■おとなとして
今日はもう一度、13節からお読みいただきましたが、段落が切ってある、前回からの続きの言葉は20節。大切な言葉です。
「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」
パウロはコリントの信徒に対し、主にあっておとなの判断をしなさいという趣旨のことを、この手紙の中で繰り返し語っています。こどものようであってはいけない、と言います。
ここで、おとなとこどもとは、どういう意味で対比されているのでしょか。こどもの特性のすべてが悪いと言っているわけでは、もちろんありません。「悪事については幼子となり」、つまり悪知恵を働かせず、こどものように純粋なものでありなさいとあるように、こどもにも、おとなが見習うべきもの、おとなが失ってしまった良いところが、いくつもあります。
しかし他方、こどもにも欠点というか、克服すべき点があります。そのひとつは、周りが見えず、何でも自分中心に考えてしまうことです。こどもは、自分がしていることが他の人にどういう影響を与えるのかということを考える力が、成熟したおとなに比べて弱いと言えるのではないでしょうか。こどもには、自分と全然違うタイプの人のことについてその人の身になって考える、そういうことが難しいのです。経験が少なく、他の人の立場に立って考えることができないからです。そして、愛のない行動というのは実は、そんなこどもっぽい行動のことだと言えます。
愛とは、人の必要を感じ取り、それに共感し、人の必要のために行動したい、そうしようとすることです。人のことを考えずに、ただ自分の考えや善意を押し付けても、それは愛の行動にはなりません。そんな行動は独りよがりの、こどもっぽい行動だと見なされます。
パウロが13章で語った「愛を追い求めなさい」という勧告と、ここでの「おとなになりなさい、おとなとして発言し、行動しなさい」という助言とは、実は同じことなのです。コリントの人々も、自分のことに夢中になるあまり、自分たちの振る舞いが他の人にどういう影響を与えるのか、を充分に考えていませんでした。パウロは、彼らのそういった面をたしなめているのです。
直前13章でパウロは、聖霊がわたしたちに与えられているさまざまな賜物をどのように用いるべきか、そのことについて「愛」の重要性を強調しました。どんなに素晴らしい聖霊の賜物も、それが愛によって生かされなければ台無しになってしまう、何の益にもならない、そんな恐れがあると語っていました。愛こそが、わたしたちに与えられる聖霊の賜物を活かす力なのです。そこで、14章の冒頭で「愛を追い求めなさい」という言葉を13章の要約として語った上で、具体的な内容、異言と預言の問題に入っていきました。
■異言と預言
その異言と預言がどのようなものなのか、もう一度確認しておきたいと思います。
異言とは、霊に満たされる中で語られる、一般の人には理解することのできない言葉で、時には言葉というよりも音声を発することです。それに対して預言というのは、人々に伝えるために神から預かり与えられた言葉、だれにでも理解できる、神の救いの恵みを語る言葉のことです。未来を予告する言葉ではありません。
この異言と預言はいずれも、神の霊、聖霊の働きによって与えられる言葉、聖霊の賜物であると考えられていましたが、コリントの教会では、異言の賜物の方が預言の賜物よりも優れたものとして重んじられていました。
なぜ、異言の賜物が重んじられ、もてはやされていたのか。2節に「異言を語るものは、人に向かってではなく、神に向かって語っています。…彼は霊によって神秘を語っているのです」とありました。異言には神秘的な響きがあります。霊によって、神に向かって神秘的な言葉を語る様子は、信仰に生きる者には魅力的に映ったことでしょう。しかし、だれにでもできることではありません。そういう特別な賜物を持っている人が教会の中で目立ち、一目置かれるようになることは、ごく自然なことです。そうなると、多くの人々が自分もそういう賜物を得たいと願い、熱心に、わたしにも異言を語らせてくださいと祈り求めていくことになります。結果、一人また一人と異言を語る人が増えていき、気がつけば礼拝の中で皆がワイワイと、我先に異言を語り出すようになります。
パウロはそんなコリント教会の礼拝の様子に対して、17節以下で「あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」と、釘を刺します。
■理性を働かせる
4節の「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」と響き合う言葉です。異言は、それを語る個人の、神との交わりという点で意味あるものです。パウロも異言を否定していません。しかしそれは、キリストの体なる教会、教会の部分であるわたしたちを造り上げるものではありません。だからこそ、だれよりも異言の賜物を豊かに与えられていると自負するパウロも、それを用いようとはしないのです。教会を造り上げることのできる賜物は、預言だからです。預言は、人に理解される、理性の言葉です。そのことが13節以下に語られます。
「だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」
異言は、解釈、人に分かる言葉に翻訳されなければなりません。教会で語られる言葉は、理性によってだれにでも理解できる言葉でなければなりません。そのことが「霊と共に理性でも」ということです。
信仰は、わたしたちの霊に関わる事柄です。霊とは、わたしたちが使う言葉で言えば、心とかハートと言ってもよいかもしれません。わたしたちの中心、奥深くにある心で、ハートで、神の恵みを受けとめる、それが信仰です。
しかしその信仰は同時に、理性において実を結ぶものでなければなりません。心が感激して喜びに満たされればそれでよい、というものではありません。そういう喜びや感激は個人的なものです。それはそれで大切なものですが、わたしたちの信仰は、その喜びを兄弟姉妹と共に分かち合っていく、その喜びに共にあずかる共同体を造り上げていく、そういう信仰です。12章24節以下に、「…神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」とあるように、神の民の群れである教会の一員として、他の兄弟姉妹と共に、キリストの体である教会を形作っていく、そういう信仰です。
そのためには、理性を働かせなければなりません。理性を働かせるとは、物事を何でも理詰めで冷たく処理するということではありません。相手にしつかりと通じる言葉を語る、ということです。それこそ、相手のことを本当に尊重する、愛するということです。
理性の反対は「感情」ですが、感情的になる時に、わたしたちの心は自分の思いでいっぱいになります。自分の感情に支配されてしまいます。感情的になると、他の人の思いや事情を受け止め、理解することができなくなります。相手のためを思ってしていることでも、実は、自分の勝手な思いを相手に押しつけているだけ、ということになりがちです。
理性的になるというのは、そういう自分の感情や思いを一旦括弧に入れて、相手の思いや事情を受け止め、理解しようとすることです。相手のことを尊重し、愛するということは、そういう理性の働きにおいてこそなされることだ、と言えるのではないでしょうか。
信仰においても、それは同じです。自分の信仰的な感情の高まりのみでは、教会は造り上げられません。自分に与えられている神の恵み、救いの喜びが、人にも伝えられ、その恵みや喜びが分かち合われ、共有されなければなりません。16節にこうあります。
「さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に『アーメン』と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです」
「霊で賛美の祈りを唱える」。これが異言を語ることです。しかし、教会に来て間もない人、教会が何を信じているのかを知りたいと思ってやって来た人は、それを聞いても何を言っているのか分かりません。だから「アーメン」とは言えません。「アーメン」とは、「まさに、その通りです」という心からの同意の言葉です。教会が造り上げられていくとは、神の恵みが語られ、それに対してみんなが「アーメン、まさにまさに、その通りです」と応答していくことです。異言はその妨げになります。だから、教会を造り上げていく言葉は、異言ではなく、互いに理解し合える預言、理性の言葉なのです。
■神はあなたがたの内に
最後にパウロは、この箇所をしめくくるために、異言が語られている集まりと、預言が語られている集まりとを比較しています。23節以下です。
「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」
礼拝に、教会に来て間もない人か、信者でない人が入って来たらどう思うだろうか。皆が異言を語っていたら、その人は「この人たちは気が変だ」と思うだろう。反対に、皆が預言しているところにその人が入って来たら、「まことに神はあなたがたのうちにおられます」と言い表すことになるだろう、と言います。
これは単に、霊に満たされて訳の分からない言葉を皆が語っている礼拝と、分かる言葉、通じる言葉が語られている礼拝とは違う、というだけのことではありません。普通の言葉で説教が語られてさえいれば必ず、ここにあるように信者でない人が「まことに、神はあなたがたの内にいます」と告白するようになるわけではありません。
問題は、何が語られているかです。「まことに神はあなたがたの内におられます」という告白が生まれるのは、その人が「皆から非を悟らされ、罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され」ることによってです。
しかしそれは、教会の者たちが新しく来た人を取り囲んで、「おまえは罪人だ」と言って責め立てたり、「おまえは善人面をしているが、実はこんなことをしているだろう」とその人の罪を、あたかもスキャンダルのように暴露したりする、ということではありません。
預言によって語られるのは、御子イエス・キリストのことです。神の独り子である御子イエスが、わたしたちのために人間となって、最も低く、汚れた、みじめなところに来てくださって、わたしたちの友となって、驚くべき神の愛を示してくださった。しかも最後の最後には、わたしたちの罪をすべて背負って十字架に死んでくださった。そのようにして、父なる神がわたしたちの罪を赦し、そして救いを与えてくださった。そのことが、分かる言葉で語られ、告げ知らされるのです。その預言の取り次ぎが、信仰をもって聞かれ、「アーメン」と受け入れられる。まさにまさに、その通りです、わたしは神の恵みに値しない者ですが、御子イエスがそんなわたしの身代わりになって十字架にかかって死んでくださったことによって、神がわたしの罪を赦し、救ってくださったのだ、という応答がなされていくのです。
そのように神の言葉が語られ、聞かれる所でこそ、生ける神ご自身が働いてくださり、そこにいる人の心に語りかけてくださるのです。「まことに、神はあなたがたの内におられます」という告白は、そのようにして生まれるのです。
異言が語られている中では、そういうことは起こりません。いえ、異言でなくても、わたしたちの言葉が、罪人である自分を御子キリストの十字架によって赦してくださった神の恵みを覚える言葉ではなくなり、自分がどれだけ頑張って立派な人間に、謙遜な人間になっているかを示そうとする、つまり自分のことを誇る言葉になってしまうなら、あるいは兄弟姉妹と共に神の恵みにあずかろうとするのではなくて、人の罪をあげつらい、批判し、ここがおかしい、あそこが間違っていると攻撃する言葉になってしまうなら、そのような言葉が語られる中に、あの告白が生まれることはないでしょう。
そこでは、わたしたちの言葉は異言となってしまいます。自分の感情や思いに支配され、自己満足のために語る言葉は、すべて異言と同じです。そのような言葉を、互いに語り、傷つけ合っているとき、「あの人たちは気が変だ」と言われることになるのです。
わたしたちは、物の判断においておとなにならなければなりません。理性的にならなければなりません。本当に理性的になるためには、すでに語られている預言の言葉、御子キリストが教えてくださった、神の救いを伝える福音の言葉を真剣に聞くことがもとめられるのです。そして、わたしたち自身がまず、「まことに神はわたしたちの内に、しかも恵みをもって臨んでいてくださる」という告白を与えられることによってこそ、本当に理性的な、おとなの言葉を語ることができるようになるのです。そうして、相手のことを思いやる愛に生きることができるようになるのです。
そのとき、わたしたちの言葉は、異言から預言へと、自己満足の言葉から神の恵みを証しする、まことの礼拝の言葉へと変えられていくのです。