「この小さい者」と呼んでくださるのです。
わたしたちもまた、そのことを喜んで受け入れるのです。そのわたしたちの傍らに、イエスさまがいつもいてくださることを受け入れればよいのです。 そこ以外に、わたしたちの生きるところはないのですから。