■みだらな行い
パウロは、この教会の生みの親として踏み込んだことを、今、教会に起っている問題、罪、「みだらな行い」について、はっきりと指摘します。
「みだらな行い」と訳されるギリシア語は「ポルネイア」、「ポルノ」という言葉の語源です。不正な男女関係一般を表す言葉です。ただ不正な男女関係と言っても、いろいろなケースが考えられます。今、ここで指摘されているのは「ある人が父の妻をわがものにしている」ということです。これを直訳すれば「父の妻を持っている」となります。わざわざ「父の妻」と言うのですから、これは血のつながった「母親」のことではなく、父親の「後妻」か、「内縁の妻」のことだと思われます。父親の死後、息子が義母に当たるその女性と関係を持っていたのでしょう。
それは、性的な関係について比較的寛大だった当時のギリシア、ローマにおいても忌み嫌われることでした。「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」という言葉から、そのことが伺えます。ギリシア、ローマの人々の間ですら見られないような「みだらな行い」が、コリント教会の中で行われていたのです。それはもちろん、旧約聖書の律法においても厳しく禁じられていることでした。十戒の第六の戒め、「姦淫してはならない」に相当する罪です。
コリントと同じく、「不倫は文化」と平然と言われる時代を生きるわたしたちです。今日の話を始めるにあたって、改めて「姦淫」についてのこの戒めの意味に触れておきたいと思います。
聖書における姦淫は、自分の夫あるいは妻以外の人と、あるいは他人の夫あるいは妻である人と性的な関係を持つことです。それはそもそも、男女の性的関係が基本的には結婚した夫婦の間においてのみ行われるという前提の上に、結婚という関係性の上に成り立つものです。
では、聖書は結婚についてどのように語っているのか。創世記2章18節以下、まず「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とあります。神が人間を男と女に造られたのは、人は一人で生きることなどできない、「彼に合う助ける者」と共に生きるべきだ、ということです。「合う助ける者」とは、単なる「補助者、助手」ではなく、ヘブライ語の元々の意味は、「向かい合って共に生きる」ということです。互いに向かい合い、助け合って生きる相手、そういうパートナーのことを指しています。
神は、人の体の一部、あばら骨を取ってそんなパートナーをお造りになりました。人の体の一部からとは、本質において同じ者、同等な者として造られたということです。しかしその「男」が聖書の言葉ヘブライ語で「イシュ」、「女」は「イシャー」と呼ばれています。同じ言葉の語尾が変化した形です。そこには、同じ人間でありつつ、しかし違う者であるという思いが込められています。同じ人でありかつ異なる存在、そういう男と女が向かい合って、助け合いながら共に生きていく。そのために、人は男と女とに造られました。
そして最後に、男と女に造られた意味、そのあるべき姿が具体的に示されます。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」。「父母を離れて…結ばれ」とは、それぞれに親から離れ、一個の自立した人格として結ばれること、その結びつきが社会的なものであることを示しています。それが、あるべき関係、婚姻関係であると理解されることになりました。
これが聖書の語る結婚の意味、人のあるべき姿です。とすれば、自分の夫や妻以外の人と性的関係を持つことは、向かい合って共に生きるべき相手を裏切り、向かい合うことをやめてしまうことを意味します。それは、相手に対する裏切りであるだけでなく、社会的な関係を損なうことであり、また何よりも互いをパートナーとして向かい合って共に生きることを祝福してくださっている神の御心を踏みにじることになります。姦淫は、殺人や盗みと並ぶ、しかも殺人の次に位置づけられる罪です。姦淫は、裏切りによって、神が与えてくださったかけがえのない祝福された男女の関係を、とりわけ夫婦の関係を破壊し、そうすることによって、実に相手を殺してしまうことでした。
■悔い改めを求める
わたしたちはこれから、それほどの罪とパウロがどう取り組み、どのように解決しようとしているのかを、ご一緒に学ぶことになります。
まず、冒頭1節の「現に聞くところによると」という言葉に注目してください。パウロはこの問題が起っているということを人伝(ひとづて)に聞き、そのことを問題にしています。大切なのは、ここで「現に」と訳されている言葉です。これは「至る所で、いつも」という意味の言葉です。つまり、パウロがコリント教会の「みだらな行い」について聞いたのはこれが初めてではなく、それは既に至る所に広まっていた、ということでしょう。ちょっと小耳にはさんだ噂、憶測で、これを書いているのではありません。繰り返し耳にしたことについてよく確かめた上で、この手紙を書いています。やむなく人の罪を指摘し、それを問題としていかざるを得ない時に、何よりも留意すべきことです。
とはいえ、この手紙は、教会あての公の書簡であって、個人あての私信ではありません。コリントの教会の人々の前で朗読されるものです。当時の礼拝説教であっただろうと考えられています。みんなが聞いているその説教の中で、この問題が指摘されているのです。わたしたちの感覚からすると驚くべきことかもしれません。こうした問題が起った時によくなされる対応は、事を公にはせず、しかるべき人が個人的にその人と話をし、事情を聞き、忠告し、事を荒立てず、内々に処理しようとすることが多いのではないでしょうか。しかしパウロは違います。この違いはどこから生れてくるのでしょうか。
パウロが最も大切にしていることは、教会を、イエス・キリストの救いの恵みを受け、それに応えて生きる者の群れとして整えることでした。だからこそ、この「みだらの行い」を教会と信仰者にとって極めて重い問題と受け止めました。今、パウロがコリント教会の人々に求めているのは、2節後半にある、「むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」ということです。
このような罪を犯している者を自分たちの間から、つまり教会から除外する、いわゆる「戒規」を執行するということです。そのことを彼は求めます。そんな厳しいと思われるかもしれません。しかし、戒規というものは本来、罪を犯した者を教会から追い出すことによって教会を清く保とうとするためのものではありません。彼を戒規によって処分するのは、教会が毅然たる態度で、その人に「悔い改め」を求めるためです。彼が自らの過ち、罪に気づき、悔い改めるなら、教会は再び彼を仲間として迎え入れることになります。戒規とはそのことをこそ目指すものです。罪を犯した人を切り捨てるのではなく、その人を本当の友として再び取り戻すことが目的です。
パウロが求めていることも、それです。教会が、彼を含めてもう一度、イエス・キリストの福音―主の恵みによって生きる群れとなることを、彼は願っているのです。キリストの福音の中心は確かに罪の赦しです。しかしそれは、ただ罪を大目に見ることではありませんし、ましてや、見て見ぬふりをして蔽い隠すことでもありません。
キリストの十字架の死による罪の赦しを受け入れたとき、人はみな、自らの罪を悔い改めたはずです。教会はいわば、悔い改めた者の群れです。悔い改めがなければ、罪が赦されないというのではありません。むしろ逆です。赦しが先です。罪は赦された、赦されているのです。どれほど罪深い者であったとしても、そんな自分の罪が赦されていると知ったとき、だれもが心から悔い改めざるを得ないでしょう。そして、悔い改めにふさわしい、新しい人生を歩み始めようとすることになるでしょう。
■赦された者として
ヨハネによる福音書8章1節から11節に描かれる、イエスさまの印象的な言葉が思い出されます。
姦通の場で捕えられた女が、イエスさまのところに連れて来られました。律法には、そのような者は石で打ち殺されよ、と書かれています。あなたはどう考えるかと問われたイエスさまは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われます。するとそこにいた人々は、年長者から始まって一人また一人と立ち去ってしまい、ついに誰もいなくなりました。
この言葉は、人を裁いて石で打ち殺そうとしているあなたたちも同じような罪を犯しているのではないか、というイエスさまからの問いかけであり、罪から逃れがたいわたしたちの心に深く突き刺さるものです。がしかし、大切なのは、このとき姦淫の罪を犯した女に、イエスさまが語られた言葉です。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」
この言葉の重さをしっかりと受け止めなければなりません。「わたしもあなたを罪に定めない」というのは、わたしも罪人だからあなたを罪に定める資格などない、ということではありません。イエスさまだけは、この女に石を投げる資格のある方、罪のないただ一人の方です。またこれは、姦淫の罪など大した問題ではない、もうこのことは忘れて、新しくやり直しなさいということでもありません。イエスさまは、姦淫がいかに重い罪であるかを知っておられます。この女は、自分の愛する人を裏切り、あるいは愛を誓った人のいる男にそのパートナーを裏切らせ、その関係を破棄させ、破壊したのです。神が、向かい合って共に生きよと結び合わせてくださった交わりを損なったのです。それは神と隣人とに対する大きな罪です。彼女はまさに石で打ち殺されるべき罪人です。そのことをよく知った上でイエスさまは、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われました。
それは、「わたしが、あなたのその姦淫の罪を、裏切りの罪を、神によって結ばれた夫婦の関係を破壊した罪を、この身に負って十字架にかかって死ぬ。だから、あなたは赦された者として悔い改め、新しく生きなさい」ということです。イエスさまは、罪に定めるのではなく、罪を背負って十字架の死への道を歩み、罪の赦しを与え、わたしたちが赦されて新しく生き直すことができるようにしてくださったのです。そのことをこそ望んでくださっているのです。
この赦しを大事にするとき、悔い改めを大事にすることになります。罪の赦しに生きる教会とは、悔い改めた、また日々悔い改め続ける罪人の群れとして生きる教会です。そこでは、罪を犯した人は切り捨てられるのではなく、悔い改めを求められ、悔い改めることによって交わりへと回復されるのです。それが教会の本来のあり方です。
それに対して、罪を公にせず、内密に処理しようとする所では、罪を犯した人は暗黙の内に裁かれ、ただ群れから追い出されるだけになるでしょう。切り捨てられるだけです。そうなってしまうとすれば、罪を犯した者が悔い改めることによって交わりへと回復されることを喜び、そのことを待つという姿勢が、その教会の中に欠けているということになります。だからこそ、「むしろ悲し」むべきではないのか、とパウロは問い糺します。
どうして、そうしないのか。それは、その教会の人々自身が悔い改めていないからです。自分が悔い改めなければならない罪人であることが分かっておらず、口では自分はどうしようもない罪人ですなどと言いながら、心のどこかで自分のことを正しいと思い、隣人を裁いているからです。悔い改めに生きている者だけが、悔い改めた人を受け入れることができ、また人に悔い改めを求めることができるのです。
罪の赦しの恵みに生きるとき、わたしたちは悔い改めを信仰の中心に置いて生きようになります。
■恵みにふさわしく生きる
パウロは、この教会で起っている「みだらな行い」をはっきりと指摘しました。しかしそれは、そのような罪を犯している人を批判するためではありませんでした。2節前半にこうあります。
「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか」
これは、「みだらな行い」をしているその人に対するというよりも、コリント教会のすべての人に対する批判です。自分たちの中でこのような罪が行われているのに、あなたたちはそのことを無視し、全く問題にしようとしないのは、なぜか。高ぶっているのか、と厳しく批判します。どういうことでしょうか。
みだらな行いがあるのに高ぶっている。それを2節後半とのつながりで言えば、そのような人に悔い改めを求めようとしていない、ということです。父の妻をわがものとしている人がいるのを誰もが知っているのに、問題にせず、見て見ぬふりをしている。いや実は、もっと積極的にそういうことを肯定しているのではないか、パウロはそう詰問します。
コリント教会は、グノーシス主義と呼ばれるギリシア的な考えの影響を受けていたのだ、と言われることがあります。そのために、肉体と魂を別々のこととして切り離し、性的なことは肉体的、物質的次元のことで、魂には何の関係もないと考えていたのかもしれません。と同時に、自分たちはキリストによってすでに救われているのだと言って、「高ぶり」、神の戒めに従う必要を認めなかったのかもしれません。いずれにせよ、コリント教会はそのことを黙認していたのです。そのことをパウロは責めています。
教会とは何か。ここでパウロは「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」と宣言します。このパン種は、少量でも全体を腐敗させるものです。かつてイスラエルが奴隷の地エジプトから解放されたとき、小羊が屠られ、その血によって彼らは救われ、パン種の入っていないパンを食べて神の救いを祝いました。そして今、わたしたちの救いのために、キリストがその過越の小羊として屠られたのではなかったか。だから、あなたたちもその血によって清められた者として、悪しきパン種の入っていない者として生きなさい、パウロはそう勧めています。
ここから二つの結論が、解決の道が導き出されました。第一に、「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」ということ。これは先ほどお話しした、除名のことです。続けて「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」とも言い、その人が苦しみや死を味わうことがあっても、「主の日に彼の霊が救われるためです」と、その目的を告げられます。除名は、教会を悪から守るためだけではなく、本人が最終的に主の救いにあずかることを目指してなされることだ、と言うのです。
パウロ今、「みだらな行い」に陥っている人の救いを、その人が悔い改めて罪の赦しにあずかることを、希望をもって見つめています。その希望は、イエス・キリストが、わたしたちの罪のすべてを背負って十字架にかかって死んでくださったことによって与えられるものです。しかし、神の恵みを忘れ、その恵みに我が身を委ねること―悔い改めることができない、そんな高ぶりに陥っているコリントの人々の姿は、もはや単なる人間の自己主張の姿にすぎません。それは、信仰という衣をまとっているがゆえに、なおさら質(たち)の悪い自己主張となります。そこでは、神ではなく、自分たちが主人となって、ただ人を裁き、切り捨て、党派を結んで対立していくことが起っていくばかりです。日々、神の恵みに身を委ねて生きることによってこそ、罪赦された者同士として兄弟姉妹の交わりを築き、また、たとえ罪を犯すことがあっても、悔い改めによって交わりが回復されることを喜ぶことができるのです。わたしたちもそのような群れでありたい、と心からそう願います。