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2月13日 ≪降誕節第8主日礼拝≫ 『疑わないで』マタイによる福音書21章18〜22節 沖村裕史 牧師

2月13日 ≪降誕節第8主日礼拝≫ 『疑わないで』マタイによる福音書21章18〜22節 沖村裕史 牧師

≪説教≫

■裁きとしての奇跡

 イチジクの話です。この出来事もまた、イエスさまがなさった奇跡のひとつです。しかしこの奇跡は、イエスさまの他の奇跡―特に直前に描かれていた「目の見えない人や足の不自由な人たち…をいやされた」奇跡とはずいぶん異なっています。言ってみれば、「裁き」としての奇跡です。いったい、この話は何を語っているのでしょうか。

 考える糸口は、直前の出来事にあります。エルサレムに来られたイエスさまは真っ先に神殿にお入りになりました。過越祭の最中です。神殿は巡礼の人々でごったがえしていました。それをご覧になったイエスさまは、何かに取りつかれたかのように、「そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを」ひっくり返されます。一種、異様な姿です。そして続けて、こう言われます。

 「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人々の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」

 神殿が今や祈りの家ではなく、強盗の巣になってしまっている。礼拝が行われていないのではありません。毎日、たくさんの犠牲がささげられ、多くの献金がなされていました。形の上では正しい、立派な礼拝がなされていました。しかしそれを「強盗の巣」と呼ばれます。形だけで心が込められていないというのでもありません。「強盗」とは、人間の貪欲の罪のことです。

 問題は、貪欲、貪りの場になってしまっていることです。人々がどのような礼拝をしているかが問われています。人々は、「律法」に基づいて「神殿」で正しい捧げものをして礼拝をすることで、自分は神様をちゃんと礼拝している、正しい者であることを確認・確証し、平安と慰めを得ようとしていました。しかしそうする中で彼らは、その礼拝に共に集っている他の人々、特に弱さや苦しみを抱えて、神様の救いを切実に求めている人々のことが目に入らなくなっていました。だからこそ「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた」のでした。弱く、小さな人々が打ち捨てられている礼拝の姿を、イエスさまは「強盗の巣」とお呼びになったのでした。

 そして今、葉ばかりで実をつけないイチジクの木にも、神の民と呼ばれるだけで内実のない、イスラエルの人々の貪欲さが表れていました。

 

■空腹を覚えられた

 冒頭に「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた」とあります。直前17節に、「都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった」とありますから、お泊りになったベタニアで、何も食べられなかったのでしょう。

 すでにお話したように、ベタニアという町の名は「悩みの家」「貧困の家」という意味です。エルサレムの人々が蔑んでつけた名前です。その「悩みの家」「貧困の家」に上がり込んで、ご馳走になろうなどとイエスさまは考えもされなかったでしょうし、どだい無理な注文というものです。受難の一週間、イエスさまがベタニアからエルサレムへと毎日のように通われたその歩みは、穢れた罪人として蔑まれていたベタニアの人々の悩みと屈辱を背負われる歩みであり、その飢えを背負われる歩みであった、と言うことができるでしょう。

 その途上に、葉のよく茂ったイチジクの木があったのです。「イエスは空腹を覚えられた」とは、マルコが書いているように、本当に「飢えておられた」のでしょう。本当に飢えていたからこそ、呪われたのでしょう。

 いやいや、飢えていたくらいで呪うなんて、イエスさまらしくもないと思われるかもしれません。しかし、聖書大事典の「のろい」の項目にこう書かれています。「呪いは、敵が誰かが不明なために自分で罰することができない場合、あるいは相手が強すぎるため、罰したいと思ってもできない場合に、至る所で用いられた」、また「権利を持たぬ者や暴力にさらされている者にとっては、呪うことが唯一の武器であった」と。そう、呪いとは弱者の武器、そしてその本質は、嘆き、悲しみ、怒りだったのです。イエスさまは、ベタニア村の嘆き、悲しみ、怒りを、そして飢えの苦しみを背負って歩まれました。その途上で、葉のよく茂ったイチジクに出くわしたのです。

 飢えた者にその果実を提供することなく、ただ見栄えだけは芳しい、そのイチジクの木。イエスさまはそこに何をご覧になったのか。そのイチジクこそ、弱く苦しむ人々を打ち捨て自分たちの平安だけを求める、欺瞞に充ちたエルサレム、神殿そのものでした。イエスさまはそのイチジクに、呪いをぶつけられます。ベタニアの嘆き、悲しみ、怒りをぶつけておられるのです。マルコに「イチジクの季節ではなかった」とあります。そんなことが問題なのではありません。せっぱ詰まった飢餓に苦しむ人に、まだその季節ではないから気長に待ちなさいなどとはとても言えません。むしろ、呪わざるを得なかったイエスさまの思い、ベタニアの思いをこそ、わたしたちは読み取り、受け止めなければなりません。

 

■呪われる者となって

 この時のイエスさまのお顔はきっと、子ロバに乗って入城された時の「柔和な」お顔ではなく、緊迫感に包まれた厳しいお顔だったに違いありません。

 イエスさまは三年の公生涯を歩んでこられました。弟子たちを育て、福音宣教に心血注いで来られました。しかし、「神の民」と呼ばれるイスラエルの民、エルサレムの人々はその福音を受け入れません。そして、この数日後には十字架が待っています。地上の生涯の清算の時です。だからこそ、イエスさまは目を覚まして欲しかったのです。自分の足元の危うさに気づいて欲しい。寝食を共にし、ご自身の心血を注いで教え育てて来た弟子たちすら分かっていないのです。気づいて欲しい。目を覚まして欲しい。そんな切なる願いから、彼らの目の前で呪いの言葉を告げられたのでしょう。

 「今から後いつまでも、お前には実がないように」

 イエスさまはイチジクの木に向かって呪いの言葉をかけられました。しかしこの呪いの言葉は、イチジクの木だけでなく、当時のエルサレムの人々、弟子たち、そしてわたしたちにも向けられています。わたしたちの誰もが枯らされても不思議のない、貪欲で罪深い存在です。しかしイエスさまは、そのわたしたちが朽ち果てていくことを良しとはなさいません。そんなわたしたちをご覧になり、わたしたちの呪いを自らが受け自ら呪われる者となってくださいました。パウロの言葉です。

 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(ガラテヤ3:13)

 イエスさまは木にかけられ、呪われた者となりました。わたしたちが身に受けるべき呪いを、すべて身に引き受け、わたしたちを生かすためです。イエスさまは、呪いから最も遠い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神からの祝福をもって歩み出されたお方です。祝福を受けるのに最もふさわしい存在、それがイエスさまです。しかしそのお方が、それにふさわしくない呪いを、一手に引き受けて死に逝く道を歩まれました。十字架への道です。そこに、イエスさまのわたしたちへの愛が示されました。

 

■疑わないで

 しかし弟子たちには、そのことが分かりません。

 「弟子たちはこれを見て驚き、『なぜ、たちまち枯れてしまったのですか』と言った」

 弟子たちは、突然イチジクの木が枯れたことに、ただ驚き、戸惑うばかりです。弟子たちのこの愚かな問いに、しかし、イエスさまは力強く、励ますようにしてお答えになります。

 「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」

 「疑わないならば」という言葉が、鋭く突き刺さります。これを原文のままに訳せば、その人の「心の内で疑わないなら」となります。心の中で疑わない。信仰の言葉、確信の言葉、後に続くイエスさまの言葉で言えば、祈りの言葉と言ってよいでしょう。

 その祈りの言葉を口にしているけれども、祈っているわたしたちの心の内で疑っている。イエスさまが言われるから、そのように祈っているけれど、本当にそうなるのだろうか。この世の中の仕組みは、目の前の現実は、わたしたちの祈りが聞かれるようにはなっていない。そう思うことが多々あります。あの時も…、この時も…。思い当たることがいくつも浮かんできます。信仰の言葉を語り、祈りの言葉を口にしながら、辛く、悲しく、苦しい時ほど、心はそれと違うところにある、といったことが少なくありません。

 ヤコブの手紙1章8節に出てくる、「二心を抱かないで」という言葉と同じです。ヤコブの手紙はしばしば、行為を促す手紙であると言われますが、この言葉が示しているように、言葉と別の心を内に持つな、ということを説いた手紙だと言ってよいでしょう。祈りの言葉を語っている心と、それを疑っている心とが、わたしたちの中にあるということです。

 そもそも「疑う」と訳されているディアクリノーは、本来、「分ける」「区別する」「分裂する」といった意味を持つ言葉です。物を判別するとは、黒と白に分ける、善と悪を分ける、日本語の「分別をわきまえる」という言葉に似ています。きちんと判断ができないと、人間として基本的なことを欠くことになります。けれども、人間の判断がいつも正しいとは限りません。明確に黒白がつかない、曖昧になる、ぼやけてきます。それどころか、その判断の基準を間違えれば、疑うことにさえなります。一方で、神の御言葉に基づいて信じる、祈ると言いながら、片一方では、別の基準を持ってきて、どうも神様の言われる通りにはならないようだと疑う。信じているつもりではあっても、そのように自分の心が分裂してしまう。

 嘆きの詩としてよく読まれる詩編があります。42篇です。その2節から4節、

 「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/『お前の神はどこにいる』と」

 詩人は神様をひたすらに求めています。水が涸れてしまった谷底に迷い込んだ鹿のように、そこにはない水を求めて鹿が喘ぎ鳴くように、神様をひたすらに求めています。しかしその一方で詩人は脅かされています。周囲の人にお前の神はどこにいるかと言われると、思わず頷いてしまいそうになり、心の中に疑いが生まれるのです。あなたは神を求めると言うけれども、その神はもともとおられないのではないか。人の判断に心が揺れ動いてしまいます。

 このときも、「すべての民の祈りの家」としての神殿には祈りの声が満ちていました。しかしそこに、祈りがない。神の愛がない。神の愛への信仰がない。神の愛への疑いがあったからです。祈りの言葉と心がひとつになっていないからです。深い所で、神様を、何よりもその愛を疑っているからです。

 

■山を移す

 最初に「信仰を持ち、疑わないならば」とあるように、イエスさまは、今ここで、その疑いを捨てる信仰を持ちなさい、と励ましておられます。

 その意味で、「山を移す」という言葉が大切です。ユダヤ教のラビたちが使っていた表現で、とても難しいことを解釈し、不可能に思えることでもやってしまう人を指す時に使われました。ここで「山を動かす」と言われたのは、木を枯らせるよりも、もっと難しいことという意味でしょう。

 わたしたちの誰にも動かしがたい山が立ちはだかっています。だから疑います。あなたがたの神はどこにいると問われて怯みます。そう問う声が強くなります。だんだん大きな山になってきます。自分の祈りの声はどんどん小さくなります。

 しかしイエスさまは、言葉をもって木を枯らすお方、発した言葉を出来事とするお方、神なるお方です。もしそうだとするならば、今、目の前で見せたように、いのちを取り去り、木を枯らせてしまうことがおできになるだけではなく、その正反対のこと、枯れてしまった木を元通りに再生する、死んだものを生き返らせることもできになるお方であるはずです。

 そのイエスさまが、わたしたちの前に立ち塞がる山を一緒に取り除こうとしてくださっています。そして、取り除くために大切なこと、それは、この山は必ず動く、と信じることだと言われます。

 なぜなら、イエスさまがわたしたちの罪のために、もうすでに血を流し、よみがえってくださっているからです。わたしたちが神を信じるということは、ただひたすらに、主の愛と祝福、赦しの恵みの中に飛び込むということでした。

 最後に、星野富弘の作品をご紹介させていただきます。

  「動ける人が動かないでいるのは

   忍耐が必要だ

   私のように動けない者が動けないでいるのに

   忍耐が必要だろうか

   そう気づいた時

   私の体をギリギリに縛りつけていた

   忍耐という刺(とげ)の生えた縄が

   “フッ”と解けたような気がした」

 体操の先生までやって元気いっぱいだった彼が、首から下が動かなくなりました。ベッドに縛りつけられるような生活をするのには、どんなに忍耐がいることでしょう。けれどもその時に、動けないものは動けないのだ、わたしは、なぜ忍耐する必要があるのか、そう思ったら解き放たれた。諦めたのではありません。忍耐には剌があったと言います。ここで負けてなるものか。そう歯を食いしばっている時に、自分は罪を犯していると思いました。本当に神を信じきるということは、こんなことではないはずだ。忍耐からも解かれるはずだ。

 彼の解き放たれた心がわたしたちに伝わります。平安に向かって解放された彼の心が、すべてを神の愛に信じて委ねる彼の信仰が、わたしたちに深い慰めをもたらしてくれます。

 今日の言葉もまた、ただの裁きの言葉ではなく、神様の深い愛への招き、励ましと慰めの言葉でした。感謝して祈ります。