福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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2月28日 ≪受難節第2主日礼拝≫ 『だれが家族?』マタイによる福音書12章46~50節 沖村裕史 牧師

2月28日 ≪受難節第2主日礼拝≫ 『だれが家族?』マタイによる福音書12章46~50節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

黙 祷
讃美歌  11(1,3節)
招 詞  ヨエル書2章12~13節a
信仰告白 信徒信条 (93-4B)
讃美歌  313(1,3,5節)
祈 祷
聖 書   マタイによる福音書12章46~50節
讃美歌  161(全)
説 教  「だれが家族?」
祈 祷
献 金  64
主の祈り 93-5A
讃美歌  419(1,3,5節)
黙 祷

 

≪説教≫

■外に

 冒頭に「なお群衆に話しておられるとき」とあります。

 12章に入ってから、イエスさまとファリサイ派の人々との間で、厳しいやり取りが交わされてきました。[i]そのやり取りに一旦区切りをつけるのように、イエスさまはファリサイ派の人々から群衆へと向きを変えられます。そして、これまでのやり取りを締めくくるようにして、「なお」続けて人々にお話をされていました。そのときのことです。46節、

 「その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた」

 この後13章53節以下に、イエスさまがナザレの会堂で教えておられる姿を見た村の人たちが、「この人は大工の子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」と驚いた、と記されています。イエスさまには何人かの弟、妹たちがいました。ただ父ヨセフの名前はありません。おそらく父ヨセフは亡くなったのでしょう。父の死後、長男であったイエスさまは、弟たちが自立するまで、跡を継いで大工の仕事をし、家族の中心となって家を支えておられたのではないか、と思われます。三十歳になったとき、イエスさまはその家を離れ、神の国の福音を宣べ伝え始められます。イエスさまの周りにはいつも、病を癒していただきたいと願う人々、イエスさまの語られる言葉に喜んで耳を傾ける人々が、押し寄せるようにして集まって来ていました。

 このときも、多くの人々と弟子たちがイエスさまの周りを取り囲んでいました。ところが、「話したいことがあって」やって来たはずの母マリアと弟たちは、イエスさまを呼んで欲しいと頼むでもなく、ただ「外」に立っています。弟子たちや多くの人々がイエスさまを取り囲むようにして坐っている、その「中」に入ろうとする素振りさえありません。[ii]

 そこに家族のことを知っている人がいたのでしょう。47節、

 「ある人がイエスに、『御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます』と言った」

 「外に立つ」という言葉が46節と47節に繰り返され、強調されています。頑なとも思える家族の姿です。その姿から、「話したいことがあって」と言われていることとは、同じ出来事を記すマルコによる福音書3章21節のことではないのか、そう思えてきます。そこにはこう書かれていました。

 「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」

 「あの男は気が変になっている」というショッキングなこの言葉を、マタイは削除しました。[iii]しかしマタイは、真実から目を逸らそうとしているのではありません。

 家族はどこまでも、イエスさまの「外に」立っています。

 

■常識

 家族が呼んでいると言われたら、みなさんはどうされるでしょうか。普通でしたら外に出て行くのではないでしょうか。イエスさまはどうなさったか。外に出て来られません。外に出て来るのが当然と思う、わたしたちの「常識」とイエスさまのお考えの間に大きな開きがあるようです。

 家族の「気が変になっている」という言葉もまた、そのもともとの意味は「自分の存在、自分のあるべき場所の外へ出てしまう」ことで、イエスさまがあるべき場所である「常識」の外に出てしまっていることを指す言葉です。

 わたしたちが大人になって行くとき、誰もが、「常識」と呼ばれる世界観、既成の枠の中に自分を位置づけ、自らのアイデンティティを形成します。アイデンティティとは、それがなくなったらもう自分だとは言えない、そんな「何か」のことです。その「何か」が様々な形で、人を支配しています。人は自分が何かでないと不安なので、常に自分が何であるかを確かめようとし、さらに何かであろうとし続けます。しかし「何かである」ことは「自分である」こととは違います。「何か」とはほとんどの場合、旧来の慣習や見方であったり、逸脱を許さない一つの制度や枠組みであったりします。それが「常識」と呼ばれるものです。

 例えば、「自分は女である」というとき、それは、単に生物学的な分類を言っているのではなく、わたしは「女」という慣習や文化、制度や枠組みに支配されています、と言っているのです。よく言われるように、「人は女に生まれてくるのではなく、女にされていく」のです。

 わたしたちの世界では、「常識」と呼ばれる世界観に従わず、その外側にいる人間、立ち続ける人間は、愚かで、役に立たない、危険な、おかしな人間と見做されます。そしてそんな人間が家族の中にいるとすれば、それは身内の恥でした。

 そこで、わたしたちは、家族、地域社会、組織の誰かが常識外れのトラブルを起こすと、その人のことを理解しようとするよりも、家族の、地域社会の、組織の監視の下に置いて、言うことを聞かそうとします。その人との関係、絆を回復しようというのではありません。むしろ関係を断ち切って、外に出さないように隔離します。ここでも、家族がイエスさまのところにやって来たのは、イエスさまのためではなく、家族の愛ゆえでもなく、ただ自分たちの管理下に置いて、自分たちの恥を隠すためであったのでしょう。 [iv]

 

■神の国

 「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

 イエスさまは28節でこう言われていました。神の国はもう来ている。神の支配がもう始まっている、とイエスさまは宣言されました。今ここに、神の国はもうすでに実現している、神の愛の御手は差し出されていると言われます。

 ところが、その神の御業、イエスさまがなさっているその御業に、血のつながりのある家族が関わりを持とうとせず、外に立っているのです。イエスさまの血縁の家族は、このとき、イエスさまが明らかにされた神の国の現実よりも、「常識」に囚われています。神の愛の御手が今ここにもたらされている、そのことに心の目が開かれること、その愛のもとに立って生きることなど考えもしません。

 これが、この時この場で起こっていた出来事でした。自分たちは肉親で、家族だ。だから外から呼び出しをかけることもできる。他の人にはできなくとも身内だからできる。だから中には入らないのです。そして中にいた人たちも、そのことを当然のこと、常識として、そのままに受けとめたのです。

 今ここでは、イエスさまを受け入れ、これにつながる人々とは誰なのか、ということが問題とされています。

 イエスさまが、外に立ったままの家族の姿をご覧になりながら、外に出て行こうとされなかったのは、「常識」に囚われて、イエスさまを縛り付け、抑えつけようとする「家族」のところではなく、ひたすらに愛を求め、共に生きることを望み、また喜びとする人々の、弟子たちのいるところにこそ、神の国がある、愛の霊が働いている、本当の家族がいる、そう思われていたからでしょう。それが49節以下の言葉の意味でしょう。

 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」

 

■父母を敬え

 もう少しこのことを考えてみたいと思います。

 それにしても、イエスさまの言葉と態度は、人々にとって衝撃的なものであったに違いありません。ユダヤ教の社会で大切にされていた家族関係、中でも親子関係を事実上否定するように見えます。「あなたの父と母を敬え」という戒めは、十戒の中でも、人間関係を律する六つの戒めの第一に挙げられるものとして非常に重視されていました。イエスさまの言葉は、最も重要な神の言葉―十戒を否定するものと受け取られたかも知れません。ファリサイ派の人々のイエスさまへの殺意はより激しく燃え上がったに違いありません。[v]

 果たしてイエスさまのこの言葉は、旧約以来のユダヤの家族の秩序を根底から破壊するものだったのでしょうか。そうではないでしょう。[vi]

 誰であっても自分の父、母を敬いたいし、敬うに値するような父、母を持ちたい。何と言っても自分を生み育ててくれた人であるからです。自分の父、母なのですから、肉のつながり、血のつながりからいって、それは人間の自然な感情です。ところが親も子もときに、その自然な感情が、どうして父母を敬わなければならないのか、が分からなくなります。そこで、「生んでやったんだから」などと言っても通用しません。誰も生んでくれと頼んだわけではないし、親自身にしても、こういう子どもを生もうと意図して生んだ訳ではないのです。

 そんなときに、「あなたの父母を敬え」ということを、自然な感情に支えられた倫理、いわば「常識」として受け止めるだけでよいのでしょうか。それを「戒め」と言ってよいのでしょうか。自然の感情に根ざすもので、そうすることが当たり前なら、それをわざわざ「戒め」として命じる必要などない筈です。

 しかし聖書は、はっきりと神の戒めとして「父母を敬う」ことが命じています。どう受け止めるべきなのか。『ハイデルベルク信仰問答』にこうあります。

 「わたしがわたしの父や母、またすべてわたしの上に立てられた人々に、あらゆる敬意と愛と誠実とを示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐すべきである、ということです。なぜならば、神は彼らの手を通して、わたしたちを治めようとなさるからです」。

 「あらゆる敬意と愛と誠実とを示し、ふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐する」ことが、父母を敬うことです。子どもが親を査定して、「あんたが立派なら言うことを聞いてやる」などと言うのではありません。どんな親であろうとも、敬意を示し、服従し、その欠けを忍耐することが求められています。なぜか。「神は彼らの手を通して、わたしたちを治めようとなさるからです」。治めるとは、創世記冒頭に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして…すべてを支配させよう」にある「支配」と同じ言葉です。いのちを与え、養い、導く、ということです。神が親を用いてわたしたちにいのちを与え、この世に生まれさせ、養い育て、導いてくださっている。父母が、創造の恵みの御業の中に位置づけられ、用いられるのです。

 親が信仰者でなくても、あるいは親失格の子どもを苦しめてばかりいるような親であっても、いえ、そもそも、いろいろな事情で全く自分を育てることのできなかった、あるいはしなかった親であっても、神がその父母を通して、わたしを生まれさせ、生かしてくださっているのです。その神の御業、御心ゆえに親に敬意を示し、服従し、その欠けを忍耐することが求められているのです。

 しかも、すべての戒めに先立って「主が命じられたとおりに」とあります。「主にあって」敬い、愛することが命じられます。すぐれているから敬い、好きだから愛する、というのではありません。神が、この父母によって自分をこの世に生まれさせ、生かしておられる。そこに神の恵みの御業があることを思い、その神を敬い、その御心に従うという信仰によって、生んでくれた父母を敬うのです。自分という人間がこの世に生まれ、今生かされ生きていることを、神の恵みの御業として受け止めることによってこそ、わたしたちは本当の意味で、父母を敬うことができるようになり、その欠けをも忍耐し、また年老いた父母を本当に助け、慰めることができるようになるのです。

 つまり、父母を敬うということは、自分のいのち、人生を、神の恵みによって与えられたものとして、互いに受け入れ、共に喜び、共に神に感謝して生きる、ということと表裏一体なのです。

 

■愛の呼びかけ

 これが、49節以下の言葉の真の意味です。

 「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。…だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」

 神の創造の御業の担い手として用いられるのは、肉の父母だけではないからです。「父母を敬え」というこの戒めを、人間の自然な感情の延長としてではなく、神の御心の内で、わたしたちに父母として、兄弟姉妹として、敬い、仕え、愛することが命じられているのは、肉のつながり、血のつながりで結ばれている人々ばかりではありません。こうした受けとめ方が欠けているからこそ、わたしたちの優しさや親切が、いわゆる身内同士の、閉鎖的な家族内の、それを一歩も出ないものに終わらせているのだ、と言ってもよいでしょう。

 『人間の大地』の中で、犬養道子がこう言っている通りです。

 「愛とは好きという感情でもなければ同情心でもない。同じ神の創造の世界に置かれているものとしての連帯の意識である」

 「あなたの父母を敬え、あなたは殺さない、あなたは姦淫しない、あなたは盗まない…」。人に対する戒めの背後に、「なぜなら、あなたはわたしの民だから」という神の宣言が、愛の呼びかけがあります。愛を受けるに全く値しないわたしたち一人ひとりに、「あなたはわたしの子ども、わたしの愛を受けなさい、わたしの愛の内にとどまりなさい」と、十字架の上からイエスさまが呼びかけておられるのです。神の国に、神の創造の恵みの御業の中に、神の愛の御手の内にとどまりなさい。そのイエスさまの御声を聞き取ること、聞き取り続けていくこと、その時、わたしたちもまた、敬うに価しない、愛をささげるに値しないと思う相手にも、そして自分にも、真の尊敬と愛をささげていく者とされるのではないでしょうか。本当の意味で「父母を敬い」、隣人を愛する者に、つまり「本当の家族」につくりかえられていくのです。