福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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12月4日 ≪降誕前第3・待降節第2主日礼拝≫『天を仰いで、星を数えてごらん!』創世記15章1~18節b

12月4日 ≪降誕前第3・待降節第2主日礼拝≫『天を仰いで、星を数えてごらん!』創世記15章1~18節b

■時間と感動

 クリスマスと新年の準備に忙しいこの季節、12月師走(しわす)を迎えて、ふと立ち止まったとき、ああ、もう一年が過ぎたのか!と、毎年溜息をついている自分がいます。

 以前にもお話をしたことがあるかもしれません。わたしたちの時間の感じ方は時計で刻むようなものではなく、その時間内に脳が何回強い印象を受けたか、という回数によるのだそうです。「すごくきれい」とか「わあ、おもしろい」と脳が驚きや感動を感じると、それが脳の中の「海馬(かいば)」という器官のフィルターを通って脳の深みに達し、意味のある記憶となって「カウント」されます。脳は、そのカウント量で時間を感じるので、カウントが多いほど時間は長く感じられ、カウント量が少ないと時間は早く過ぎてしまうのだそうです。

 こどものうちはまだ経験したことのないことが多いので、必然的に「わあ」とか「すごい」と感じることが多く、時間も長く感じられるというわけです。確かに、こども時代は見るもの聞くものが初めてで、何もかも新鮮で、一日中、一年中「わあ」「すごい」と思っていました。家の庭で梅の木にぶら下がっているミノムシを見つけたときのことを、今も覚えています。たくさんぶら下がっている奇妙な光景にワクワクしました。その一つひとつに幼虫が入っていることにときめいたものです。

 しかし、大人になった今、ミノムシを見てもワクワクなどしません。それはつまり、そのぶんだけ時間が早く過ぎてしまったということです。大人になると、あっというまに月日が過ぎてしまうのも当然のことです。もったいない気もしますが、「慣れる」とはそういうことです。無論、この忙しい毎日の生活の中で、ミノムシを見るたびに、いちいち「すごい」なんて言っていられないというのも事実ですが、下手をすると、まる一日感動のない日もありますし、もしもそれがずーっと続いたらどうなるでしょうか。

 そんな時間感覚で言えば、その一年はなかったも同然ということになるのではないでしょうか。それは何も、忙しいときばかりではありません。心にかかる、不安なこと、恐ろしいこと、苦しいこと、悲しいことばかりに囚われているとき、わたしたちは、目の前にあるものの美しさやかけがえのなさを見過ごし、一日一日の大切さに気づかず、与えられている恵みを見失ってしまい、ただ日々を空しく過ごしてしまうことになります。

 しかし逆に、人生を「すごい」「わあ」といった感動でいっぱいにすれば、時間は無限にあるということになります。何も特別な出来事を求めなくとも、そんなまなざしさえあれば、すぐ身近にそんな感動があふれていることに、それこそ「すごい」「わあ」と驚くはずです。今から60年前に、坂本九が「見上げてごらん夜の星を 小さな星の/小さな光が ささやかな幸せを うたってる/見上げてごらん夜の星を 僕らのように/名もない星が ささやかな幸せを 祈ってる/手をつなごう僕と 追いかけよう夢を/二人なら苦しくなんかないさ」と歌っていた、そんな感動です。

 まるでこの星を初めて訪れた人のように、見るもの聞くものを新鮮に受け止めることができるなら、存在の神秘に打たれて、こどもの魂で「わあ」と言えるなら、いつもそんな一瞬を生きることができるとき、わたしたちは「永遠」なるお方がすぐ傍にいてくださることに気づかされるに違いありません。

 

■内から粘りつく恐れ

 このときのアブラムも、神様からあふれるほどの恵みと祝福を受けながら、不安と恐れに心を奪われて、神様への信頼を、永遠なる神様がいつも共にいてくださるという約束を見失いかけていました。

 今日の言葉は、「これらのことの後で…」という言葉で始まっています。「これらのこと」とは、直前14章までに描かれていたことです。アブラムはそれまで、神様の絶対的とも言える導きと恵みによって、順風満帆の歩みを続けていました。莫大な財産を手に入れたばかりか、他の都市国家と肩を並べるほどの勢力を持つようになっていました。

 ところが、それほどの祝福に満たされているはずのアブラムが恐れていた、と記されます。

 「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう』」

 アブラムが抱いていた恐れ、不安とは、一体何だったのでしょうか。それが何であれ、沈み込むアブラムの耳に、神様の声が響きます。外から飛んで来る矢には恐れを抱かなかったアブラムも、内から粘りつく恐れという剣には、それを防ぐ盾を必要としていました。「アブラムよ。わたしがその盾になろう」という神様の声が、「この世からは受けない、また受けられない真の報いをわたしが与えよう。それも大きな報いを」との神様の約束が与えられます。

 その祝福の約束に対して、アブラムの口をついて出たのは「わたしに何をくださるというのですか」という冷淡な言葉でした。

 「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」

 老いを迎え、自らの死を見つめ始めていたアブラムにとって、子どものいない、いわば「家族」というものを味わうことができないでいるその孤独は深く、寂しさと悲しさは日ごと心を苛み続けていたのでしょう。主よ、あなたは、子孫を与えようと約束してくださいました。しかしその約束がいまだに果たされないままです。それなのに今、大きな報いを与えようと約束をしてくださっても…。それは詮無(せんな)いことです。

 そうかと頷いてしまいそうになる、アブラムの言葉です。不信と失望、後悔と憤りが心の底に澱んでいました。だれもが一度は、必ずどこかで抱く思いでした。神様がおられることは疑わない。神様の偉大な力を経験した人の証しも聞いている。だが、神様はこのわたしの生活を変えてはくれなかった。だから、約束の言葉を聞かされても、思わず「それがなんだというのですか」という醒めた反応しか出てこなくなってしまう。それは、わたしたちの姿でもあります。

 

■満天の星

 しかし神様は、そんなアブラムを頭から叱りつけることなく、ただ外に連れ出して、「見上げてごらん夜の星を…」、天を仰がせました。

 本当の夜を知らないわたしたちには、想像できないかもしれません。現代の都会では、星は壁に残っている画鋲(がびょう)のように赤錆(あかさ)びてくすんでいます。しかし古代の、しかも乾燥したパレスチナの夜空です。どれほど美しく輝いていたことでしょうか。

 齊藤皓彦(あきひこ)という先生がおられます。福岡女学院大学の学長だった方で、退職後に神学校に行かれ、今は教会の協力牧師、また福岡YMCAの理事長をなさっておられる方です。その先生が鳥取大学で教授をなさっておられた頃、毎年のようにケニアへの研修旅行を企画され、数多くの青年たちがそのプログラムに参加していました。先生がケニアの魅力について語られる、そのときの口調と目の輝きが忘れられません。「ケニアの国立公園に行って、夜空を見上げてごらん。それはすごいんだ。星が降るって言うけれど、降るんじゃないんだよ、無数の星が体の中に刺し込んでくるんだよ」。その言葉に魅せられ、そんな星々が見たいと、広島の青年たちと一緒にケニアのワークキャンプに参加したいと計画したことが思い出されます。

 「天を仰いで、星を数えてごらん。もし数えることができるのなら…」

 そう、満天の星を数え切れるわけなどありません。人間であるわたしたちにできるはずなどない、そう思ったとき、わたしたちは気づかされます。果てしない暗黒の夜空に輝く無数の星々と、その空の下を不安と恐れの中に漂うようにして生きる小さなわたしたち。そして、この宇宙を創られ、宇宙を超えて存在し、永遠の時の中で、わたしたち人間を導いておられる偉大なお方が、今ここにおられることに気づかされるはずです。

 星空を改めて見上げるアブラム。いつも見ていたはずの満天の星空です。しかし、見ていても見ていなかったのです。アブラムはそのとき初めて、万物の創造主、すべてのものを造られ、すべてのものにいのちを与えられ、それゆえにすべてのものに慈しみを注いでくださる神様を仰ぎ見ます。

 そのお方からのひと言、「あなたの子孫はこのようになる」。彼の心が開かれました。神様の言葉を信じました。

 これは大きな転換です。彼は地上のことだけ見て、それを数えていたのでした。自分と妻の年齢を数え、一族存続の手段を数え、溜め息をついていました。しかし天を仰いだとき、彼はもっと大きな神様の恵みの現実に目が開かれました。すべてを司(つかさど)る神様がここにおられるではないか。それで十分ではないか。主を信じよう。こうして彼は引き戻されました。

 

■神に委ねる信仰

 ここに語られていることは、神様の約束に対するアブラムの信仰です。

 しかし、すべての出来事が、そして目に見えるわたしたちの現実が、神様の約束や祝福とは反対のことを示しているようにしか思えないことがあります。そのような時になお、すべてのことは神様の約束される方向に進むのだという確信は、彼の、自分の力によって得たものではありません。彼は信仰を獲得したのではなく、神様の言葉によって信仰を与えられたのです。

 大切なことは、アブラムの信仰よりもむしろ、彼が自らの死と孤独、失望と疑い、そうしたものと長い間死に物狂いで闘い、必死に這いずり回っていたときにこそ、信仰に立ち戻らせてくださった、神様の絶対的な義、愛です。

 「主はそれを彼の義と認められた」という言葉があります。これはしばしば、アブラムの「信仰」を表すものとして読まれ、パウロがガラテヤ書の中で「信仰義認」の根拠となる言葉として引用している言葉です。ヘブライ語聖書をギリシア語に翻訳した七十人訳と呼ばれる聖書が、この箇所を「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」と訳していることもあって、現代語訳でも大半がそう訳しています。しかし、ヘブライ語の文法と前後関係から考えると、これは「主はアブラムの義を認められた」のではなく、「アブラムが主の義と認めた」と読む方がよいように思われます。

 繰返しとなりますが、大切なことは、わたしたち人間の義、正しさではなく、神様の義、絶対的な正しさです。信仰による義とは、わたしたちの力、わたしたちの信じる力によって獲得するものではありません。それは、神様の義を信じ、そこにすべてをお委ねする信仰のことです。

 わたしたちが、死や苦難ゆえの疑いや苦悶のただ中でなお、まさにそのすべての思い煩いを神様の前に投げ出し、神様にそのすべてをお委ねする。そのとき、わたしたちもまたアブラムの経験したことを多少なりとも味わうことができるのでしょう。信仰の義とは、まさに、そのような死や苦難に直面したときに生まれる、わたしたちの魂の闇をそのままに、義なる神様にお委ねして信頼することなのです。この言葉は、そうわたしたちに教えてくれています。

 

■引き裂かれた犠牲(いけにえ)

 しかし人は愚かです。アブラムはなお、「何によって知ることができましょうか」と愚かな問いを口にします。それでもなお、神様はそれを無碍(むげ)に打ち捨てられず、アブラムと契約を結ばれます。

 何頭かの動物たちが真っ二つに切り裂かれ、向かい合せに置かれます。契約を結ぶ儀式は、契約の当事者たちがその引き裂かれた動物たちの間を通るという仕方で行われます。それは、もしここで立てられる契約をわたしが破るようなことがあったら、わたしもこの動物たちのように真っ二つに引き裂かれてもよい、と宣言することです。日が沈み、暗闇に覆われたころ、煙を吐く炉と燃える松明が、引き裂かれた動物の間を通り過ぎました。「煙を吐く炉と燃える松明」は神様を象徴する表現です。神様ご自身が、引き裂かれた動物たちの間を通ってくださったのです。もしこの約束を破ることがあれば、この身を引き裂かれてよい、いのちをかけてこの約束を守ろう。神様がそう宣言してくださったのです。

 アブラムの側には何の犠牲も求められません。神様による一方的な恩恵として与えられた契約です。アブラムは深い眠りの内に、何も知らず、何もせず、ただ神様の慈しみと恵みによって、救いの約束、救いの契約が結ばれました。

 わたしたちはどうでしょう。もっと「すごい」、驚くべき出来事を見たのではなかったでしょうか。動物の犠牲どころではない、神様がわたしたちの救いのために遣わされたその独り子が、十字架の上で裂かれたのではなかったでしょうか。

 これ以上に何を望む必要があるでしょうか。これこそ、わたしたちに与えられているまことに大きな幸い、恵みです。地上のいのちは、神様が与えてくださったものです。何年、どのようにどこで生きるか、人さまざまですが、誰にとっても間違いのない仕方で、神様はこの世にあっても、また死して後も、「わたしはあなたの神」と宣言し、一人ひとりに臨んでいてくださっているのです。

 感謝して、祈ります。