≪説教≫
■欺瞞に満ちた問いかけ
イエスさまが十字架で殺されることになる、三日前の火曜日のことでした。祭司長と民の長老たちが、イエスさまを問い質すように、こう尋ねます。
「何の権威でこのようなことをしているのか」
「このようなこと」とは、前日、イエスさまが神殿の境内で大暴した、「神殿きよめ」のことでしょうか。それとも、そのとき神殿の境内で教えておられたことでしょうか。そのいずれであれ、単に「ここはわたしたちが管理している場所です。勝手なことをされては困りますよ」と注意したということではないようです。
「祭司長と民の長老たち」という言葉が、木曜日の最後の晩餐から金曜日の十字架までを描く26章から27章にかけ、三度も出て来ます。26章3節以下には「…祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した」とあり、同じ26章47節には「イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た」とあり、27章1節以下には「夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した」とあります。彼らは、イエスさまの逮捕・殺害を企て、それを実行した人々でした。
その「祭司長と民の長老たち」からの問いです。この問いには、イエスさまへの敵意と殺意が込められていたはずです。これまでにも、繰り返しイエスさまを罠に掛け、捕らえようとした人々です。彼らは、イエスさまの権威を神からのものだなどとは考えてもいません。神殿に仕える自分たちは、十分な教育を受け、正式に任命もされ、神からの権威を与えられているが、この男はただのガリラヤの大工の息子に過ぎないではないか、という思いが見え隠れします。そのイエスさまへの「何の権威でこのようなことをしているのか」という問いかけは、その言葉尻を捕らえて、陥れ、群衆の気持ちをイエスさまから引き離そうとする、まさに欺瞞に満ちたものでした。
■問いかけるイエスさま
イエスさまは、敵意と殺意を含んだ欺瞞に満ちたその問いかけに、直接お答えにはならず、逆に、こう切り返されます。
「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」
「ヨハネの洗礼は天からのものか、人からのものか」
天からであれば、それは神からのものであり、権威あるものです。それには聞き従わなければなりません。人からであればそれは人間が勝手にしていることで、従う必要はありません。つまり、「天からのものか、人からのものか」というこの問いかけは、天からの権威には従い、人からの権威には従わない、ということを前提としています。祭司長と長老たちは、イエスさまからこう問い返されることによって、「わたしの権威を問うからにはあなたがたは、天からの権威には聞き従い、人からの権威には従わない、という姿勢を持っていなければならない。その姿勢をはっきりと見せなさい」と迫られたのです。
祭司長と長老たちは、普段は問われる側ではなく、人の罪を問いただす側にいる人たちです。思いもかけず問い返されて、戸惑う彼らは互いに議論を始めます。
「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから」
このやりとりから、彼らが一番気にかけていたこと、彼らの本音が見えてきます。それは、自分たちの面子と身の安全です。本当は、ヨハネを神に由来する預言者とは認めていないのに、群衆を恐れて、そのことをはっきりと口にすることができません。本当は、ヨハネに聞き従うことは神の御心ではない、むしろ神に逆らうことになるのだと教えて、人々の間違いを正していくべきなのに、そうしません。大勢の群衆が、ヨハネを神からの預言者と信じて、続々と彼からヨルダン川で洗礼を受けていたからです。「群衆が怖い」のです。ヨハネの権威などどうでもよいのです。彼らは、神を恐れ、神の権威に従おうとしているのではなく、人を恐れ、人の評判を気にしています。面子が保たれ、身の安全が図れることが何よりも大事でした。
イエスさまの問いによって、彼らの本当の姿が明らかになります。これまで彼らが聞いていたイエスの教え、また働きは、どれもこれもが、権威ある彼らからすれば疑わしいものばかりだ、と思っていました。そのイエスが今、自分たちのお膝元、都エルサレム、それも神殿の境内で教えています。彼らはそのイエスを問いたださずにおれなかったのです。イエスを尋問しました。そして返ってくる答えを、正しいかどうか、権威ある者として、自分たちが判断しようとしたのです。
ところが権威者である自分たちの質問に答える代わりに、イエスさまは逆に問い返して来られたのです。その結果、ああでもないこうでもないと、祭司長たち、長老たちの間に議論が始まり、議論の末に彼らが用意した答えは何かと言えば、「分からない」という答えだったのです。
■「分からない」との答え
福音書はこれまで何度も、神としての権威がイエスさまに現れていたことを伝えています。例えば、山上の説教を語り終えた時の人々の驚きを、「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と伝えています。また9章の中風の人の癒しの場面で、イエスさまは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と神の権威で宣言をされます。罪を赦す権威を主張されたのです。
つまり、イエスさまの権威は、山上の説教で語られたような愛による生き方をもたらす権威であり、また、罪を取り除く権威なのです。このとき、イエスさまは神殿の境内で教えておられます。そして同じ権威をもって、神殿を清められました。神殿にかかわる罪の清めも、福音に生きることの喜びを語ることも、実は、神の権威がなければ成し得ないことでした。
そこに居合わせていた人々は、イエスさまの姿からそのことを感じ取ったに違いありません。そして感じ取ったのならば、それを素直に受け入れればよいのです。ところが受け入れず、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と問いかけたのです。
ヨルダンの荒れ野にヨハネが登場したとき、彼が語ったのは罪の悔い改めのメッセージでした。神の民が罪を犯していることをはっきりと指摘し、生き方の転換を求めました。
あなたを探す神様がおられる。あなたが神様を探し求める前から、神様はあなたたちを探しておられた。「あなたはどこにいるのか」という神の呼びかけが聞こえないか。その招きの声に応え、振り向いてごらん。
ヨハネは神様のみ許に立ち返ることを求めたのです。
その招きに応じる、人間の側での具体的な行為が「洗礼」を受けるということでした。そのことは今も変わりません。洗礼を受けるということ、それは神様の権威の下にへりくだることだ。ヨハネはそう教えました。
だからこそ、罪人と呼ばれた人々はこぞってヨハネの前に列をなし、ヨハネから洗礼を受けたのでした。その人々のほとんどは権威なき人でした。ところが、当時、自分に権威あると思っていた人たちはどうしたでしょうか。彼らは並ばなかったのです。祭司長と長老、指導者たちは動きませんでした。ヨハネの働きの内に神の権威を認めれば、自分の権威が疑われ、奪われ、今まで通りの生活ができなくなるからです。彼らは、「分からない」と態度決定を保留するほかありませんでした。
イエスさまの権威は、その洗礼者ヨハネの権威と密接な関係にありました。ヨハネはイエスさまを指さし、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と、イエスさまこそが、「来るべき方」であることを証ししました。とすれば、ヨハネの権威を認めるということは、イエスさまこそが神から遣わされた者として受け入れることでもありました。
神様からのこの大切な問いかけに、彼らは「分からない」と答えました。
苦し紛れの回答です。その結果、最後、どうにも逃げ場がなくなっていきます。そしてついには「このイエスを殺すほかない」、それが言葉にならない、しかし彼らが心に抱いた結論だったのでしょう。
■問いかけられて
思えば、聖書は、繰り返し、繰り返しわたしたちに問いかけてきます。
大学生の時、教会の礼拝に出席した後の愛餐会にいつも驚いていました。おいしい食事のひとときを、皆が実に楽しく、にぎやかに過ごします。男も女もありません。おとなとこども、年配と若輩の違いもありません。障がいのあるなし、どんな仕事についているかなんて、誰もちっとも気にしている風がありません。それまで、そんな光景を見たことなど一度もありませんでした。自分の知っている世界とは違っていることに心惹かれ、求道生活が始まりました。これは何だろう。この違いはどこから生まれて来るのか。なぜ、イエスという人が神なのだろう、そもそも神とは何者なのだろう等々。そんなわたしの側からの問いがあったからこそ、教会に通い続けることができたように思います。
しかし教会に通っている内に、だんだん分かってきました。問いをもって出席し続けているわたしが実は、聖書の言葉を通して問われていたのです。「問われていることを知らないと、信仰はよく分からない」と教えてくれた人がいます。わたしの小さな経験からもそうだと思います。問われていることを知って初めて、信仰の世界が開かれてくるのです。
「あなたはどこにいるのか」「あなたは何者か」。こう問いかけられていることに気づき、振り返った時、そこには初めから、どんなときにも両手を広げて待っておられる神様が立っておられました。「わたしはあなたのことを愛している」と声をかけ続けてくださる神様であることにハタと気づかされたのです。気づいたとき、わたしは教会に洗礼を願い出ました。
■愛の権威
自らの権威を誇り、うぬぼれ、それを振り回すだけの者は、決して他の権威を受け入れようとはしないものです。自分の権威と他人の権威とが対立するからです。
祭司長や長老たちは、神の名を使い、神の権威を借りて、多くの人々を罪に定め、愛ではなく罪への畏れによって支配しようとしました。それと同じように、自らの権威を振りかざして、自らが主人となろうとする者は、他の権威を利用することはあっても、自分以外の権威を決して受け入れようとはしません。
それでも、そんなわたしたちがこの世の様々な権威から自由であるのは、わたしたちが反骨精神溢れる自由人だからなのではありません。わたしたちが、この世のどんな権威でもなく、ただ神様の、イエスさまの権威のもとに置かれている「僕」だと知っているからです。
しかし、神の権威に服従するわたしたちの姿を見て、時に人はキリスト教を奴隷の宗教だと揶揄します。現代人は「僕」になるのが嫌いだからです。みんなが主人になりたがります。自らの権威を保ちつつ、他者を支配し、自分の思いどおりに生きることが幸せだと思い込んでいます。人々が権力を求め、富を集め、情報を握ろうとするのはそのためです。
もちろん誰だって支配されるのは嫌です。命令されたり、管理されたりするのを喜ぶ人などいないでしょう。現に、独裁政治だとか、ワンマン上司だとか、身勝手な夫だとかに支配されて生きている人たちが、どれほどの閉塞状況にあるか。夫を「主人」と呼ぶことに違和感を覚える人が増えているのも、不思議なことではありません。
しかしそれもこれも、支配されること、権威の下に生きることが、喜びとならないような支配や権威であるならば、という大前提のもとで成り立つ話です。もしも支配されることが、権威のもとに生きることが、真の幸いをもたらすような支配、権威を知ったならば、話は全く変わってくるはずです。
わたしたちは本当の主人を、本当の主人に支配してもらえる喜びを知っているでしょうか。もしもその主人のまことの尊さと、その主人に支配される喜びを知ったなら、むしろ「どうかこのわたしを僕にしてください」と心底願うことでしょう。
「僕」を愛し、「僕」の幸せに全責任を負い、「僕」を救うためにいのちをかける主人。そんな主人の下に、そんな愛の権威のもとに生きることができる人は、幸いです。その幸いは、この世で自らが主人になるのとは比べものにならないほどの幸いです。おそらく、わたしたちは本物の主人を知らないために、いつも偽物の主人に支配され、傷つけられ、もう「僕」なんて絶対いやだ、自らが主人になるしかない、と思い込んでいるにすぎないのです。
今日のみ言葉が告げる信仰は、神様を、イエスさまを「主」とする信仰です。神様の愛そのものであるイエスさまを、絶対的な権威をもつ主人とする信仰です。それが、どれほどの安心と喜びを、希望と自由を生むかを知っている人は、もはや自分が主人になろうなどとは夢にも思わないでしょう。わたしたちクリスチャンは、ただ主の「僕」になりたい、絶対的な愛の権威の下にすべてを委ねて生きたいと願う者なのです。
このイエス・キリストの愛と恵みの権威の豊かさをこそ、心に深く味わいたいと願います。イエスさまが、わたしたちの中に踏み込んで来てくださったところに、真の自由があります。この世のあらゆる権威から、罪の縄目からわたしたちを解き放たつ、真の自由があります。感謝と愛を持って、真の権威を受け入れたい、そう願う次第です。