≪説教≫
■読めばわかる?
「あなたたちはどう思うか」
「あなたたち」と呼びかけられたのは、前回、イエスさまと議論をしていた祭司長や民の長老たちです。この呼びかけに続けて、イエスさまは一つのたとえ話を彼らに語りかけられます。
とてもシンプルなたとえ話です。ある人に二人の息子がいました。最初に父親は兄のところに行き、「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言うと、「いやです」と答えます。それでも兄は、「後で考え直して」ぶどう園に行きました。それとは知らない父親は弟のところへも行き、同じことを言います。すると「お父さん、承知しました」と素直に答えます。しかし、弟はそう言っただけでぶどう園行にはかなかった、というたとえ話です。
「読めば分かる」たとえ話です。では一体なぜ、イエスさまはこんなにも分かり易いこのたとえ話を彼らに語られるのか。その真意はどこにあるのでしょうか。
そもそも、祭司長と民の長老たちはイエスさまからこう問いかけられていました。
「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」(21:25)
彼らは、洗礼者ヨハネを神様にから遣わされた預言者とは認めていませんでした。本当であれば、ヨハネに聞き従うことは神様の御心ではない、むしろ神様に逆らうことになるのだと教え、人々の間違いを正していくべきであったのに、そうはしません。大勢の群衆が、ヨハネを神様からの預言者と信じて、続々と彼からヨルダン川で洗礼を受けていたからです。「群衆が怖い」のです。彼らは、神様を恐れ、神様の権威に従おうとしているのではなく、人を恐れ、人の評判を気にしています。面子が保たれ、自分たちの権威と身の安全が守られることが何よりも大事でした。ああでもないこうでもないと、祭司長、長老たちの間に議論が始まり、議論の末に彼らが出した答えは、「分からない」でした。欺瞞に満ちた彼らの姿が露わになります。
このやり取りに続いて、イエスさまの口から今日のたとえ話が語られました。そしてこのたとえ話の後で、イエスさまが再び問いかけられます。
「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたのか」
父親の望みとは当然、神様の望みのことです。父なる神は何を望んでおられるのか。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたのか」とイエスさまは問いかけられます。それは、「神の望み、御心に生きる」、そういう生き方への招きでした。
問われた祭司長、長老たちは「兄の方です」と答えます。
正しい答えです。ただ、「読めばわかる」この物語が実は、自分たちの物語だということに彼らはまだ気づいていません。だからこそ、すんなり答えることができたとも言えます。もし、それが自分たちの話だと分かっていたのなら、簡単に答えることができず、ここでも前回同様、「分からない」と答えたかもしれません。
■後で考え直して…
「兄の方です」という正しい答えを彼らから引き出した上で、イエスさまはその答えを彼ら自身に突きつけられます。
「イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。…』」
徴税人は律法を守らず、同胞を裏切ってローマの手先となり、貪欲をほしいままにする人々でした。そのため、ユダヤ社会から完全に締め出されていました。娼婦と言えば、その存在そのものが汚れたもの、厳しく排除すべき存在と見做されていました。そのことは神の律法に定められていること、疑問を持つ者など誰一人いません。
ところがイエスさまは、その「徴税人や娼婦たちの方が」、神の律法に対して敬虔な「あなたたちより先に神の国に入る」ことになると宣言されます。驚くべき救いの宣言です。
この救いの宣言をさきほどのたとえ話と結びつけることによって、兄と弟がそれぞれ一体だれを指しているのか、このたとえ話に込められたイエスさまの願いがどのようなものなのか、明らかになります。
「お父さん、承知しました」と言った弟は、律法を忠実に守り、神の民としての分を守ろうと心がけている敬虔な人、祭司長や長老たちを指しているのは明らかです。しかし実際には、前回、イエスさまから「天からのものか人からのものか」と問われたとき、神からの権威ではなく自分たちの権威に固執した彼らは、神様の御心を行うこともせず、御心にも従っていません。
これに対して、「いやです」と素気ない返事をした兄は、律法違反を公然と行う人間です。徴税人や娼婦がこれに当たります。彼らが神様の御心を行ったというのではありません。しかし彼らこそ、敬虔な人々より先に天の国に入るのだとすれば、どのように神様の御心を行ったのかが問題となります。そのことが最後に語られます。
「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」
大切なことは、「後で考え直して」信じることです。
徴税人や娼婦たちは確かに神様に背きました。しかし、イエスさまの先駆けとして洗礼者ヨハネがやって来て、義の道、神様に従う正しい道を示すと、「考え直して」信じ、彼に従いました。しかし祭司長や民の長老たちはヨハネを信じませんでした。彼らは「後で考え直して彼を信じようとはしなかった」のです。このように初めは信じていなくても、「後で考え直して」信じる者は神の国に入り、初めはいかにも信じているように振る舞っても、結局は、後で考え直して信じない者は、神の国には入れないのだということです。
わたしたちは、父親の求めに対して最初から「承知しました」と答え、そしてその通り実行するのが一番良いし、それが父親の望むところであったのではないか、そう思うかもしれません。しかし、最初「いやです」と答え、後から考え直した兄の態度が、「父親の望みどおり」であったのです。
神様の望まれることは、「後で考え直す」ことでした。
わたしたちも人生の歩みの中で、しばしば神様の御心に背いてしまいます。それでも、後になって考え直し、信仰をもって生きる人生を送ることができるとすれば、どんなに素晴らしいことでしょうか。別の言い方をすれば、その必要のないほどに立派に生きることを、つまり「後で考え直す」必要のないそんな優等生みたいな人間を、神様はお望みではないということです。
自分のことを謙虚にまっすぐに見つめれば、だれもが、兄のように「いやです」と思慮を欠いた拒否をしたり、弟のように「承知しました」と口先だけの従順を示したりする、その程度のものです。神様はそういうわたしたちのことをよくご存じです。承知の上で、「後で考え直す」ことを望んでおられるのです。
神様のお望みになることは、ただ一つ、「後で考え直す」こと、悔い改めること、それだけです。
■愛に包まれて
では、わたしたちは、何に気づいて、気づかされて、「考え直す」のでしょうか。それは、主の限りない愛に、です。
ルカによる福音書7章36節以下に登場する、「罪深い女」のことを思い出します。
彼女もイエスさまと出会い、気づかされ、「考え直し」た一人だったのではないでしょうか。彼女は、感謝の涙でイエスさまの足を濡らし、髪をほどいてそれを拭い、さらに高価な香油を塗って、イエスさまへの愛を表しました。彼女がそれだけイエスさまを愛したのは、イエスさまがまず彼女を愛してくださったからでした。彼女は、赦しの中に示されたイエスさまの愛を心深くに感じ、「考え直し」た、悔い改めたのではないでしょうか。まさに「徴税人や娼婦たちの方が、先に神の国に入」ったのです。
エリコに住む徴税人のザアカイも、イエスさまに招かれ、赦しの愛に気づき、「考え直し」ました。喜んでイエスさまを迎えた彼は、「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれからか何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」と誓うことができました。ここでも「徴税人や娼婦たちの方が、先に神の国に入」ったのです。
わたしたちもすでに、慈しみ深い神様の愛の傘にすっぽりと包まれています。わたしたちを取り巻く状況―それがどれほど苦難、困難に満ちたものであろうとも、そのすべての状況に先立って、神様に愛されている子どもとして、力強い神様の御手の中に守られています。愛の神様がいつも共にいてくださるのです。
だから、そのことに気づき、「後で考え直す」ことが求められるのです。だから、気が付いたら悔い改めましょう。気が付かなければ仕方がありませんが、気が付いたら、手遅れだなどと思わないで、その場で悔い改めましょう。間に合わない悔い改めはありません。