福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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11月26日 ≪降誕前第5主日/収穫感謝「家族」礼拝≫『若枝のように』 エレミヤ書 23章 1~6節 沖村 裕史 牧師

11月26日 ≪降誕前第5主日/収穫感謝「家族」礼拝≫『若枝のように』 エレミヤ書 23章 1~6節 沖村 裕史 牧師

≪お話し≫(こども・おとな)

「ここから始まるクリスマス」 井ノ森高詩 役員

 

≪メッセージ≫(おとな)

「若枝のように」 沖村 裕史 牧師

■感謝

 今日、わたしたちは収穫感謝日をお祝いしています。この祝いの日に、わたしたちが聖書から学ぶべきは、何よりも神の、イエスさまの愛の眼差しが今も、わたしたちを捕らえて離さない、ということです。すべてのもの、すべてのことが神によって備えられている、そのことへの感謝です。そしてまた、そこに生まれる明るい自由です。それはわたしたちの力でも、手柄でも、何でもありません。だからこそ、わたしたちは自由です。だからこそ、わたしたちは喜びに満たされます。このことをわたしたちに与えられた恵みとして、心から感謝したいと思います。

 そこで今日はまず、「感謝」と題された一文をご紹介して、メッセージを始めさせていただきたいと思います。

 「幸せなことがあれば感謝するのは当然ですが、もしそれだけのことなら、感謝とは、自分にとって幸せか否かで人生を選別する、まことに身勝手な感情に過ぎないことになります。しかし感謝とは、そんな自分本位の小さな感情ではない筈です。それは、人生の大きな包容の中にある自分を発見することなのです。それは一つの自己発見であって、幸福に誘発された感情ではないのです。そして、幸・不幸を越えて包容する大きな肯定の中に自分を発見した人は、すべての事態を受けとめるでしょう。感謝する人は逃げない人です」(藤木正三『灰色の断想』より)

 

■祝福の約束

 エレミヤ書23章4節、

 「『……彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない』と主は言われる」

 わたしたちは、毎日、「だめ」「いや」「あっちいけ」「どうせ」など、いろんな否定の言葉に出会います。社会の中で弱い人が苦しむ姿に心が竦(すく)み、痛みます。自分の弱さや限界にも出会います。自分は神様に見捨てられたのではないかと思うこともあります。

 今日のみ言葉の直前も実は、徹底的な否定の言葉で終わっていました(22:30)。ダビデ王国の終焉―それは紛れもなく神の審判によるものでした。

 それでも、その審判は最後的なものではありませんでした。確かに、民を顧みることのなかった王に対して、その罪深い行いゆえに神は責任を取らせようとされます。しかし神は民を裁かれたわけではありません。羊を滅ぼした羊飼いには裁きを下されますが、羊自身のいのちには目を向けてくださるのです。神の天地創造における祝福、アブラハムへの救いの約束は、歴代の王たちの愚かな行いによって損なわれることはありません。

 「『このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす」

 この3節の言葉は、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」という創造の祝福の回復を告げる言葉そのものです。羊たちは本来いるべきところ、すなわち神の祝福へと集められます。そこには不安も恐怖もありません。そこから迷い出ることもない、と約束されています。

 

■若枝、それはひこばえ

 その約束のしるし、その確かさは、切り倒された切り株から生え出る若枝として描かれています。5節、

 「見よ、このような日は来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす」

 この切り倒された切り株から生え出る若枝のことを「ひこばえ」と言います。この「ひこばえ」という言葉が頭の片隅にずっと残っていた時期があります。この言葉を初めて知ったのは、文語訳聖書の中、ヨハネ黙示録に出てくる、その言葉を読んだ時でした。その5章5節と22章16節に出てきます。その後の箇所に、「我はダビデの萌蘖(ひこばえ)また其の裔(すえ)なり」という言葉が、イエスさまご自身の告げた言葉として記されています。「萌蘖」という漢字が気にはなっていたのですが、この言葉の意味をきちんと調べることもなく過ごしていました。言葉の感じから、虫の「ハエ」みたいな連想がどこかにあって、もちろんそんなわけはないと思いながらも、長いことそのままにしていました。

 ある時ようやく、調べてみようと思い立ち、『広辞苑』を開いてみました。それによると、「ひこばえ」とは「刈った草木の根株から出た芽。またばえ」とあり、いったん切られたり倒れたりした木の残り株から、もう一度出てきた新しい芽、生え育ってきた枝を指す言葉であることが分かりました。つまり「ダビデのひこばえ」というのは、ダビデという根株から生まれ出てきた新しい芽、あるいは若枝―ダビデの子孫という意味で、先ほどの黙示録の言葉は、イエスさまが「ダビデの子孫」であると告げているわけです。

 この「ダビデのひこばえ」と同じ意味を持つ言葉として、クリスマスの時期にしばしば読み上げられるイザヤ書2章1節以下に、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」という表現があります。そこにはダビデの子孫から救い主が現れると記されていて、それがイエスさまの出現を預言するものであるという理解から、クリスマスにこの箇所が好んで取り上げられてきました。

 

■切り倒されて、萌え出る

 しかし今から24年前、佐世保教会の深澤 奨という教師が書いたこの言葉についての解説を読んで、果たしてそういった「直線的な理解の仕方」が正しいのか、大きな疑問を投げかけられた気がしました。こう書かれています。

 「メシアは『エッサイの切り株』から萌えいでるという。エッサイとはダビデの父。メシアはその王の血筋を引くべきだということか。いやそうではあるまい。ここで我々は、『エッサイ(の血筋)』ではなく『切り株』に焦点を当てたい。それは切り倒されねばならなかった。歴史的な反省と総括がなされねばならなかった。…つまりその切り倒された切り株を土台としたところに神の国は芽生えていく。『エッサイの切り株』は、その歴史の連続と非連続を見事に表している。」(『教師の友』1999年12月号、日本基督教団出版局)

 どちらかと言えば、イエス・キリストがダビデの血筋であるという伝承を、積極的・肯定的に受け入れるという面が強かったのではないでしょうか。そこでは、救い主はダビデのような力と威光に満ちているというイメージが強調されてきたように思われます。しかし、ダビデとは何者でしょう。ダビデが築き上げた統一王国とは、いったい何だったのか。そしてその王国の結末は、何を示すものだったのか。こうしたことが、クリスチャンの立場からきちんと正面きって取り上げられるということが実はあまりなかったのではないでしょうか。

 ダビデやサウルに「油」を注ぎ、彼らをイスラエルの王とすることになったサムエルは、強大な王の出現を待望していた民衆に向かって、こう語りかけました。

 「(王は)あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。…こうして、あなたたちは王の奴隷となる」(サムエル記上8章)

 この言葉はやがて現実のものとなりました。戦に次ぐ戦に多くの男たちが駆り出され、国は大きくなっても、国民の間の貧富の格差は拡がり、数々の不正義や不公正が蔓延。神への背信が広く深くはびこった時代があったことを、多くの預言者たちが、そしてエレミヤもそのことを語り伝えています。

 聖書の理解によれば、そのような不正と背信の歴史の総括として、神は、ダビデの血筋を引く王国を滅びに至らしめたのです。他国の侵略という方法によって、神は、イスラエルにおける人間的な不正と不信仰の連続を断ち切ったのです。それがすなわち、エッサイの根から成長したダビデ王朝という大木が切り倒され、「切り株」だけが残されるに至った、という歴史的帰結なのです。

 しかしまた、それでもなおイスラエルに対する神の愛がまったく消え去ってしまったわけではなく、ひとつの可能性を神が残してくださったということを告げるのが、この言葉に込められた大切なメッセージなのです。

 一度は切り倒され、苔が生えてぼろぼろになって、滅ぼされたかと思われた「切り株」から、新たに萌え出ていく「若枝」「ひこばえ」にこそ、新しい希望、未来への可能性が込められています。

 

■真の愛と平和の主

 5節から6節、

 「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる」

 預言者エレミヤは、裁きと希望の時がいつなのか、どのような形で訪れるのか、そのことについてはまったく触れません。バビロンに捕囚され奴隷となっていたエレミヤの現実からすれば、それは、バビロン王の支配が終わる日のことを意味します。エルサレムを二度にわたって徹底的に破壊し、多くのユダヤ人を奴隷として遠くバビロンまで連行したバビロン王は、イスラエルの人々にとっては、自分たちを否定する力、その象徴そのものです。そのバビロン王ネブカドネツァルが、ユダ王国にマタンヤを傀儡の王として立て、「ゼデキヤ」、つまり「ヤハウェ(神)は義」と改名させました。

 しかしエレミヤは、神が正義と恵みの業を行う王を立てると約束していると告げます。そして人々がそのメシアを「主は我らの救い」と呼ぶことになると預言します。今、ここでエレミヤの語る義とは、神が与える正義であり、救いそのものです。その救い主は、人間を否定する暴力を、暴力によって滅ぼすのではなく、まったく新しい力で、正義を、救いをもたらしてくださる、という希望がここに語られているのです。

 「最初の木」は、神の御心に反するものとなり、神によって切り倒されました。新しく芽生え育っていく「ひこばえ」は、その失敗を繰り返すことなく、「最初の木」とは異なるものとして、異なる方向に伸びていくものでなければなりません。イエス・キリストは、そのような「ひこばえ」として「切り株」から生じる新しい木なのです。

 ここに、神の選びがあざやかな形で示されます。神はご自分のお選びになった者たちがその御心に背く生き方をするとき、決してそれを見過ごしにしたり、曖昧になさったりする方ではありません。しかし同時に、神は一度ご自分が選んだ相手に対して、最後まで責任と愛を貫こうとなさるのです。そのような神の裁きと希望の象徴こそが、ひとたびは死んだように見えた「切り株」と、そこから芽生える「若枝」にほかならなかったのです。

 そして今、パレスチナとイスラエルの争い、惨状を見聞きするとき、イエス・キリストが教え示してくださった神の裁きと希望を信じるわたしたちもまた、暴力を暴力によって滅ぼすのではなく、愛と希望による真の和解、真の平和をこそ、祈り求め続けたい、そう願う次第です。