■預言と異言
14章冒頭に「愛を追い求めなさい」とあります。12章31節に「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」という勧めがあり、その「もっと大きな賜物」とは「愛」であることが13章で示され、それを受けての「愛を追い求めなさい」です。この14章では、愛を追い求めて生きるとは具体的にはどういうことなのか、そのことが語られていくことになります。
その具体的な事柄が、預言と異言でした。この二つは、12章28節以下の、聖霊の賜物のリストの中にもありました。コリント教会からパウロのところに、この二つ、預言の賜物と異言の賜物をどう受けとめ、教会、特に礼拝において、それをどう位置づけたらよいのかという質問が寄せられていたのでしょう。
聖書の「預言」とは、未来の出来事を言い当てる言葉ではなく、「神の意志によって起こる出来事、神の裁きと救いについての告知」、神のご意志、ご計画を語り伝えるために神から預かった言葉のことです。「説教」といっても良いかもしれません。そういう言葉を聖霊が与え、語らせてくださる。それが預言の賜物です。直訳すれば「舌」となる「異言」もまた、聖霊の賜物・カリスマのことを意味する言葉です。14章は預言のカリスマと異言のカリスマについて語っているわけですが、これはどちらも「言」という字が用いられているように、言葉における賜物です。しかし同じ言葉でも、異言は一般の人には「理解することのできない信仰表白の言葉」でした。関西にいた時に、ペンテコステ派の教会の礼拝に出席したことがあります。その教会では、礼拝の中に祈りの時間が設けられていて、その中で、複数の信徒たちがそれぞれに立ち上がって、理解できない、言葉ならない音を口々に発していました。そして最初期の教会の礼拝でも、預言と異言の両方が語られていました。コリント教会では、預言よりも異言のカリスマの方が神の賜物としてより優れていると考えられ、多くの人が異言の賜物を祈り求め、またそれを持っている人々が礼拝の中で、我れ先に異言を語るということが起こっていたようです。そのことによって礼拝に混乱が生じていたのでしょう。パウロのところに、これらの賜物をどう位置づけたらよいか、という質問が届けられました。
■誰に向かって語るのか
パウロはこの質問に対して、1節後半ではっきりと答えています。
「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」
コリント教会の多くの人々が異言の方が一段上の、より優れた、求められるべき賜物だと思っていたのに対して、パウロは預言こそより優れた賜物であり、追い求められるべきものだと言います。なぜか。2節以下に語られます。
2節と3節で、異言と預言が比較されています。異言は2節にあるように、「人に向かってではなく、神に向かって語」る言葉で、そのため「だれにも分かりません」。それに対して預言は「人に向かって語られ、人を造り上げ、励まし、慰める」と言います。
預言と異言の違いは、それがだれに向かって語られている言葉であるかだと語られます。これは、とても大切です。異言は神に向かって語られ、預言は人に向かって語られます。神に向かって語ることと、人に向かって語ること―どちらが貴く、大切でしょうか。わたしたちの感覚からすると、神に向かって語ることの方が人に向かって語ることよりも貴いことのように思うかも知れません。コリント教会の人々もそう思ったのでしょう。人間の言葉で人に向かって語る預言よりも、人には分からない神の言葉で、「天使たちの言葉」(13:1)で神に向かって語りかけていく異言の方がより神秘的で、神と自分が近くなったように思えることでしょう。しかしパウロは、神に向かって語る言葉よりも人に向かって語る言葉の方が大切だ、とはっきり言います。その理由は、神に向かって語る言葉は意味不明で、だれにも理解できず、何も伝わりませんが、人に向かって語る言葉は「人を造り上げ、励まし、慰める」からです。
端的に言えば、異言と預言の違いとは、人にどのような益をもたらすのか、ということです。さらに言い換えるならば、愛において語られているのはどちらか、ということです。13章に、どのような優れた賜物も、「愛がなければ、わたしに何の益もない」とありました。その愛とは、自分の利益を求めず、むしろ人の利益となるように、人のためになるようにすることです。その愛によって語られているのは、異言よりもむしろ預言の方です。預言こそが、追い求められるべき賜物なのです。1節に「愛を追い求めなさい」とあり、それに続いて「特に預言の賜物を熱心に求めなさい」と言われているのは、そういう意味でした。
■教会を造り上げる
預言こそ愛によって語られる言葉である。そのことが4節によりはっきりと示されます。
「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」
異言を語る者は、自分を造り上げている。つまり異言は自分の信仰を深め、自分と神の関係を密にはするけれども、しかしそれは自分のことだけに止まり、人には何の益ももたらさない、ということです。それに対して預言は、教会を造り上げる、と言います。3節に、預言が人を造り上げ、励まし、慰めるとありました。人を造り上げ、励まし、慰めるようにして、教会が建てられ、造り上げられるのです。
預言で語られるのは、神のご意志、ご計画です。神が、御子イエス・キリストをこの世に遣わし、御子のみ言葉とみ業を通して、神の愛が今ここに、すべての者にもたらされているという愛の福音が示され、その御子がわたしたちの罪を全て背負って十字架に死んで、復活して新しいいのち、永遠の命の先駆けとなってくださった。そうして神が、わたしたちを罪の支配から救い、神の恵みの下に置いてくださっている。この御子によって、神はわたしたちを愛し、罪を赦し、導いてくださる。そういう神のご意志、ご計画を、預言は語るのです。今日からのアドヴェントの季節にふさわしい言葉、預言です。
その預言によって、わたしたちは、御子イエスを救い主キリストと信じ、神の恵みを信じる者となり、洗礼を受け、キリストの体である教会につながる者とされるのです。預言とは、このようにして教会を造り上げていく言葉です。そしてそこでこそ、キリストによる励まし、慰めを受けることができるのです。預言はそのように、御子イエス・キリストによる励ましと慰めによって生かされる共同体を造り上げていく神の言葉です。自分だけが神と対話し、信仰を深めていくという異言とはそこが違うのです。
■異言を語っていませんか
そんな異言と預言の違いを、パウロはさらに6節以下でいくつかの喩えを使って語っています。
第一は、楽器の喩えです。楽器がただ音を鳴らしているだけでは、音楽にならず、人の心に何の喜びも慰めも励ましも、何も伝わってきません。異言もそれと同じだと言います。第二は、ラッパです。軍隊には合図のラッパがあって、ラッパの音によって兵士の心は、たとえどんなに怯えていたとしても励まされ、勇気づけられ、必要な行動を起こすことができます。しかしラッパの合図の音が兵士たちの心に響かなければ、彼らは何もできません。異言は合図にならないラッパと同じです。第三の喩えは、外国語です。何も伝わらない異言が語られたとしても、それは互いに理解できない外国語でしゃべり合っているようなもので、意志の疎通などできないでしょう。それが異言です。
これら喩えによって語られる、人と人との心が通じない、言葉が伝わらない、意志の疎通ができないといったことはしかし、異言だけでなく、普段のさまざまな場面で、わたしたちの間にも起ってはいないでしょうか。
わたしたちは普段の生活の中で、自分の語る言葉が相手に通じない、意志の疎通ができないという苦しみを体験することがあります。同じ日本語を話しているのに、外国人どうしのように通じないことがあります。そこでは、自分の語っている言葉が相手にとって異言となっていて、相手の言葉も自分にとって異言となっています。なぜそうなるのでしょうか。
自分の語っている言葉を吟味しなければなりません。パウロの教えているところによれば、わたしたちの言葉が人に対して異言になってしまうのは、わたしたちが自分を造り上げることしか頭にないからです。神に向かって語っているつもりでも、つまり正しいことを語っているつもりでも、それが自己満足の、自分のためだけの言葉になってしまって、人と共に、神の恵みの下で生きるための言葉になっていないなら、簡単に言えば、独りよがりの愛のない言葉になっているなら、その時、わたしたちの言葉は異言になってしまうのです。
SNS・ソーシャルネットワーキングシステムと呼ばれる、真偽定かならぬ、一方的で、攻撃的な、単発の言葉が溢れる情報社会の中で、ただ互いにやかましく異言を語りながら生きている、それが今のわたしたちの現実かも知れません。在日韓国・朝鮮人をはじめとする外国人に対するヘイトスピーチしかり、アメリカ大統領選で浮き彫りになった根拠のないネガティヴ・キャンペーンしかり、そうした言葉は、分断と亀裂、不信と憎しみを増し加えるばかりです。
■造り上げる言葉を語るために
互いが異言を語り合っているようなそんな状況から、わたしたちはどうしたら抜け出せるのでしょうか。それは、わたしたちの言葉が異言ではなく、預言になることによってです。そのためにわたしたちは、預言の賜物を熱心に求めていかなければなりません。
預言を語るとは、訳の分からない音声ではなく、普通の言葉で語るようにするということではありません。普通の言葉を語っていても、それが異言になってしまうことを、わたしたちは知っています。本当の意味で預言を語る者となるとは、人に向かって語る言葉、言い換えれば、自分をではなく、人を造り上げる言葉を語る者となることです。
この「造り上げる」と訳されているギリシア語「オイコドメオー」は、「建てる・築く」を意味します。家を「建てる」など、日常でよく使う動詞ですが、実は奥の深いことばです。
「たてる」といっても、その対象は建築物とは限りません。「建国」のように組織を「たてる」こともあれば、「名を立てる」というように、目には見えない名誉などを立てる場合もあります。いずれにせよ、その意味するところは、もともと何もなかったところに手を加えて、何か形あるもの、意味あるものを作りあげるということです。
したがって、元来、これは優れて創造的な場で使われる動詞で、当然、芸術文化にも深くかかわっている言葉でもあります。たとえば「お茶をたてる」と言います。これは言うまでもなく、人を招いて、茶の湯の席を設けることを指す言葉ですが、そこで、たてているのは、いわば「一期一会」の出会いであり、触れ合いでしょう。もとより、バラバラな存在でしかない、人と人の関係の中で、もしかしたら生涯会えなかったかもしれない人と人が共にお茶を飲み、心を通わせ合うことで、ひとときの意味ある時と場を作りだす。だから「お茶を点てる」というのでしょう。
また、あまり知られていませんが、生け花も本来「たてる」ものです。鎌倉時代から室町時代にかけて生け花が生まれた当初は、これを「立花(たてばな)」と呼び、「花を立てる」と言いました。それも「立花(りっか)僧」と呼ばれる専門家がかなりダイナミックに花を立てていたようです。なぜ僧なのか。当時は立花を一つの宗教的な行為としてとらえていたからです。なるほど、何もない空間に、もとはバラバラに存在した花や草木を組み合わせて、一つの小宇宙を打ち立てる行為は、宗教的と言うしかありません。
この世界、この大宇宙それ自体、何もない混沌から、意味あるものとして「造られた」ものです。つまり宇宙は、世界のすべてのものは、本質的に「たてられた」存在なのだと言えるでしょう。わたしたちが何か値うちあるもの、美しいものを「たてる」ときにこそ、大きな喜びを感ずるのは、何者でもないわたしたちが意味あるものとして「造り上げられ」「愛されている」ことの、その何よりのしるしなのではないでしょうか。
その意味で「人を造り上げる」言葉を語るということを、さらに言い換えるなら、人を愛する言葉を語る者となる、ということでしょう。愛を失っているがゆえに、わたしたちの言葉は異言になってしまうのです。愛を追い求めることによってこそ、わたしたちの言葉は異言から預言へと変えられるのです。
その愛を、わたしたちはどこに追い求めればよいのでしょうか。それは、わたしたちが聞いている預言の言葉の中に、です。預言の言葉は聖書に記されています。その聖書の説き明かしである説教が、今日、わたしたちに与えられている預言の言葉です。そこに、御子イエス・キリストによる神の愛が示されています。
わたしたちはこの預言の言葉によって、愛の神そのものである御子キリストがこの地に与えられ、わたしたちと同じ人間になって、わたしたちの身代わりに十字架にかかって死んでくださったことを聞くのです。 天におられたまことの神が、地上を生きる人間のもとへと来てくださったのです。人間が上へ上へと昇っていこうとするのとは真逆に、御子イエス・キリストはわたしたちの所に、それも最も低い所に来てくださったのです。この御子の、十字架の死にまで至るへりくだりの恵みが、わたしたちに神の真実の愛を教えてくれるのです。
この神の愛を告げる預言の言葉によって、わたしたちは自分がいかに傲慢な人間、罪人であるかを知らされます。そしてその罪人であるわたしたちを、神が御子の十字架の死によって赦してくださった恵みを知り、その愛の中で生きる者とされるのです。わたしたちが、独りよがりの、自己満足の異言ではなく、人に向かって語りかける言葉、人と心を通わすことのできる言葉、人を愛し、人と共に造り上げられていくための言葉を語る者となるためには、この御子の「恵みと愛によって生かされる」者となることが求められるのです。
愛を追い求め、預言する賜物を熱心に求めるというのは、このことをこそ求めていくことです。その時、わたしたちの語る言葉は変えられていきます。わたしたち一人ひとりが、人を造り上げ、励まし、慰める言葉を、キリストの体である教会を破壊するのではなく、築き上げていくような愛の言葉を語る者とされていくのです。