福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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2月11日 ≪降誕節第7主日礼拝≫『神からの賜物によって』 コリントの信徒への手紙一 7章 1~7節 沖村 裕史 牧師

2月11日 ≪降誕節第7主日礼拝≫『神からの賜物によって』 コリントの信徒への手紙一 7章 1~7節 沖村 裕史 牧師

 

■結婚の祝福

 「そちらから書いてよこしたことについて言えば」

 コリントから様々な質問や問い合わせがパウロのもとに寄せられていました。誕生して間もないコリントの教会にとっては、信仰のことだけでなく、実際の生活上の導きをパウロに仰がなければなりません。パウロが最初に取り上げたのは「結婚について」でした。コリントの信徒たちが教会という交わりの中で共に生きようとしていたそのとき、彼らは結婚生活に関わる大きな混乱を味わっていました。いえ、むしろ結婚生活こそ、共に生きることが試され、それぞれの信仰の姿が外に現れる場所であったと言えるのかもしれません。

 パウロはストレートにこう答えます。1節後半、

 「男は女に触れない方がよい」

 結婚はしない方がいい、肉体関係を持つこと自体避けた方がよい、ということでしょう。しかし続く2節ではこう言っています。

 「しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」

 これは結婚の容認、いえ、ただ結婚してもよいというのではありません。「男はめいめい自分の妻を持ちなさい、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」。持ちなさい。命令です。結婚しなさい、と命じています。どういうことでしょうか。結婚はしない方がいいという1節と、結婚しなさいという2節。これはどうつながるのでしょうか。

 それをつなげているのが、2節の始め「みだらな行いを避けるために」という言葉だ、と説明されます。結婚はできるだけしない方がよい。しかし人間はすべての生き物と同じように、神の創造の御業の時に「産めよ、増えよ」(創1:22,28)と祝福され、繁殖する力、性的欲求を持って造られた。いわば祝福された本能だ。ただ、それが間違った仕方で発揮され、みだらな行いに走ってしまうことがある。そのことを防ぐために、結婚して夫婦の間だけにその欲求を留めておく。そのために結婚が容認されている、と。

 長くそう読まれ、説明されてきました。しかしこの読み方は正しいのでしょうか。この読み方によれば、結婚は本当はしない方がよいのだが、人間の弱さ、とめどない欲望への配慮として認められた、いわば必要悪だということになります。パウロは結婚をそういうふうに考えているのでしょうか。それが結婚についての聖書の教えなのでしょうか。だとすると、教会が結婚式を行うのは、本当はしない方がよいことをやむを得ずしている、ということになるのでしょうか。

 結婚の意義について語られている最も重要な聖書箇所は、創世記2章18節以下です。そこには、人は男と女に、つまり互いに異なるものとして創造され、その相異なる二人が「結ばれ…一体となる」、結婚は神の御心によることだ、と語られます。その御心とは、18節にある「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」ということでした。この御心によって、向かい合って、助け合い、共に生きる相手として男と女が造られ、「ひとつ」とされたのです。神は、人が結婚して「向かい合い、助け合い、共に生きていく」ことを「良い」ことと考え、そのように人をお造りになった。結婚を必要悪として、やむを得ず認めるというのではありません。むしろ、結婚を神の「祝福」と見ています。これが、聖書の結婚観です。

 パウロもまたその教えを受け入れていたはずです。その彼が「みだらな行いを避けるために結婚しなさい」と言うのは、「そもそも結婚はみだらな行いを避けるためにある」と結婚の目的を語っているとは到底考えられません。

 直前6章後半からのつながりで言えば、「みだらな行いを避ける」のは、神から与えられた、かけがえのないこの体を傷つけたり、損なったりすることなく、神の栄光を現わすために用いていくためでした。そのためには、結婚をすることがふさわしい、パウロはそう勧めているのではないでしょうか。

 

■務めを果たす

 では「男は女に触れない方がよい」とは、どういうことなのでしょうか。

 実は、これはパウロの言葉ではなく、「そちらから書いてよこしたこと」の内容ではないか、と考えられます。とすれば、ここの訳は「そちらから書いてよこした、男は女に触れない方がよい、ということについて言えば」となります。最近のいくつかの英語訳聖書でもそう訳されています。コリント教会の中に、「男は女に触れない方がよい」という、結婚を否定し、独身であることをよしとする人々がいたのだ、ということです。

 この独身主義は、今日見られるような、個人のライフスタイルの多様化によって起ってきたことではありません。信仰的理由によるものです。教会の中にそうした主張が出てきたことには、いくつかの理由があります。

 その一つは、イエス・キリストご自身が独身であったこと、そしてこの手紙を書いているパウロも独身であったことです。7節に「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」とあるように、パウロは、自分が独身であることを喜んでいますし、それを人々にも勧めています。しかしそれは、クリスチャンは皆、そうすべきだということではありません。パウロにとって、その方が、主に仕え、主の栄光を現わしていくためには「よりよい」ことという意味でした。いずれにせよ、キリストやパウロが独身であったために、それに倣って、独身を貫こうとする人々が教会の中に出てきました。そのこと自体が問題というのではありません。しかしそこには、もう一つ別の理由があったようです。

 パウロのように主に仕えるために独身でいるというよりも、聖なる者とされた信徒は、性的関係によって汚れてはならない、夫婦であっても性的な交渉は避けるべきだ、と極端な主張をする人たちがいたようです。結婚など無意味だ、肉体に関わる事柄に囚われたくない。そんな思いから結婚しない人や、わざわざ離婚して独身になろうとする人や、結婚はしていても肉体的、性的な関係を拒む人も出たようです。

 しかし、パウロはそのような考えに賛成しません。すでに結婚している夫婦は性的関係を断つべきではないというのが、まずここで教えられていることです。3節に「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫に、その務めを果たしなさい」とあります。「務めを果たす」というのは、4節に「体を意のままにする」とあることからわかるように、肉体関係を持つことを含んでいます。夫婦が互いに相手に対して、その務めを果たしなさい、肉体関係を拒んではならない、とパウロは言います。肉体関係を含む結婚は、決して汚れたことや罪ではなく、創世記に「結ばれ…二人は一体となる」「二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(2:24-25)とあるように、それはむしろ、神が定められたこと、祝福なのだ、と聖書が教えているからです。

 

■みだらな行いを避ける

 そして、そのような神の定めに従って生きることによってこそ、人はみだらな行いを避けることができるのだ、とパウロは教えます。みだらな行いが広がってしまうのはむしろ、肉体的なことが軽んじられ、結婚が神の定めてくださった祝福として重んじられないからだ、と言います。結婚や肉体的な関係を軽んじることこそが、みだらな行いに道を開くことになるのです。

 それは、売春や買春、不特定の相手との性交渉、不倫や離婚に安易に走る現代の風潮を見れば、よく分かることです。ここで、宮台真司という社会学者の著書『14歳からの社会学』の一節をご紹介させていただきます。

 「このあいだ女子高生たちを取材したとき、『君の恋愛経験値って高いの?』って聞いたら『低いです』と答えた子が何人もいた。(ぼく)『うそ、経験豊富じゃん』(彼女たち)『人数が多いので、経験値が低いんです』。長続きする関係を経験していないことをいってる。

 彼女たちは体験人数が多い分、関係がうすい。どの関係もうすいから、関係が恋愛経験に結びつかないんだ。だから恋愛経験値が低くなる。さっきの恋愛相談の内容でもわかるように、いまでは多くの若い人が(男性も女性も)こういう問題をかかえている。

 最初の大学院生の話にもどると、彼の『現実の女性がゲー厶に近づいてくれれば、その気になりますよ』みたいな考えは、必ず壁にぶち当たる。ゲームギャラと現実の女性を入れかえ可能にしか思えない状況が続く限り、彼は『ひとりさびしく』死んでいくしかない。

 健康なときや、仕事があるときはいい。でも君が逆境におちいったとき、固有名詞を持つ君を、心から支えてくれる存在は、遠い未来にわたって、ゲームの中にはいないんだ。現実の女性をゲームギャラと同じにしか感じられないなら、君はさびしく死ぬしかない。

 しょせん、ゲームは人が作ったもの。そんなゲームの中の女の子が『承認』してくれるなんてあり得ない。しょせんゲームレベルの感動にすぎない。実際、ゲームキャラによる『承認』は、絶対に『尊厳』には結びつかない。これからも永久に変わらない事実だ。」

 そう、だからこそ、みだらな行いに陥ることのないように、自分と人の体をかけがえのないものとして大切にし、結婚を神の御心、祝福として受け止め、それを大切にしなさい、とパウロは教えるのです。

 

■自分の体は誰のもの?

 この体と結婚の関係について、印象的で、またとても重要なのは、4節の言葉です。そこに、妻の体を意のままにする権利は夫が、夫の体を意のままにする権利は妻が持っている、とあります。束縛的な関係を感じるかもしれませんが、これは、妻の体は夫のものであり、夫の体は妻のもの、つまり、結婚において、自分の体の所有者は自分ではなくて相手だ、ということです。

 この教えと、直前6章の、自分の体はキリストのものだ、という教えとが深いつながりを持っています。そのつながりとは、自分の体の所有者はもはや自分ではない、ということです。そしてそのことを、わたしたちがはっきりと具体的に体験するのが実は、結婚、夫婦の関係です。自分の体はもはや自分のものではなく、キリストのもの、神のものだという教えは、それだけでは抽象的な観念に留まりやすく、口でそう言うのは、ある意味、簡単です。そう言いながら、結局、自分の思いの通りに生きている、自分が自分の体の主人になっているということがしばしばです。それが現実です。しかし夫婦の関係では、自分の体は誰のものかということが、いつも具体的に問われてきます。自分の体は自分のものだから、自分の思い通りにする、という生き方はもうできないのだということを、観念においてではなく、肉体的、具体的に、日々の生活の中で思い知らされるのが、夫婦の関係ではないでしょうか。

 結婚生活の中でこそ、わたしたちは、自分が自分の体の主人、所有者であることをやめるとはどういうことなのか、そのことをはっきりと教えられます。そしてその中で、わたしたちは、自分の本質、罪をも示されます。わたしたちの罪の根本は、自分の体を自分のものだ、と思うことです。自分の体は自分のものだ、自分の好き勝手にして何が悪い、そんな思いから様々な罪が、過ちが、諍いが、口論が生まれます。

 ここで問題とされている「みだらな行い」は、その代表です。そういう罪に陥らないために、わたしたちには、自分の体を所有してくれる真実の相手、本当のパートナーが必要なのです。それこそが、究極的には神なのです。神が、御子イエス・キリストの十字架の犠牲によって、わたしたちの体をご自分のものとしてくださっている。そしてその神がわたしたちに、自分の体はもはや自分のものではないことを具体的に教えるために、わたしたちの体を目に見える仕方で所有する相手を与えてくださるのです。それが結婚です。時にすれ違い、時に喧嘩することがあったとしても、夫婦は「一つ」なのです。時に嫌い、時に疎ましく思うことがあったとしても、相手は「わたしのもの」、いえ、「主のもの」なのです。そんな夫婦の関係を大切にしていく中で、わたしたちは自然に、自分の体の本当の所有者である神へと目を向けるようになります。

 

■それぞれの賜物

 そして最後の6節から7節です。

 パウロはここまで、結婚して、夫と妻が肉体的にも、またすべての面で、それぞれその務めを果たす生活を送るように、と語ってきました。そのように生きる中で、みだらな行いに陥らず、自分の体で神の栄光を現わしていく歩みが与えられるのだ、と教えてきました。

 それでも今、パウロは自分と同じように、独身を貫いて生きることをも願っています。それは、そのことによって、主に仕えることに専念することができるように、という願いからでした。

 しかしパウロは、自分の考えに固執したり、自分を教え絶対化したりすることを丁寧に避けようとしています。パウロの自由な姿が見えるようです。

 パウロは今、そのいずれであれ、それは神から与えられている特別な賜物なのだ、と教えます。「人によって生き方が違います」と言います。これを直訳すれば、「ある人はこうしており、ある人はこうしている」となります。ある人は結婚しており、ある人は独身で生きている。それはいずれも、神からいただいている賜物によることなのです。結婚して夫婦として生きることも神の賜物であり、独身で生きることも神の賜物です。

 神がそれぞれに与えてくださっている賜物に優劣はありません。大事なことは、自分に与えられている賜物をどう用いるかです。いずれであっても、イエス・キリストのいのちという代価によって買い戻されたキリストの体の一部として、何にも代えがたい、かけがえのないこの体を大切に用いて、神の栄光を、神の愛を現わしていくことが求められているのだよ、とパウロは教え、励まし、手を引きように導こうとしてくれているのです。感謝です。