お話「宇宙船がやって来た!」(こども・おとな)
■モーセさんって、どんな人?
今から3,300年前、ピラミッドやスフィンクスなどが造られていたエジプトでのことです。奴隷にされ、重労働を強いられ、苦しんでいたイスラエルの人々を救い出すために、神様は、モーセという人をリーダーに立てて、エジプトから導き出すことにされました。そのときの様子が書かれているのが、今日読んでいただいた「出エジプト記」、そして、一緒に歌った「こどもさんびか46番」です。
イスラエルの人々は奴隷でしたが、よく働き、よく食べ、赤ちゃんもたくさん生まれました。でも、それを喜ばない人がいました。エジプトの王様です。奴隷がこれ以上増え続けると、自分たちより強くなるかもしれないと心配した王様は、「イスラエルの人の家で生まれた子どもは、女の子は生かしてよいが、男の子はナイル川にほうりこめ」という命令を出したのです。さあ、大変。赤ちゃんが生まれるとどこの家でも大喜びなのに、男の子だったら急に静かになります。エジプトの兵隊に見つかると殺されてしまうからです。
そんなある日、イスラエルの人の家に男の子が生まれました。お父さんお母さんは、エジプト人に見つからないように育てていました。でも、赤ちゃんが大きな声で泣くので、いつまでも隠しておくことができません。「籠(かご)に入れて、ナイルの川に流そう。殺されるのを見るのは耐えられない。神様がこの子を守ってくださるだろう」と言って、二人は、パピルスで籠を作りました。その中に、布をしいて、赤ちゃんを寝かせ、ナイル川にそっと流しました。
ゆっくりと流されていくこの籠を、エジプトの王女様に仕えていた、その子のお姉さんがしげみに隠れて見ていました。川下の方で水浴びをしていた王女様が、流れてきた籠に気づきます。それがさっきの歌の1番です。
「ナイルの岸の あしの中/王のむすめが 見つけだし/すくったあかちゃん モーセさん」
川に流された赤ちゃんは、いのちを助けられ、モーセと名づけられました。
大きくなったモーセは、自分が奴隷であるイスラエルの一人であることを知って、苦しむイスラエルの人々を助けたいと願うようになります。あるとき、一人のイスラエル人が、エジプト人から激しく鞭(むち)で打たれているのを目(ま)の当(あ)たりにし、モーセは思わずそのエジプト人に手をかけ、殺してしまいます。
捕まって、処刑されることを恐れたモーセは、ミディアン人の住む地方に逃れ、そこで出会ったツィポラという女の人と結婚し、幸せに暮らしていました。そんなある日のこと、モーセがホレブという山の近くで羊を飼っていると、山にはえていた柴の木がパチパチと音を立てて燃えていました。いつまでも燃えています。「どういうことだろう。あの木はいつまでも燃え続けている。そばに行ってようすを見よう」。そう思って、燃える木のそばまで来たときのことです。歌の2番です。
「ホレブの山の 火のなかに/神のよぶ声 ひびきます/みことばうける モーセさん」
神様は言われました。「モーセよ、あなたの仲間が今、エジプト人の奴隷になって、毎日つらい思いをしている。あの人たちがかわいそうだ。わたしはエジプトからあなたの仲間を救い出したい。わたしはイスラエル人が安心して住むことのできる土地を用意している。わたしがイスラエルに与える約束の土地だ。モーセよ、わたしはお前をエジプトへ遣わす。お前はエジプトの王に会って、イスラエルの人々を奴隷から解放するように言いなさい。そして約束の地までお前が導きなさい」と。
こうしてモーセは、イスラエルの人々を助け出す仕事をすることになりました。でもそれは簡単なことではありません。なんとかエジプトを脱出しすることに成功しますが、エジプトの王様はイスラエルの人々を連れ戻そうと、戦車に乗って追いかけて来ます。ようやく葦の海にまでたどり着きますが、前は荒れ狂う海、後ろはエジプトの戦車隊に挟(はさ)まれて、絶体絶命のピンチです。そのときです。モーセが立ち上がって神様に祈ると、なんと火柱(ひばしら)がおこってエジプト軍をさえぎり、反対側の海は裂けて、海底に道が開けます。人々が大急ぎでそこを通って逃れると、後を追ってきたエジプトの戦車はあっという間に海に呑(の)みこまれてしまいました。それが3番の歌です。
「二つにわれた 海のそこ/雲とほのおに 守られて/したがい進む モーセさん」
エジプトの追跡を逃れたモーセたちは、約束の地・カナンヘの最短距離である海沿いの道を選ばずに、シナイ半島を奥へ奥へと進んでいきました。それというのも海沿いの道にはエジプトの砦がいくつもあって、そこを進むとすぐに捕らえられてしまうからです。そこでわざわざ南に向かう遠回りの道を選び、一年にも及んだ苦しいその旅の末にやっとたどり着いたのが、シナイ山のふもとでした。
モーセは、神様の声を聞くために一人でその山に登って行きました。神様はイスラエルの人々がエジプトを出てから今まで守り導いてくださいましたが、これからも同じように導いてあげようと思って、いろいろな約束をモーセに伝えました。モーセは神様のみ言葉を分かりやすく人々に伝え、人々もそれを実行しようと思いました。その約束の中でも一番大切なものが、十戒(じゅっかい)という約束でした。それが歌の4番です。
「シナイの山で 神さまに/十のいましめ いただいて/つたえた人は モーセさん」
この約束が、昔のイスラエルの人々のためばかりでなく、今のわたしたちにとっても、とても大切な約束になりました。
■『未知との遭遇』がシナイ山のお話?
さて、スティーブン・スピルバーグという人が監督をして作った映画に、『未知との遭遇(そうぐう)』(1977年)というヒット作があります。これを、ほとんどの人は「異星人と人類の接触(せっしょく)を描いた」「心温まるSFファンタジー」と言って、そこに聖書の物語が隠されていることに気づく人はほとんどいません。でも、本当はこの映画、モーセがシナイ山で神様と遭遇するという聖書の物語そのものです。
インディアナ州の小さな町に住む電気技師(ぎし)のロイは、ある晩、空のまばゆい光を目撃(もくげき)してからというもの、それに取りつかれたようになってしまいます。そのため、会社は首になり、妻や子どもにも愛想(あいそ)をつかされ、逃げられてしまいます。それでも彼の心には、不思議な山のイメージが沸き起こってしかたありません。そんなころ、ワイオミング州のデビルズ・マウンテンという山では毒ガスが発生したというので、住民たちが強制避難(きょうせいひなん)させられていました。不思議な光と山の正体を追っていたロイはついにこの山へたどり着きます。
とうとう探していた山を見つけて、その頂(いただ)きに登ったロイ。映画のクライマックスは、彼の眼の前に降りてきた巨大な宇宙船が、人類と交流を始めるラストの20分間です。
山は厚い雲に覆われ、稲妻がピカピカと放電(ほうでん)を繰り返して、ふもとの住人を寄せつけません。そんな中に赤くまばゆい光を放つ宇宙船が、山を振動させ、雲に包まれて天からゆっくりと降りてきました。山頂の科学者たちは懸命(けんめい)に送信器のキーを叩(たた)いて交信を試(こころ)み、そしてついにそれに応(こた)えて、宇宙船からはヴォー、ヴォーという、低く巨大な角笛(つのぶえ)のような音が流れ出します。とうとう人類と異星人とは、互いに意思を通いあわせ、語り合うことに成功したのです。
この場面、モーセがシナイ山の頂きに登って、ついに神様と語り合ったという、今日の出来事にそっくりです。
「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。……シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた」(19:16-19)
ロイの頭の中にあった、ずっと草木もない赤茶けた岩山のイメージ、その不思議な山が、アメリカの中西部の平原にそびえ立つ山だったというわけですが、この山の格好、モーセが神様に出会ったという伝説のシナイ山にそっくりです。
(ここで映画をご覧いただきましょう。)
どうでしたか?面白いシーンがもっとたくさんあります。ぜひ一度、ゆっくりと見てください。
■神様の約束
シナイでの出来事って何だったのでしょうか。ひと言で言えば、神様がイスラエルの民と契約(けいやく)―「十戒」を結んでくださった、ということです。
でも、神様がわたしたち人間と契約を結ぶのって、何だか変だなって思われませんでしたか。だって神様はこの世界をつくり、わたしたちにいのちを与えてくださった方です。そんな神様と人間が対等であるはずがありません。だから神様との契約も、人間どうしの契約のように対等の立場で交渉して結ぶようなものではないはずです。わたしたち人間の方から契約を持ちかけるとか、条件を示すなんてことはあり得ません。
そうです。この神様との契約は、神様が恵みによって、ただ一方的に与えてくださったものでした。恵みの契約です。それは、神様がわたしたちをご自分の民にしてくださって、ご自分をあなたたちの神だよって言ってくださって、だから、いつもあなたたちと一緒にいるよ、どんなときもあなたたちを守り支えるよ、って約束してくださったということでした。だから、わたしたちも何があっても大丈夫。神様の愛と恵み、導きと祝福を信じて、どんな時にも希望を持って自分の道を歩いていきましょうね。
メッセージ「神の御前に近づく」(おとな)
■宇宙船が降り立った「モーセの山」
「そんな強引な!モーセだのシナイ山だのって、そんなの深読みし過ぎだ!」と、まだ疑う方もきっといるでしょう。そんな人は映画の初めの方、ロイと子どもたちが居間でテレビを見ている場面を、もう一度ご覧になってください。そこでさりげなくテレビに映っているのは、『十戒』の映画。母親が「テレビなんか消して早く寝なさい、その映画は4時間も続くのよ」と小言をいうと、父親のロイが「あと5分だけ見せてやりなさい」と、子どもたちに助け舟をだしています。そして紅海が真二つに割れたシーンを一緒に観るのですが、実はこのとき、ロイはモーセのようになる自分を知らず知らずのうちに意識し始めていたのかもしれません。
そんなふうにこの作品を改めて観てみると、聖書の舞台の中東の荒野を想わせる、風の吹きすさぶ砂漠の冒頭シーンから、最後に宇宙船が降り立つのを目撃して、「ああ、神よ!」と叫ぶ人々の姿まで、まさに聖書そのものです。十二人がデビルズ・タワーの麓に集ってくるのも、モーセに導かれたイスラエル十二部族のこと。光でロイの顔が赤く日焼けするのも、神に出会ったモーセの顔が不思議に輝いていた、という聖書の記事をベースにしています。
もう一つ。今日のスクリーンに写っているローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会にあるミケランジェロの有名なモーセ像をよくご覧ください。筋骨たくましく、とても老人とは思えない風貌ですが、十戒の石板を携えて遠くを凝視するモーセ像の頭に、二本の角が突き出ています。聖書の挿絵によく出てくるドレの絵にもある、この角はいったい何でしょう。
タネを明かせば、これは聖書の読み違いのせいです。中世ヨーロッパで広く使われたのは、ウルガータというラテン語聖書。モーセは山から下ってきたとき、すっかり感激して「顔の肌が光を放って」いました(出34:29-30)。ところが、その個所をギリシア語からラテン語に翻訳していた人が、うっかりと「角をもった顔」と訳してしまったから大変です。それ以来、モーセの頭には角が二本、生え出ることになりました。
『未知との遭遇』で、UFOの光をあびたロイが、妻から「すっかり日焼けした顔をして」とあきれられますが、この日焼けこそ、モーセが神と出会った後、顔が輝いていたというさきほどの聖書個所からのもので、ロイはこの映画で、モーセをあらわしているようです。
■契約の目的
さて19章5~6節に、神がイスラエルの民と契約を結んでくださった、その目的が示されています。5節に「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである」とあります。「契約」という言葉が、ここで初めて出てきます。神とイスラエルとの特別な関係の、一方の当事者であるイスラエルは、この関係を維持するためにしっかりとした道を歩んでいかなければなりません。「契約」は、当事者双方による合意であり、互いに合意している契約内容に基づいて生活することです。この時、イスラエルはその契約内容―十戒のことをまだ知りませんが、その合意の骨組みとなる契約の本質を、神はここで説明しています。
その本質とは、神とイスラエルの間の合意としての契約を取り決めるのは「神である」ということです。もちろん、契約の有効性は互いがその条件にふさわしく忠誠を尽くすことにかかっています。しかし勘違いしてはならないのは、この契約は、神が恵みによって与えてくださったものである、ということす。イスラエルの民が神に聞き従う、清く正しい信仰深い民だから与えられたのではありません。イスラエルの民に神の民となるに相応しい資格があったとは、聖書のどこにも語られていません。むしろ、その逆です。『未知との遭遇』で巨大な宇宙船を前にした人々のように、神の御前に近づくとき、わたしたちは畏れ慄くほかないものです。しかし神はそんなわたしたちを憐れんでくださるのです。神は、彼らがエジプトで奴隷とされ苦しめられているのを見て、憐れに思い、ただ恵みのみ心によってモーセを遣わし、エジプトから脱出させてここまで導いて来てくださり、契約を結んでくださったのです。
イスラエルの民に求められているのは、神が恵みによって与えてくださった契約の言葉、約束の言葉をしっかりと聞き、そのみ言葉に従って自分たちも契約を結び、その約束をしっかり守ることです。そうすることによって、イスラエルは神の宝の民となることができるのです。
では、神の宝の民となるとはどういうことでしょうか。6節がそのことを語っています。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」とあります。神の宝である民とは、祭司の王国、聖なる国民です。祭司というのは、神と人々との間に立ってとりなしをし、人々が神とよい交わりを持って生きることができるようにする人です。その祭司は聖なる者でなければなりません。聖書において聖なる者というのは、清く正しい人ということではなく、神によって選ばれ、召され、神のものとされている人ということです。神のものこそが聖なるものなのであって、人間の基準や感覚で聖なるものとは何かを決めることはできません。神が選び、ご自分のものとすることによって聖なる者とされた人が、人々と神の間のとりなしをする祭司となるのです。神に捉えられ、神を信じる者がすべて祭司―「万人祭司」です。
では、誰のための祭司となるのでしょうか。それは、「すべて」の人のためです。イスラエルが、神との契約によって神の民とされるというのは、すべての人のためにとりなしをし、彼らが神とよい関係を持って生きることができるために奉仕する、祭司としての務めを果すためなのです。そういう務めを果すことにおいて、イスラエルは神の宝の民となるのです。
ですから、神がイスラエルの民と契約を結び、彼らと特別の関係を結んでくださるとか、イスラエルが神の宝物となるということを、イスラエルの人々だけが神の救いの恵みにあずかり、他の人たちは滅ぼされるとか、放っておかれるという意味に取ることは間違いです。神が契約によってご自分の民を興し、その民を用いて救いのみ業を行なってくださるのは、良い人も悪い人も、例外なくどんな人も、すべての人のためなのです。選ばれた民、神の民は、自分たちが救われるために選ばれただけでなく、他の人々が神の救いにあずかるために奉仕し、そのことを願っておられる神のみ心を行うために選ばれたのです。
わたしたちのだれもが、そのような神の民、聖なる国民、祭司とされていることを祝福として受け止め、感謝と喜びをもって、これからもご一緒に神の愛を、福音を証していきたいと願う次第です。