「天におられるわたしたちの父よ」。
イエスの祈りは「神よ」でもなく、「主よ」でもなく、ただ「父よ」と始められます。八木重吉の詩集『神を呼ぼう』の中に、「てんにいます/おんちちをよびて…」という美しい歌がありますが、イエスが実際に祈られた言葉は、アラム語の「アッバ」であったでしょう。それは「父」でもなければ、「おんちち」でもなく、「父ちゃん」です。イエスは、そば近くにいて見守っていてくださるお方として神に祈るように、と教えられます。
イエスは繰り返し、「恐れるな」「心配するな」「思い煩うな」と弟子たちに教えられました。恐れや思い煩いや不安こそが人を縛り、この世を苦しめる最大の原因であることを知っておられたからです。イエスは、今、父なる神の思いを代弁しておられます。もう少しで自転車に乗れるようになるわが子を見守る父親のように、愛情あふれるまなざしをもって語りかけられます。「アッバ、父よ」と祈りなさい、と。
愛を失って傷ついた人は、愛することを恐れるばかりか、愛されることさえも不安の種になります。傷ついた人の恐れや不安の闇はとても深く、その痛みは、自転車で転ぶ痛みの比ではありません。しかしどれほど痛くとも、どれほど不安でも、その闇から解き放たれ、真の自由と幸福を手に入れる方法はたったひとつしかありません。「見て、見て」と駄々をこねる必要はありません。神はわたしたちのことをわたしたち以上によくご存知で、いつも見ていてくださるのですから、父なる神のそのまなざしを背中に感じながら、「父ちゃん、転んでもいいから、思い切ってこいでみるね」と祈りさえすればよいのです。父なる神も、大丈夫、大丈夫、そんな愛のまなざしを注いでくださるのです。
もはや、わたしたちが祈るのではない。父なる神の愛のまなざしに支えられて、わたしたちは祈ることができる、祈ることへと促されるのです。そんな祈りの体験を重ねることで、わたしたちは、祈りが互いを支える力を持つこと、祈り祈られることの中にわたしたちの人生があるのだ、ということに気づかされるようになります。自分のためだけに祈ることがダメなのではありません。祈りに良いも悪いもありません。自分のために祈るとき、その祈りがただ自分のことだけで終わるはずはないからです。人は一人では生きてはいけない、人と人の間を生きるほかない存在だからです。
その意味で、イエスが教えられる「主の祈り」が「わたしたちの父よ」と祈り始められ、この後に続く祈りの主語がすべて、「わたしたち」であることの意味と重みは、とても大きいものです。神にあって、イエスのみ名によって、「わたしたち」は祈り合う。祈り祈られて、共に生きるよう促されます。
そのことを、初代教会は「あえて祈る」と教えます。礼拝前半の「聖書のみ言葉」が終わったところで洗礼を受けていない人は退席します。その後半、「感謝の祭儀」と呼ばれる聖餐式の中で、洗礼を受けた者だけで「主の祈り」が唱えられました。その導入にあたる短い祈りが「我らあえて祈らん」でした。「あえて祈る」。「あえて祈る」べきこの祈りによって、わたしたちは神の御心を問い、ときには自分の願いに反してでも、なすべき新しい生へと押し出されていくことになります。自分の思い、この世の思いを越えた新しい生き方へと、「わたしたち」は押し出されていくことになります。嘆いたり、溜息をついたり、悔やんだり―もしそれだけなら、わたしたちは諦めるしかありません。運命だった、宿命だ、と。しかし信仰とは「祈る」ことです。「あえて祈る」ことです。主の祈りは、自分自身が、自分の思いを越えて動かされていくためにこそ、あえてなされる祈りでした。