福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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2月2日 ≪降誕節第6主日礼拝≫『初穂となられた神の恵み―復活』 コリントの信徒への手紙一 15章 12~20節 沖村 裕史 牧師

2月2日 ≪降誕節第6主日礼拝≫『初穂となられた神の恵み―復活』 コリントの信徒への手紙一 15章 12~20節 沖村 裕史 牧師

■キリストの復活はなかった?

 パウロはこの手紙の最後のテーマとして「復活」を取り上げ、今日の冒頭12節をこう語り始めます。

 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」

 詰問するかのような口調です。しかしこの厳しい口調は、復活の問題こそ、コリントの教会が立つか倒れるかの問題だ、どうかそのことを分かって欲しい、というパウロの心からの熱い願いゆえでしょう。

 そこで今日は、コリント教会の中で呟かれていた「死者の復活などない」という言葉が何を意味するのか、そのことから始めることにしましょう。いえ、そのことを中心にお話をいたしましょう。

 12節だけを読むと単純に、この人たちは「キリストの復活などなかった」と言っているのではないか、そう思われたかもしれません。「死んだ者が復活するなどということはあり得ない、だからキリストの復活も事実ではない」と。これは今日を生きるわたしたちの常識的な感覚です。現代のこの科学の時代に死者の復活など、そんなことを信じることが果してできるのだろうか、できはしないということです。さらには、キリストの復活は教会が自分たちの教えを権威づけるためにでっちあげたものだと言われることがあります。そこまで行かなくても、イエスの十字架の死後、イエスを慕い、その死を悲しむあまりに、弟子たちの間にイエスは今も生きて共にいると信じようとする思いが生まれ、それが「イエスは復活した」という教えになったのだと言う人もいます。

 これらはいずれも、キリストの復活は事実ではないという前提に立っています。わたしたちは、このような考え方の方が「科学的」「合理的」であるように思われる世の中、時代を生きていますから、こうした疑問は繰り返し、わたしたち信仰者への問いともなります。

 

■死者の復活などない

 しかし、パウロがここで直面している「死者の復活などない」という主張は、それとは少しばかり違っています。コリント教会の人々は、キリストの復活などなかったと主張していたわけではありません。続く13節に「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」とあります。パウロは「死者の復活」と「キリストの復活」とを区別しています。コリント教会の人々が「死者の復活」を否定していたからです。それに対してパウロは、死者の復活を否定したら、キリストの復活もなかったことになるではないかと言います。つまり「死者の復活などない」と言っている人たちも、キリストの復活の事実を否定しているのではありません。パウロがここで語りかけている相手は、キリストの復活は事実として信じるけれども、死者の復活は信じない、という人々なのです。

 では、キリストの復活は信じるけれども、死者の復活は信じない、とはどういうことでしょうか。この場合の「死者」というのは、イエス・キリスト以外の、わたしたち一般の人間のことを指しています。今は生きているわたしたちも、必ず死にます。交読詩編の49編10節に「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか」とあるように、墓穴を見ずに、つまり死ぬことなく永遠に生きることができる者など一人もいません。そのように必ず死者となるわたしたちが、この世の終わり、神の国が完成するそのときに、イエス・キリストと共に復活して永遠のいのちにあずかる、それが「死者の復活」ということです。キリストが復活したことは信じていても、この「死者の復活」を信じない人々がいたのです。

 

■終わりの時まで生き残る?

 そこで問題になっているのは、復活する可能性があるのは誰かではなくて、神は誰を復活させようと思っておられるのか、です。神が復活させようと思われる者は復活します。問題は、神の御心はキリストのみを復活させることなのか、それともわたしたちをも復活させようとしておられるのか、です。

 神はキリストを復活させられたが、わたしたちを復活させようとは思っておられない。こうした主張が生まれる背景には、二つのことがありました。

 第一は、最初期の教会の多くの人々が、自分たちが生きている間にキリストがもう一度来てくださり、この世が終わると考えていたことです。パウロ自身も最初はそう考えていたことが、他の手紙から分かります。多くの人が、自分の生きている間に世の終わりを迎え、もはや死ぬことのない永遠のいのちを与えられる、だから自分たちは死ぬことはないと思っていたのです。死ぬことのない者に、復活は必要ありません。つまりこの人々は、自分たちの復活を信じないというよりも、生きてイエス・キリストの再臨、この世の終わりを迎える自分たちには、復活はいらないと思っていたのです。

 ところが、イエス・キリストを信じて教会に加わった人々の中にも、あの十字架と復活の出来事から25年余りが経ち、次第に年老いて死ぬ者が出てきました。当然、その人たちはどうなるのかという問いが生まれます。神の国が完成する、終わりの時まで生き残る者が永遠のいのちにあずかると考えていた人々は、それまでに死んでしまった人たちは残念ながら滅びてしまったのだ、と言いました。パウロはそれに対して、いや、その人たちは世の終わりに復活して、生き残る者たちと共に永遠のいのちにあずかるのだと教えたのです。パウロの語る死者の復活の教えとは、一つには、キリストが再びやって来られる、終わりの時まで生き残っていなければ永遠のいのちにあずかれないというのではない、信仰をもって死んだ人は世の終わりに復活して、生き残っている者たちと共に永遠のいのちにあずかることができるのだ、ということでした。

 ただ、これは時が経てば解決する問題でした。終わりの時まで生き残ることはパウロ自身もできなかったわけで、信仰者たちはみな、その時を見ずに死にました。こうして、生き残っている者だけが永遠のいのちにあずかるという主張は、自然に消え失せることになりました。

 

■キリストの復活とわたしたちの復活

 けれども、「死者の復活はない」という主張の背景にはもう一つの、より深刻な問題があったのです。それは、この主張が「わたしたちの復活はもう起ってしまった」という考えと結びついていたことです。

 復活がもう起ってしまった、とはどういうことでしょうか。イエス・キリストを信じて洗礼を受けた者は、キリストの十字架の死にあずかって古い自分が死に、キリストの復活にあずかって新しく生まれたのだ、わたしたちはもう生まれ変わった者、復活した者となっている、だから、信仰者の復活はすでに起っているのだ、ということです。

 これはある意味その通りであって、パウロも例えばローマの信徒への手紙の6章などで洗礼の意味を語る時に、そうした言い方をしています。しかしそのことが、世の終わりのときの死者の復活を否定し、それはもう起ってしまったことだという主張の根拠とされるとすれば、問題です。復活が心の中だけの事柄、内面の問題になってしまうからです。

 「死者の復活などない」と言っている人々の最大の問題点は、この内面化です。復活を心の中の事柄にしてしまうことによって、将来の具体的な希望としての肉体の復活を待ち望むことがなくなってしまうところに、この主張の最大の問題があるのです。

 これに対してパウロは、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と語り、16節でも「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです」と繰り返します。パウロは、キリストの復活とわたしたちの復活とは切り離すことができないものであり、両者は神の御心において結び合っていると言います。

 分かりやすく言えば、「神は、わたしたちを復活させてくださろうという御心の現れとして、キリストを復活させてくださったのだ」ということです。20節に「…キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」とあるように、キリストの復活は、わたしたちの復活の先駆けであり、その根拠、約束、保証なのです。キリストの復活に示され、約束されているわたしたちの復活にこそ、神がわたしたちに与えようとしておられる驚くほどの愛と恵みが、何よりも救いの完成があるのです。

 14節と17節に、キリストの復活なしには、わたしたちの宣教も信仰も、すべては無駄なことになると語られているのは、そのことです。キリストの復活なしには、わたしたちの信仰がすべて無駄なことになってしまう。なぜなら、キリストの復活にこそ、神がわたしたちに与えてくださろうとしている救いの完成が、その最終的な姿が示されているからです。

 わたしたちはともすれば、キリストの十字架の死による罪の赦しだけで救いが実現しているように感じ、復活はなくてもよいのではと思ってしまうことがあります。さらには、十字架や復活よりも、キリストのご生涯に倣い、その教えに従って生きることの方が大切だ、と考える人もいます。しかし3節にもあったように、パウロが「最も大切なこと」、わたしたちの救いに不可欠なこととして宣べ伝えたのは、キリストがわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、そして多くの人々に現れてくださったことでした。キリストの十字架の死と復活にこそ、神の恵みの御心が、神の愛が現されているのです。そこに、わたしたちの救いがあるのです。

 とりわけ復活は、その救いが最終的に何をもたらすかを示しています。いつかは必ず死んでいくわたしたちが、世の終わりに、復活のいのちと体を与えられる、それが神の救いのみ業の完成なのです。イエス・キリストの復活は、わたしたちにこの救いの完成を約束し、保証しています。いわば、永遠のいのちへの希望を示し、約束するものなのです。

 

■復活の希望によって

 死者の復活を否定することは、そんな世の終わりに与えられる救いの完成を否定し、それを待ち望もうとしないことです。ということは、現在のこの人生、この世を生きている間のことだけを見つめて生きる、ということです。この人生を、キリストの恵みに支えられて喜びと感謝のうちに歩めばそれだけでよいではないか、死んだ後の復活とか永遠のいのちなどということは考えなくてもよいということです。そのことをパウロは19節でこう語っています。

 「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」

 なぜなら、この世の人生を充実させ、喜びを与えるものは、この世にいくらでもあるからです。世の中には、イエス・キリストを信じていなくても立派な人はたくさんいます。よい働きをしている人、人々のためになる有意義な生活を送り、喜びをもって生き、そして死んでいく人は大勢います。信仰がなければ、そのような生き方ができないということはありません。そればかりか、自分のことだけを考え、他人から奪い、平気で他人を傷つけ、自分の欲望のままに生きて、死んでいく人もたくさんいます。もしも、わたしたちがそういうことで、世間の人々と張り合おうとするなら、惨めなことになるでしょう。

 しかし、信仰はそんなことのためにあるのではありません。信仰にとって最も大切なことは、わたしたちが自分の人生をどれだけ有意義な立派なものとすることができるか、ではありません。神がイエス・キリストをこの世に遣わし、わたしたちの罪のために十字架にかかって死んで、そして復活された、その事実こそが最も大切です。神が、わたしたちの救いのためにキリストの十字架と復活を成し遂げてくださり、わたしたちの罪を赦し、復活の希望、永遠のいのちへの希望を与えてくださった。その神の愛と恵みの中に身を置くことが、わたしたちの信仰です。

 そのことによってわたしたちは、どんな弱さや欠けを持っていても、失敗や挫折に苦しむことが多くても、そしてたとえ志半ばにして世を去らなければならないことになるとしても、復活の希望、永遠のいのちへの希望を抱いて、神が約束してくださっている救いの完成を望み見つつ、歩むことができるのです。

 

■愛に結ばれて

 高齢の信徒の方がわたしにふと漏らされた言葉が忘れられません。

 「死ねるから、大丈夫!」

 池の中にぽんと投げ込まれた石の波紋のように、しばらくわたしの心の中に残り、そして考えさせられました。今ある、このいのちを生きることも楽ではありません。次々と襲ってくる試練があります。体の不調。自分の中にあるゆがみや屈折。他者を傷つけたり傷つけられたり…。しかし、「死ねるから、大丈夫!」。やがて終わらせていただけるのです。永遠のいのちとは、このいのちがいつまでも続くことではありません。

 ローマの信徒への手紙8章37節以下の、パウロの力強い言葉を思い出します。

 「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」

 どのようなこと、どのようなときにも、わたしたちを愛してくださる愛があるから、輝かしい勝利をすでに得ていると言います。文語訳では「勝ち得て余りあり」です。復活の希望、永遠のいのちを確信することによって、おつりがあるような状態であると言います。どのようなことをも乗り越えて、生きていくことのできる確信を与えられたパウロは叫びます。時間を超え、空間を超え、この世の感覚を超えて、神の愛がわたしたちを覆い包み込んでいる。今や、死も艱難もどのような出来事も、わたしたちから神の愛を引き離すことはできない。わたしたちがもうこの愛から永遠に引き離されることはない、と。この希望を確信できるなら、どれほど安らかでいられるでしょう。

 パウロは厳しい現実の中でうめきながら、心に突き刺さる言葉を語ります。わたしたちは死に囲まれた世界に生きている。しかし、死に囲まれたわたしたちをその外側から神の愛が包み込んでいる、と。愛は、わたしたちを永遠のいのちへと引き寄せるものです。

 この世での別れが決して永遠の別れではないことを確信しましょう。厳しい現実の中で、わたしたちの傍らで共にうめき、共に涙してくださるお方がいてくださることを確信しましょう。生きるものも死ぬものも、確実で絶対的な愛に結ばれていることを確信しましょう。死にさらされ、死に囲まれている現実の中で生きるわたしたちに対して、神の愛、神の力はどのような力も太刀打ちできないという確信を、生活の中で起こる出来事の中でこそ、抱き続けていきたいものです。