福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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12月17日 ≪降誕前第2・待降節第3主日礼拝≫『先を進み、しんがりを守られる神』 イザヤ書 52章 7~12節 沖村 裕史 牧師

12月17日 ≪降誕前第2・待降節第3主日礼拝≫『先を進み、しんがりを守られる神』 イザヤ書 52章 7~12節 沖村 裕史 牧師

■喜びの知らせ

 「国破れて山河あり」とは中国・唐の時代の詩人杜甫が詠んだ歌ですがしかし、イスラエルの民には「国破れて山河」さえありませんでした。紀元前6世紀の初め、圧倒的な軍事力を誇る新バビロニア帝国によってイスラエルの国は滅び去ります。ただ滅びたのではなく、エルサレムに住んでいたイスラエルの人々の大半が囚われの身となり、主都バビロンへ連れ去られたのでした。はるか遠くへと連れ去られ、故郷(ふるさと)と呼べる土地も風景も、信仰の拠り所であった神殿さえも失ってしまった、その生活の辛さと惨めさ、何よりも空しさ。それがバビロン捕囚と呼ばれる出来事でした。

 半世紀にも及ぶ長い捕囚生活は、イスラエルの人々に自分たちの信仰や生き方に対する疑念を抱かせるに、十分でした。イザヤ書49章14節、

 「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と」

 捕囚の民は「見捨てられた」と感じました。しかし預言者イザヤは、そんな人々に神のみ声を告げます。続く15節、

 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない」

 忘れることは決してない…。決して忘れない!

 過酷な現実のただ中にあってなお、預言者はこの生活に必ず終わりの時が訪れる、そう確信していました。だからこそ、捕囚の民が大きな喜びで満たされる、その様子を歌うことができました。それが、さきほどの7節から12節の詩(うた)です。長く捕囚の民とされていたイスラエルの人々がその苦役から解放され、バビロンを後にエルサレムに帰って行く、その情景を歌っています。

 「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」

 捕囚の民が帰ってくるという噂が聞こえてきます。口伝えに伝えられる「噂」は、現代とは異なり古代社会では、最も信頼に値する伝達手段でした。その噂がイスラエルに残されていた人々に伝えられます。人々は見張りを立て、囚われていた同胞が帰ってくるのを、期待と不安の入り交じった思いで待ちます。ある日、城門に立つ見張りが、向こうのほうから一人の人が走ってくるのを見つけます。

 「彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、とシオンに/向かって呼ばわる」

 「彼」とは使者のことです。彼は本隊に先立ち進み、山々を巡り、町々を行き、捕囚の民が帰って来るという、主なる神による解放と救いの良き知らせを、すべての人々に告げ知らせます。その知らせを聞いた人々は、神の平和が訪れたこと、今まさに救いが実現したことを確信することでしょう。使者の声は、町々村々の隅々にまで響きわたります。

 「その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを」

 見張りはいち早くその声を聞き、その姿に気づきます。そして町や村の人々に使者の到来を告げます、「あの噂通り、捕囚の民は解放された。もうすぐわたしたちのところに帰ってくる!主の救いがエルサレムにもたらされる!」と。その喜びの知らせが波のように人々の間に広がり、喜びの歌となり、町々、村々に溢れます。

 預言者は最後に、捕囚の民を励ますようにこう告げます。

 「しかし、急いで出る必要はない/逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり/しんがりを守るのもイスラエルの神だから」

 バビロンからの脱出は、出エジプトのときと同じように、海さえも分けてイスラエルの民を守り導いてくださった主なる神によって成し遂げられると歌います。しかも出エジプトのときとは違って、急いで出る必要も、逃げ去る必要もないと語ります。なぜなら、人々の先頭としんがりに神が立って、故郷目指して帰り行く人々の行列を包み込むようにして、神が守ってくださるから、と。

 

■先を進む

 この詩は捕囚の地で歌われたものです。バビロンから脱出して後、安全が確保されてから歌われたというのではありません。しかも、今ここで「歓声を上げ、共に喜べ歌え」と呼びかけられているのは「エルサレムの廃墟」です。喜び勇んで帰って来た人たちが目の当たりにするのは、廃墟と化したエルサレムです。満足な家もない、畑も荒れ果て収穫の目処もつかず、食べる物とてない。それが、必死の思いで、文字通りいのちがけで帰って行く人々が目の当たりにするであろう現実なのです。それなのに、どうして喜ぶことができるのでしょうか。

 意気消沈している人々の姿を見つめながら、それでもなお預言者は「歓声を上げ、共に喜べ歌え」と語りかけます。それでもなお預言者は、池に投げ込まれた小石の波紋が隅々にまで拡がるようにエルサレムが、さらには地の果てまでもが喜びで満たされる、そんな出来事が今ここに起ころうとしていると歌うことによって、神による救いと解放を信じて、今ここを生きるようにと励ますのです。

 今、皆さんが目の当たりにしている現実はどうでしょうか。現実の中で意気消沈しているのは捕囚の民だけでなく、わたしたちもまた失望し、落胆し、疲れ果ててはいないでしょうか。

 この世界を見ていると、どうしてこんなにも簡単に人のいのちが失われていくのだろうと考えさせられます。もし、本当に神が創造主であると信じるなら、わたしのいのちも神が創ったものであり、失われていく人々のいのちも神が創ったものです。であるなら、どんないのちも、こんなにも簡単にむごたらしく奪われてよいはずはありません。

 先の第二次世界大戦で犠牲となった人の数は6千万人から8千5百万人だと言われています。ニューヨーク同時多発テロをきっかけに始まったイラク戦争の民間人犠牲者について、直接的な戦闘行為による死亡者は1,906人であったとアメリカは報告しています。しかし民間の調査機関によれば40万5千人を越えると言います。これは何の理由もなく殺された人の数です。

 もう一つ、オーストラリアのシンクタンク「経済平和研究所」が今年6月28日に発表したデータによると、2022年に世界全体で紛争によって死亡した人の数は約23万8千人にも及び、前年からほぼ倍増、今世紀に入ってからの最悪を記録しています。死者の増加は、昨年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻と、エチオピア北部で2年にわたって続いた政府と反政府勢力の戦闘が主な原因だと言われます。そして今、イスラエル軍の攻撃によってパレスチナ・ガザ地区の死者数は増え続け、先月25日現在で1万5千人弱(その内こどもの犠牲者6千人)、一昨日の発表によれば、ほぼ1万9千人です。

 この現実を目の当たりにし、この現実の中で真剣に生きようと願うとき、信じるものを持たず、また頼りにならない自分だけを信じようとする人はただ、あまりの現実の矛盾と残酷さに底知れぬ虚しさと無力感に打ちのめされるほかないでしょう。

 しかし、信じるものを持ち、神を信じたとしても、この世はわたしたちの手で簡単にどうにかできるようなものではありません。それほど強大です。神は、小さく弱いわたしたちを救ってくださっていると信じますが、それでも巨大な壁のようにわたしたちの前に立ち塞がるこの世の中に置かれたわたしたちは、そこを生きる他にこのいのちを生きる術を持ち合わせません。神はわたしたちに豊かな恵みを注いでくださっていると信じますが、しかしそれは、自分の思うような人生が送れるようになる、といったことではないようです。わたしたちの人生には、実にいろいろなことがあり、まさかと思うようなことが起こってきます。そして誰に話しても、どうにもならないと思えることがあります。そういう時わたしたちは、自分ひとりだけがその荷を負っているように感じたり、自分の負っている荷がこの世界で一番重いと思ったりします。

 しかし、しかしそのようなときにこそ、預言者はわたしたちに、「あなたたちの先を進むのは主で」あると教えます。あなたの通るところ、それがどんな重荷を担う道であろうと、たとえ深い谷間であろうと、一寸先は闇とも言える場所であろうと、あなたよりも先に、あなたの歩みに合わせて、あなたの前に道を歩んでくださっているお方がおられる。「オレの今通っているこの苦しみ、この茨の道は誰にも分からないだろう」と呟くとしても、それでも「あなたたちの先を進むのは主」である、神は、あなたの茨の道も苦悩の道も、すでにその先を進みゆかれ、百も承知二百も承知のお方なのだ、そう告げます。

 しかも、ただ知っておられると言うのではありません。「お前、辛いだろうな。わたしも先に歩いたぞ。だから頑張れ!」。そんなことを言われているのではありません。エジプトを脱出したイスラエルの民が海を前にした時にも、神はすでに彼らの先に進む者として道を開いておられました。「海があったら、わたしが先に泳いでいくから、あなたたちも泳いで来なさい」などとは言われません。泳いで渡ることもできないその時に、海の水を乾かして道を作って歩ませてくださったのでした。「あなたたちの先を進むのは主」であるとは、そういうことです。

 

■しんがりを守る

 とはいえ、先に行っていただいたら、すべてうまく行くかというと、それでもうまく行かないのが、わたしたちの現実です。ゴミを落としたり、道を荒らしたり、道に迷ったり…。

 しかし神は、ただ先に行くというだけではありません。「後からもついて行ってやる」と言われます。「しんがりを守るのもイスラエルの神だから」と言われます。

 「しんがり」というのはもともと軍隊用語で、部隊が行軍する時、一番後ろを固めている人々のことを「しんがり」と言います。最も敵からの攻撃を受けやすい場所です。体力のない弱い者、幼い者、傷ついた者、そうした人たちが、自然と一番後ろを歩くことになります。そうした人々を守りながら行軍することになる「しんがり」を誰もが嫌がりました。背後を守る。それは最も危険なこと、困難なことです。ですから、キャンプや登山の時にも、いちばん後ろを歩く人は先頭を歩く人と同じくらい熟練の人を当てるのが、基本的なルールです。

 預言者は、神がイザという時にいちばん後ろに回り、そのしんがりをつとめてくださる、と告げます。エジプトを出てゆくイスラエルの民を、エジプト軍が砂煙をあげながら追いかけてきました。パレスチナ・ガザ地区の映像を見るようです。足の遅いお年寄りや子どもたちは、どんなに恐ろしかったことでしょう。しかしその時も、神はイスラエルの民のいちばん後ろに回って、彼らを守られました。

 この「しんがり」という言葉には他に「集める」という意味があります。特にギリシア語では「散っていたものを集める」という意味になります。先に行ってくださっても羊は愚かですから、行きたい所に行ってしまいますから、後ろからちゃんと道を外れないようにと集めながら整えてくださるということです。神が先に行ってくださっても、弱いわたしたちです。そんなわたしたちを後ろからとらえ、集め、支え導いてくださるのだということです。

 わたしたちは表の顔はつくろえますが、背中はつくろえません。本当の疲れや寂しさや悲しみは、背中に表れます。神は、表向きのわたしたちと接してくださるのではなく、そんな裏の部分を見つめ、愛し、守っていてくださいます。頑張らないと駄目と言われ、自分でもそう言いきかせながら頑張って生きているわたしたちを、頑張れている面から見てくれる友とは別に、頑張れそうになくなっているその背中を見つめ、愛し、赦し、支えていてくださる、それが神なのです。

 これは決して、空約束ではありません。そのためにこそ、神がわたしたちのもとに遣わしてくださったのが御子イエス・キリスト、わたしたちを罪の桎梏(しっこく)から解き放ち、救い出してくださる救い主である、と聖書は証言をしています。ルカによる福音書13章34節です。

 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」

 「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」の「集めるように」が、「しんがり」という言葉です。御子キリストはこの地上にこられ、神の怒りに触れないよう悔い改めて神のもとに立ち帰るように、とエルサレムの人々を繰り返し諭されました。しかし、彼らはその言葉を聞き入れません。御子のなさることは、めんどりがその翼の下に雛を集めるようなことでした。

 そして何よりもイエス・キリストの十字架こそ、それでした。わたしたち人間が繰り返し犯す過ち、愚かさの後始末をして、その罪を赦し、神が、御子が教えてくださった道―与えられたいのちに感謝し、かけがえのないいのちを大切にするよう、互いに愛し合い、与えられたものを分かち合い、支え合って生きていく道―を行くことができるようにしてくださったのです。神の怒りがわたしたちに及ぼうとしたときに、十字架にかかって、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」愛の翼をこの世界全体に広げ、その翼の下にすべての人を救おうとしてくださいました。その翼こそが、イエス・キリストの十字架でした。神の怒りは人間の罪に対して容赦なく天から御子イエスの上に下りましたが、広げられた十字架の翼を貫いてまでは神の怒りも及びませんでした。

 御子が、十字架の上に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と呪われ、血だらけになって、わたしたちの罪のためにいのちを捨ててくださった。そこに、罪に対する神の怒りはすべて注がれたのです。それが、ここで言う「しんがり」の神、「散らされていた者を集められる」神でした。

 神は、その独り子イエス・キリストさえ、わたしたちのために惜しまないでお与えになりました。最高のものを惜しみなく手放してくださった神が、わたしたちのいのちのために、どんなことでもしてくださらないはずはありません。

 アドヴェントの季節を過ごすわたしたちもまた、そのように神から愛され、かけがえのないものとされ、期待されている自分であることを信じ、争いと不条理、苦しみと悲しみの満ち満ちるこの世界の中にあってなお、御子イエス・キリストに従い、愛と平和の御国が来ることを待ち望み、祈りつつ共に歩んでまいりたいと願う次第です。