福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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12月15日 ≪降誕前第2・待降節第3主日/バラの主日「家族」礼拝≫『天使は白髪のおじいさん!』(こども・おとな)・『あなたの友になるために…』(おとな) ヨハネによる福音書 15章 12~17節 沖村 裕史 牧師

12月15日 ≪降誕前第2・待降節第3主日/バラの主日「家族」礼拝≫『天使は白髪のおじいさん!』(こども・おとな)・『あなたの友になるために…』(おとな) ヨハネによる福音書 15章 12~17節 沖村 裕史 牧師

 

お話し「天使は白髪のおじいさん!」(こども・おとな)

■クリスマスに欠(か)かせない天使(てんし)

 「天使」っていう言葉を聞いたことがありますか。いやいや、聞いたことないって人は、まずいないでしょう。

 天使、それは、「天」からの、神様からの「使い」という意味です。神様の思い、考え、願いを、わたしたち人間に伝えるための「使い」です。伝えるという意味で言えば、携帯電話(けいたいでんわ)のメールやLINE(ライン)と同じかもしれないけど、でも、まったく違うところがあります。携帯電話のメールやLINEは、自分の言いたいことを言いたいように伝えるだけですが、天使が伝えるのは、神様の「あなたのことを愛しているよ。だから、大丈夫(だいじょうぶ)!勇気を出して歩きなさい」という愛と希望のメッセージでした。「大好きだよ。くじけちゃだめだ。転びそうになったら、ほら手を出して。支えてるよ。いつもいっしょだよ」。神様は天使を通して、わたしたちにそう声をかけてくださるのです。まるで、大切な、かけがえのない、本当の友だちのようです。

 そんな天使が、聖書の中で大活躍(だいかつやく)するのは、何といっても、イエスさまがお生まれになるシーン、御子誕生(みこたんじょう)のときです。

 「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付(なづ)けなさい」(ルカ1:30-31)と、マリアがイエスさまのおかあさんになることを告げられました。またおとうさんになるヨセフにも天使は現れ、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」(マタイ1:21)と励まされました。それだけではありません。夜通(よどお)し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、天使は言いました、「恐れるな。…今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。…あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲(ちの)み子(ご)を見つけるであろう」(ルカ2:10-12)と。さらには、生まれたばかりのイエスさまに宝物をささげた、東方からやってきた学者たちには、「ヘロデのところへ帰るな」と夢の中でお告げがあり、ヨセフにも夢の中に天使が現れ、言いました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」と(マタイ2:12-13)、危機から逃れさせました。

 

■天使の姿―白髪のおじいさん

 クリスマスに欠かせないこの天使、どんな姿、形をしているのでしょうか。みなさんはどんなイメージを持っていますか。

 よく知られているのは、背中に羽根の生えた、かわいいこどものようなキューピッドの姿かもしれません。でも聖書には、翼(つばさ)の生えた天使の姿なんてどこにも出てきませんし、はっきりとは何ひとつ描(えが)かれていません。そのためでしょうか、これまでたくさんの人が、いろんな天使の姿を思い思いにイメージしてきました。

 そして今日、これから見ていただく映画『素晴(すば)らしき哉(かな)、人生(じんせい)!』にも天使が登場しますが、その姿はキューピッドとは似(に)ても似つかない、白髪(しらが)のおじいさん。まるでサンタクロースのようです。

 この映画、善良(ぜんりょう)な青年ジョージ・ベイリー(ジェームズ・スチュアート)が自殺(じさつ)するのを、天使クラレンス(ヘンリー・トラヴァース)が救い出すという話です。幕(まく)があがると、そこはクリスマスの晩。アメリカの小さな町ベドフォードの人たちが、あちらでもこちらでも、「ジョージ・ペイリーに神の助けがあるように」と祈っています。はたしてジョージ・ベイリーとはどんな人なのでしょうか。どんな人生を歩いて来たのでしょうか。あらすじは、こうです。

 小さな町にジョージ・ベイリーという人がいました。会社を経営(けいえい)していた父親が突然(とつぜん)亡(な)くなって、ジョージが会社を継(つ)ぐことになりました。そして、幼馴染(おさななじみ)のメアリーと結婚し、四人の子どもにも恵まれたジョージは幸せいっぱいでした。そんな会社経営もうまくいき始めていた1945年のクリスマスイヴのこと。おじさんのビリーのミスで大きな損失(そんしつ)を出してしまい、冷酷(れいこく)な銀行家ポッターにも追いうちをかけられ、ジョージは絶望の淵(ふち)に立たされます。

 自分の人生に絶望しきったジョージは、自殺しようと橋の上に行きます。死のうとするジョージの目の前で突然、老人が川で溺(おぼ)れ始めます。ジョージは、その老人を助けます。その老人は実は、神様が遣(つか)わした翼(つばさ)のない二級天使クラレンスでした。彼の前でジョージは、自分は「生まれて来なければよかった」と言います。その言葉を聞いたクラレンスは、ジョージが生まれて来なかった世界を見せることにします。

 自分がいない世界に連れてこられたジョージは知ります。自分の妻メアリーは一生(いっしょう)独身(どくしん)で、たった一人さびしい人生を送り、ジョージの子どもたちもいません。ジョージが助けたはずの弟のハリーは九歳で川で亡くなり、おじさんは仕事を失って精神病院に、ジョージが防(ふせ)いだ事故は実際に起こり、ジョージがお世話になっていた人は幼子(おさなご)を死なせて刑務所(けいむしょ)にいました。さらに町は冷酷なポッターに支配され、町の人々は不安と恐れの中を暮らしていました。

 ジョージは、自分の妻も誰も自分のことを知らない、自分の子どもたちも弟もいない、知り合いがみんな不幸になっている世界にショックを受けました。ジョージは自分のいた世界、自分の人生がいかに素晴らしいものだったのかを思い知りました。ジョージは、もう何があっても自分の人生を生きていこうと決意し、何とか自分をもとの自分がいた世界に戻して欲しいと神様に懇願(こんがん)します。

 すると、ジョージは現実の世界に戻り、ずっとジョージを探していた警官に出会い、うれしさの余り「メリークリスマス」と言いながら抱きつきます。すっかりテンションの上がったジョージは叫びながら町中(まちじゅう)を走り、自分の家へと駆け込みます。家につくと、四人の子どもたちが「ダディ」と呼んで、迎えてくれます。さらに、ジョージを心配し、町のみんなに助けを求めに出かけていた妻のメアリーも帰宅し、みんなで抱き合いました。

 そこに、メアリーが声をかけに行っていた町のみんながやってきました。みんなはジョージの失った大金を寄付(きふ)で工面(くめん)してくれるのでした。自分の人生の素晴らしさを実感したジョージ。ラストは、ジョージが妻、子どもたち、弟のハリー、町のみんなと家の中でクリスマスソングを歌うのでした。

 (ここで、映画を少しだけ見てみましょう!)

 

■クリスマスのプレゼント

 天使のクラレンスがジョージに気づかせてくれたのは、わたしたちのいのちが、わたしたちの人生が、どんなにかけがえのない、すばらしいものなのか、ということでした。それが、クリスマスの、神様からのプレゼントでした。

 いろんな失敗や挫折(ざせつ)、思いもしない病気や事故、避けることのできない死や別れに襲(おそ)われるとき、だれもが「なぜ?」「どうして?」と嘆(なげ)き、悲しむでしょう。でもね、そんな目の前の厳しく、悲しい現実とは違う、もっと深い、豊かで、素晴らしい現実があることに、わたしたちに気づいて欲しいと、天使は、神様は願ってくださるのです。

 だから、つらい時、かなしい時、どうしようもないと思える時にこそ、それを乗り越える力を、あなたにもわたしにも、みんなに神様が与えてくださっていることを信じ、与えられた自分のいのちと人生の大切さ、すばらしさに目を向けて、もっともっと豊かに花開かせていくことができたらと思います。祈ります。

 

メッセージ「あなたの友になるために…」(おとな)

■友情と愛情

 友情と愛情は、決して別々のものではありません。友情は友だちに対する愛情です。友情は愛情の一つのありよう、むしろ密接につながっている、そう思えます。ICU高等学校で「キリスト教概論」を学ぶ生徒たちの授業アンケートの中に、こんな言葉がありました。

 「彼ら〔今までのクラスの仲間〕はクラスが変わり、自分たちのクラスに慣れていくにつれて、あいさつを交わすだけの『知り合い』へと変わっていった。とても淋しく、また疎外感を感じた。今仲良く接している人たちとも、離れてしまったらこのようになってしまうのかと思うと、自分に友だちなんていないのではないかという気さえしてくる。結局、友だちとはなんなのか?

 そういうものなんだろうか?そう思っていた時期に先生の授業を聞いて、何となく答えが出た。〔中略〕愛とは『その人のことをかけがえのない唯一の存在として認めること』なのではないだろうか。」

 「私が昔5人の女の子たちと仲良くしていたときに、1人の女の子にずっと悪口をいわれていました。話しかけても無視されることが多く、最初は悲しく思いましたが、彼女以外で私に優しく接してくれる人はたくさんいたので、あまり彼女にこだわらず、わりきって過ごすことにしました。しかし数週間後、その彼女が他の4人とけんかをしたらしく、彼女は4人と接するのをやめてしまいました。それと同時に彼女は私によく話しかけてくるようになりました。『私たち友だちだからね』。そういわれて、無視されているときとはまた違った悲しさを覚えました。というのも、彼女が私に話してくる内容といえば、『ねえ、あの4人、何か私の悪口いってなかった?』といったものばかりだったからです。私はそのとき、彼女にとって便利な道具と思われていたのでしょうか。」

 この高校生の言葉をどう受け止められるでしょうか。

 わたしたちはときに「友情が壊れた」と言うことがあります。しかし、壊れるような友情は実はもとから、本当の友情ではなかったということに気づかされます。本当に大切なことではなく、何らかの損得でつながっていただけだった、あの人と友だちになると、こんなふうに得で、こんなふうに損だ、そんな計算を友情だと勘違いしていただけだ、と。

 友情は友だちに対する愛情です。友情は愛情の一つのありようであり、本当の友情は愛情そのものです。

 

■無条件に、友のために

 そして今、愛である神が、その御子キリストが、こう命じられます。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」

 「愛し合う」ということにどんなイメージをお持ちでしょうか。多くの方は「相手に与える」ことというイメージをお持ちかもしれません。もちろんそれで間違いというのではありません。ただ問題はその与え方です。愛とは何かと迷ったときは、どうしたら本当に相手のためになるだろうかと悩んだときは、自分の何を削るべきかを考えれば、きっとうまくいくのではないでしょうか。自分の時間、自分の場所、たった一杯のお茶でもいい、何か持てるものを削って差しあげとき、そこに素晴らしいことが起こるはずです。

 そして、それこそが神の愛し方でした。

 イエスさまは今、「友のために命を捨てるよりも大きな愛はない」と言われます。その通りです。持っている時間も力も削り、削りに削って、もう何も削るものがない。最後にいのちを削って相手を生かすという愛。これ以上の愛はないでしょう。

 とはいえ、イエスさまのように自らのいのちを削り捨ててまで、人を愛することなど果たしてわたしたちにできるのでしょうか。イエスさまに従った弟子たちでさえ、その愛に報いるのにふさわしい愛を何も示すことはできなかったではないか、神の子だからできたのだ、と呟いてみたくなります。

 しかしイエスさまもまた、何事もなく十字架への道を歩まれたのではありませんでした。苦しみの杯を取り除けてくださいと天の父に祈り、十字架の上でなお、「なぜお見捨てになるのですか」と叫ばれました。イエスさまは、そんな苦しみと絶望の中を歩みつつも、いのちを捨ててまでわたしたちを愛してくださいました。

 わたしたちがその愛に相応しい優れたものだから、価値ある何かを成し遂げた人間だから、善人だからといった理由があって、愛されたのではありません。そんなことに一切拘わりなく、わたしたちをかげかえのないものとして、あるがままに愛してくださっています。イエスさまの愛は、高みから施しとして与えるような愛でもなければ、愛する者から何かを要求するような愛でもありませんでした。

 イエスさまは、愛することに人間的な一切の条件をつけるようなことをされず、ただ「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われます。わたしが「自分の命を捨て」たのは「友のため」だった、と言われるのです。

 とすれば、続く「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」とは、「わたしの命じることを行わないというのであれば、あなたたちはもはや、わたしの友でも何でもない」と、脅すようにして「友」としての条件を持ち出されているのではないはずです。そうではなくて、「あなたたちは、わたしがいのちを捨ててまで愛してやまない、わたしのかけがえのない友なのだ。だから、あなたたちもわたしの友として互いに愛し合いなさい。いや、愛し合うことができる」とわたしたちを励ます言葉なのでしょう。

 

■苦しみから喜びへ

 さきほどの映画に描かれていたのは、友なるイエスの愛と恵みが今ここに豊かに注がれていることに気づかされた者の、大きな喜び、感謝、賛美ではなかったでしょうか。

 病の苦しみ、死の苦しみ、喪失の苦しみ、挫折の苦しみ、争いの苦しみ、貧しさの苦しみ。自分の苦しみも堪え難いのは当然ですが、大切な人が苦しんでいる姿を見るのはとてもつらいものです。神がおられるならなぜ、苦しみを放置なさるのか。そもそも神が愛であるならば、なぜ、苦しみをお創りになったのか。御子イエスは、今、こうお答えになるのです、

 「神と人が本当の友となり、人と人が心から愛し合うためだ」と。

 この世界は、神の失敗作ではありません。本来は苦しみのない世界を創ろうとしたのに、そうできなかったというわけではないのです。神が愛であり全能であるにもかかわらず、現に苦しみがある以上、わたしたちはただ、神は苦しみも含めてこの世界を創造し、すべてを良しとされたのだと受け入れ、委ねるだけです。それが、人としての分別というものです。友となってくださる神のご計画であるならば、苦しみにも必ず意味があるはずです。それも、何かとてつもなく「良い」意味があるはずです。

 仮にこの世からすべての苦しみを取り除いたら、そこに本当の幸せが訪れるでしょうか。訪れるはずもありません。確かに空腹は苦しいけれど、果たして満腹の連続が喜びになるでしょうか。病も障害も、失意も痛みも、果ては死さえも取り除いた世界に、はたして、いたわりの愛や憐れみの心、試練に耐える成長や苦難の中で輝く、希望が生まれるでしょうか。

 そもそも、苦しみを創造されたということは、創造主自らが苦しむことを引き受けられたということです。そのためにこそ、御子はこの世に来られたのでした。神は苦しみのない冷たく閉ざされた世界ではなく、苦しみを友と共に担い合う、温かく開かれた世界を創られたのです。苦しみによってこそ、人は真に友と出会い、真に友として愛し合えるからです。

 わたしたちが相応しいから友とされ、愛されるのではなく、イエスさまに選ばれ、イエスさまに捉えられて、友とされ、愛されるのです。とすれば、わたしたちは、イエスさまの示される愛の戒めをもはや、一方的な恵みに留めておくことはできません。友とは本来、相互的なかかわりを表わすものです。イエスさまの友として選ばれ、捉えられたわたしたちは、ただ愛されるだけではなく、その愛に押し出されるようにして、友なる御子を愛し、友なるイエスの言葉に応え、友なるキリストに倣う者となりたい、と願わずにはおれなくなります。感謝して祈ります。