≪説 教≫
■あるページェント
ある小さな町の、ウォリーという男の子のお話です。
九歳だったウォリーは小学校の二年生、ほんとうだったら四年生なのですが、みんなについていくのがむつかしい子でした。ウォリーは、体が大きくて、とてもやさしい子どもでした。だからみんなの人気者。ただ動きがゆっくり。歩くのも走るのも遅いので、一緒に遊ぼうよとウォリーが誘うと、みんなはちょっと困ったなという顔をしていました。それでも、ウォリーはみんなのところにやってきます。仲間はずれにされても嫌な顔もしないで、遊んでくれるのをじっと待っている、そんな子どもでした。そして何よりも、いつもすすんでニコニコと友だちを助け、小さく弱い友だちを守ろうとする子どもでした。時に、大きな子たちが小さな子を邪魔者扱いして、追い立てたりするのを見ると、「いちゃだめなの?いても邪魔にはならないよ」と言うのは、きまってウォリーでした。
さて、この年のクリスマス・ペイジェント―イエスさまが生まれたときのことを描いた劇で、ウォリーは羊飼いになって笛を吹けたらいいなと思っていました。けれど先生は、彼にもっと大事な役をしてもらいたいと考えました。そして、せりふがそう多くない宿屋の主人になってもらうことに決めました。ウォリーは体も大きいし、ヨセフに宿を断るときの姿がぴったりだと思ったからです。
クリスマスをお祝いする日がやって来ました。いつものように町中からおおぜいの人が集まってきて、羊飼いの杖や、飼い葉桶のイエスさまや、おひげの博士や王さまの冠が登場するにぎやかな舞台に目をこらしました。だけど誰よりもこの夜の魔法に目を奪われていたのはウォリーでした。舞台の袖に立ち、舞台上のできごとにすっかり引きこまれている様子で、ときどき先生がそばに来て、出番がくるまで舞台に出て行ってしまわないように注意しなければならないほどでした。
いよいよヨセフの登場です。宿屋の戸口のところまで、ゆっくり、やさしくマリアを導いてきます。そしてヨセフが、木のドアをどんどんと叩くと、そこに宿屋の主人のウォリーが立っています。
「なんのご用かね。」
ウォリーは不器用なしぐさで、いきおいよくドアを開けました。
「泊まるところをさがしているのです。」
「どこかほかをさがしな。」
ウォリーはまっすぐ前を見て、力をこめて言います。
「宿屋はいっぱいだよ。」
「あのう、ほかをさがしたのですが、どこもだめだったんです。遠くからやってきてくたびれているのですが……。」
「あんたたちに部屋はないよ。宿はいっぱいだよ。」
ウォリーは役どころを心得て、きびしい顔つきをしました。
「やさしい宿屋のご主人、どうかおねがいします。これは妻のマリアです。おなかに赤ちゃんがいるので休まなくてはなりません。どこかの隅でもいいのです。彼女を休ませる場所を……。とても疲れていますから。」
このときはじめて、宿屋の主人は、かしこまった様子をやわらげてマリアを見おろしました。
ウォリーは、黙ったままで見つめていました。
見ていた人たちはみんな、どうしたのかと思うほど長い時間、黙ったままでした。
「いや、あっちへいきなさい!」というせりふを忘れてしまったのではないかしら。心配した友だちが小声で教えてくれます。
「いや、」とウォリーはオウム返しに言いました。「あっちへいきなさい!」
ヨセフはその腕を悲しそうにマリアの肩にまわし、マリアはその頭をヨセフの肩にもたせかけて、二人はそこを立ち去ろうとしました。
ところが宿屋の主人、家の中へもどろうとしません。
ウォリーは戸口のところに立ったまま、寂しく打ち捨てられた二人を見つめていました。口元を開けたまま、額には心配のためしわを寄せ、その目に涙があふれているのが誰の目にもわかりました。
そのときとつぜん、クリスマス・ペイジェントがいつもとはまったく違ったものになりました。
「ヨセフ、いかないで!」
ウォリーは大声で呼ばわりました。
「マリアをつれてもどっておいで。」
こう言うと、ウォリーの顔がパッと明るく笑顔になってはじけました。
「ぼくの部屋に来ていいよ!」
ページェントが台無しになったという人もいました。けれど、ほかの人たち、ずっとずっとたくさんの人たちは、これまでのどんなクリスマス・ペイジェントよりすばらしい、いちばんのクリスマスだと思いました。
さて、皆さんはどう思いますか。
■いいよ
「ぼくの部屋に来ていいよ。」
「いいよ!」なんて素敵で、温かな言葉でしょうか。
ある教会でのお話です。ひとりのお母さんが、相談したいことがあるとやって来ました。深刻な顔で、こう口を開きます。
「娘が摂食障害で苦しんでいます。すっかりやせてしまいました。どうしていいか、わからないんです。せめて原因がわかれば、なんとかしようもあるんでしょうけど、何も思いあたることがないんです。不自由なく育ててきたつもりなんですけど……」
よくある相談です。ただ教会は精神医療の治療をするところではありませんから、もどかしい思いをすることもあります。なんとか子どもの気持ちを探ることくらいならできるかもしれない、といくつか質問してみました。
「娘さんは今、どちらの学校ですか。」
母親は、ある有名な進学校の名前を口にしました。
「ああ、あそこですか。受験、大変だったでしょう。」
「はい、本人も努力しましたし、家中で喜んだんです。なのに、せっかく受かった学校に行かなくなるなんて……」
「摂食障害が起こったのはいつからですか?」
「入学式の翌日です。」
びっくりしました。入学式の翌日からの不登校でも、このお母さんは、「原因がわからない」と言っているのです。「何も思いあたることがない」と。小さいころから親の期待にこたえようと、自分を押し殺して勉強を続けてきた娘が、ついに限界を超えて壊れてしまったというのに、まだ気づかないのです。
その子の思いははっきりしています。
「お母さん、あたしつらいよ、もう無理だよ。寂しいよ、この気持ちわかる?不安だよ、いつまでこんなこと続けなければならないの?お願い、『いてくれるだけで、いいよ』って言って。『勉強できなくっても、あなたが大好きよ』って言って!」
そう、「お母さん、このままのわたしを愛して」と言っているのです。
■愛されている
わたしたちのいのちは与えられたものです。そのいのちをわたしは生かされている、生きているだけで奇跡だ、そう思うことのできる人は幸せです。
それでもふと、そうは信じてはいても、と思うことがあるかもしれません。信じてはいても、つらいことや悲しいこと、辛いこと、報われないことに出会います。つい愚痴がこぼれます、「あんなことさえなかったなら」。そればかりか、「あいつさえいなかったなら」なんて、ドキッとするような言葉が口をついて出ることさえあります。我慢すればするほど、そんな暗い思いが心の奥深くに積み重なって、時には病気になることさえあるかもしれません。愛されていると信じ、いつも感謝し、喜んで生きていくことは決して簡単なことではありません。
そんな時にこそ、ウォリーのようにイエスさまの誕生を自分のこととして思い出したいものです。旅先の大きな不安の中でお生まれになったイエスさま。寝る場所さえ与えられず、馬小屋でお生まれになったイエスさま。生まれたあとすぐ、王様にいのちを狙われ、逃げなければならなかったイエスさま。それは明るく楽しい誕生日のエピソードというのではありません。
感謝できない日もあるでしょう、心から笑えない時もあります。それでも、あの飼い葉桶に寝かされたかけがえのない小さないのち、イエスさまを思い出す時、わたしたちは、悲しみや苦しみ、不平や不満のただ中にあっても、そこに隠されている喜びを見いだすことができるはずです。
目の前で転げて泣き出す子どもがいれば、わたしたちの誰もがすぐに抱き上げてあやすでしょう。親であればなおさらです。自分のいのちを削ってでも子どもを助けようとします。それと同じように、いえそれ以上の愛をもって、どのようなことがあっても、いのち与えてくださった神様がわたしたちを救ってくださいます。すべての面倒を見てくださっています。わたしたちの人生というものが、そんなふうに神様のみ手の上に、神様のみ腕の中にあるという喜びを、わたしたちは忘れてはなりません。そしてわたしたちは一人では生きていけない、いえ一人で生きていこうとしてはいけない、そう考えることができたなら、人生はどれほど楽に、また豊かなものになることでしょう。
クリスマスの日に、皆さんが、その隠されている喜びを、そして本当の愛を見つけることができれば、と心から願わずにはおれません。
お祈りします。神様、飼い葉桶の御子キリストは、弱く、小さく、取るに足らないわたしたちのために与えられた救いのしるしです。どうか、どんな時にも、あなたの愛である御子が共にいてくださることを信じ、新しい年も希望と喜びの内を歩ませてくださいますように。イエスさまの御名によって。アーメン