福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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3月10日 ≪受難節第4主日/招待礼拝≫『差し出された神の国』 マルコによる福音書 10章 13~16節 沖村 裕史 牧師

3月10日 ≪受難節第4主日/招待礼拝≫『差し出された神の国』 マルコによる福音書 10章 13~16節 沖村 裕史 牧師

■人々の願い

 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った」

 この時の状況について、こう説明されることがあります。

 「イエスに触れていただくため」とは、最後16節に「手を置いて祝福された」とあるから、イエスさまに祝福していただくためだったのだろう。イエスさまに触れていただいて、平穏無事に元気に良い子に育つよう祝福していただくために、親たちが愛するわが子を連れてきたのだ。それは、親としてのごく自然な、またほほえましい姿ではないか、と。

 しかし、今ここに幼な子たちを連れて来たのは不特定多数の「人々」で、それが親であるとは限りません。「連れて来る」というギリシア語も、抱いたり、背負ったりして、「そちらへと運ぶ」といったニュアンスの言葉です。親子が七五三の宮参りよろしく、手をつないで仲良くやってきたというのではありません。人々は抱き抱えるようにして、背負うようにして、子どもたちを連れて来たのです。

 8章31節以降、繰り返される受難予告の中、子どもが登場するのは、これで三度目です。ここに登場する子どもたちが皆、同じ状況にあったとは言えないまでも、当時の子どもたちが置かれている状況は、わたしたちが日頃、目にしているものとはおよそ異なるものでした。頻発する飢饉や災害、止むことのない戦争や紛争、蔓延する病気や貧困によって社会が混乱する中、最初に被害をこうむるのは決まって子どもたちでした。地域や時期によっては、大人になるまで親が生きていることなどほとんどありえないことでした。多くの孤児が残されました。彼らは、社会の中で最も弱く、傷つきやすい、その代表的な存在です。今、ここに連れてこられた子どもたちがそういう孤児であったということは、十分にあり得ることです。

 旧約聖書は、孤児(みなしご)や寡婦(やもめ)、また寄留者と呼ばれる外国人たちを、社会全体で保護するようにと繰り返し説いています。古代社会では、家族の生存は父親の双肩にかかっていて、父親が死別した家庭は、生きる手だてをなくしたも同然でした。彼らは共同体の支援を必要としていました。そのとき、聖書が求める援助は、倫理に基づく施しでも、政治が目指す目標でもありません。それは神が与えてくださっている、愛と恵みへの応答―信仰に基づくものでした。

 イエスさまは手をさし伸べて、重い皮膚病の人に「触れて」清くし、舌に「触れて」そのもつれを取り除き、目に「触れて」見えるようにし、切り落とされた耳に「触れて」癒し、手に「触れて」熱を去らせました。また、病気に悩む人がイエスさまに「触れよう」として押しかけ、イエスさまの服の房に「触れて」いやされました。そして今、飢えや病や戦いに深く傷つき、生きることもままならない子どもたちを、親ではなく「人々」が抱きかかえるようにして連れ来たのではなかったでしょうか。ここに記される「人々」は、神の愛と恵みへの応答として、まさに信仰に基づいて、そして何よりも具体的で、切実な愛の思いをもって、イエスさまに「触れて」いただくことで、この子どもたちを癒し、困窮から救いたい、ただ、そう願ったのではなかったでしょうか。

 

■弟子たちの罪

 ところが、弟子たちはそんな人々を叱り、追い返そうとします。理不尽とも思える弟子たちの態度にも、しかし理由がありました。

 直前10章の1節、イエスさま一行は、それまでいたガリラヤ地方を後に、南へと移動を始めます。目的地はエルサレムです。次の11章でイエスさまは、そのエルサレムに入られます。入られたわずか一週間の内に、イエスさまは捕えられ、十字架につけられて殺されます。そう、エルサレムへの旅はまさに、十字架の苦しみと死への歩みでした。イエスさまは十字架をはっきりと自覚し、そのことを繰り返し弟子たちに告げられますが、彼らにはその意味がよく分かりません。ただ、イエスさまがこれから緊迫した大事な場面を迎えようとしておられる、そのためにエルサレムへと向かっておられるのだろうということは薄々感じていたはずです。

 今、大事な時を迎えようとしておられる。そんな時に余計な負担はおかけしたくない。それでなくても、病気を癒していただこうとたくさんの人々が押しかけて来たり、時には敵意を胸にファリサイ派の人々がやって来ては、罠を仕掛けようと議論を吹っ掛けてくる。この上、子どもたちにまで纏(まと)わりつかれたら、疲れ果ておしまいになるだろう。弟子たちはそんな配慮、気配りをしているだけで、人々を叱りつけ妨げたのもそれなりの理由のあることでした。

 しかし、これまでのイエスさまと弟子たちのやり取りを振り返るとき、イエスさまへの配慮、気配りであるかのように見えるその叱責と妨害の中に、拭おうとして拭い切れない弟子たちの罪が見えてきます。そもそもそれがイエスさまへの配慮と気配りであったのなら、弟子たちは決して叱ったり妨げたりはしなかったはずです。なぜなら、直前9章37節でイエスさまは子どもを抱き上げて、「このような子供の一人を受け入れなさい」と教え、続く39節ではわたしの名を使って奇跡を行う者を「妨げてはならない」と諭されていたからです。

 そう教えられていたはずの弟子たちの心の中にあったものは、子どもへの祝福を求めてやって来る人々に対する「批判と優越感」でした。人々は、イエスさまの都合など考えずにやって来て、祝福と癒しだけを求め、それを受けると元通りの自分中心の生活へと帰って行くだけではないか。人々は、イエスさまに従って生きようとか、自分の生活や財産を投げ打ってイエスさまの弟子となり、従って行こうなどとはこれっぽっちも考えていない。ただイエスさまを利用しようとしているだけではないか。それは、イエスさまの名によって勝手に奇跡を行うだけで、従おうとしない者たちと同じではないか、という批判です。

 そしてそこに潜んでいる思いは、自分たちはこれまですべてを捨ててイエスさまに従ってきた、いろいろな苦しみを負いながら弟子として歩んできた、このわたしたちこそが…という優越感です。誰が一番偉いかを議論していた弟子たちの姿(9:34)が重なります。わたしたちは、自分の幸せだけを求めて、神を、イエスさまを利用しようとするだけのこの連中とは違う、だから彼らを叱り、追い返す権利がわたしたちにはある、そう考えていたのでしょう。

 

■祝福の言葉

 そんな弟子たちへの、イエスさまの怒りは大きなものでした。

 「これを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」

 「憤る」とは、「非常に」と、「悲しんでいる、怒っている」または「我慢できない」という言葉が一つにされた、激しい怒りを表す言葉です。子どもたちを連れて来た人々を叱った弟子たちを見て、イエスさまは非常に悲しい、とても我慢などできない、と激しく怒られます。

 そして、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と言われます。弟子たちは連れて来た「人々」を問題とし、彼らを叱り妨げたのですが、今、イエスさまが問題としているのは、意外にも、激しいまでの怒りを向けられた「弟子たち」ではなく、「子供たち」です。イエスさまが、来るままにさせ、受け入れるようにと命じておられるのは、子どもたちを連れ来た人々ではなく、苦しみ、傷ついているであろう、その子どもたちです。イエスさまの眼差しが子どもたちに向けられ、イエスさまの手は真っすぐに子どもたちに向けて差し出されます。

 その子どもたちを来るままにさせなさい、妨げてはならないと教え諭され、さらに続けて、その理由を14節後半と15節に記される、ふたつの言葉によって明らかにされます。

 ひとつ目の理由は、「神の国はこのような者たちのものであるからだ」というものです。この文体と言葉は、マタイ福音書に記される、あの山上の説教の「幸いなのは…(である)、なぜなら、天の国(=神の国)はこのような者たちのものであるからだ」という言葉と全く同じものです。この言葉がそのまま、神の国が与えられることを約束する祝福の言葉となっています。

 神の国、それはイエスさまの福音の中心でした。イエスさまはこれまでずっと、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語り続けてこられました。神の国とは神の支配という意味です。神が恵みをもってわたしたちを支配してくださっている、神の支配が実現しようとしている、神の愛の御手が今ここに差し出されている、ということでした。

 イエスさまがなさった数々の癒しの奇跡は、その福音、Good Newsを証しするものでした。イエスさまは神の国を人々に示し、それにあずからせるためにこの世に来られたのでした。その神の国、神の愛と恵みと救いにあずかることができるのは、自分こそ第一の者だと誇る弟子たちではなく、このような者たちだ、この子どもたちのような者たちに、神の国はもたらされ、神の愛は差し出されている、そう言われます。

 

■ただ受けるだけ

 そして「アーメン、あなたがたに言う、子供のように神の国を受け取らないなら、その人は決してその中に入って行くことはない」という二つ目の言葉によって、わたしたちが神の国にあずかるためには、「子どもたちのように神の国を受け取らな」ければならない、と教えられます。

 「子どもたちのように」とは、どういうことでしょうか。子どものように、純真で汚れを知らない、ということでしょうか。そうではないでしょう。この子どもたちは孤児です。敗戦後の浮浪児や貧しい国のストリートチルドレンのように、通りかがりの人に施しを乞うたり、売春をしたり、時には窃盗や詐欺まがいの不当な手段によって手に入れたものを売ったりして、その日その日のいのちの糧を稼いでいた孤児であったかもしれません。仮にそうでなかったとしても、そもそも聖書には、子どもは純真で、汚れを知らない存在だという考え方はありませんし、そしてそれは事実です。

 子どもは純真で、穢れないと思われる人は、一週間、乳飲み子の面倒を見てくださればわかるはずです。自分の欲求のままに、泣きわめく乳児の姿は、わたしたちの罪の姿そのものです。今日、子どもたちの間で起っている陰湿ないじめの問題一つを取っても、そこに大人たちの影響がないとは言いませんが、本質的には、それは子どもたち自身の罪ゆえです。子どもたちに罪や汚れなどないというのは、大人の勝手な願望、幻想に過ぎません。その意味で、イエスさまが「神の国はこのような者たちのものである」と言われるのも、決して子どもを理想化してのことではありません。

 子どもたちが神の国の祝福にあずかることができるのは、「神の国を受け入れる」、ただその一点においでです。イエスさまは今、純真で汚れを知らない子どもたちではなく、神の国を受け入れる者としての子どもたちを見つめ、手を差し伸べておられます。

 この「神の国を受け入れる」という言葉もまた誤解してはなりません。イエスさまが見つめておられる子どもたちは、イエスさまが教え示される神の国を、あれこれ理屈を言って疑ったりケチをつけたりせず、言われた通りに信じ受け入れる、素直な子どもたちだった、ということではありません。子どもが素直に何でも言うことを聞くのなら、親は誰も苦労しないでしょう。「子供のように神の国を受け入れる」とは、子どもたちの持っている素直さという長所、良い所を見ての話ではありません。

 「受け入れる」という言葉に注目ください。もともとのギリシア語は、「開かれた手を差し伸べる」ことを表します。「受け入れる」とはこの場合、積極的な行為として語られているのではなく、与えられたものをただ受けるという、受動的なこととして語られています。

 この子どもたちは人々に連れて来られた者でした。彼らが自分の意志でイエスさまのもとに来たのではありません。自分でイエスさまからの祝福を願い求めているのでもなければ、イエスさまが宣べ伝えておられた神の国を、神の愛を信じて、イエスさまのもとに来ているのでもありません。彼らは人々によって連れて来られるままに、イエスさまのもとに来たに過ぎません。ただ招かれたということです。そしてイエスさまが受け入れ、祝福してくださるなら、彼らは祝福を受けるし、そうでないなら、祝福を受けずに帰るだけのことです。彼らは、イエスさまの祝福を全く受動的に、ただ受けるだけの存在です。

 自分は良い行いをしています、正しさ、立派さを持っています、これだけのものを神に捧げ、奉仕しています、だから祝福してください、などと要求することはないし、そんな商取引のようなことは考えていません。子どもというのは神に対して、交換条件と言うか、自分はこれだけのことをしている、だからという主張をすることが全くできない者、ただ神にすべてを委ね、信頼し、神の恵みをいただくしかない者だということです。

 イエスさまは、そのような子どもたちをこそ喜んで迎え入れてくださり、彼らを抱き上げ、手を置いて祝福してくださったのです。

 

■神に委ねて、ゆっくりと

 最後に、「子どもたちのように」からの連想、谷川俊太郎の「急ぐ」という詩をご紹介させていただきます。

  こんなに急いでいいのだろうか/

  田植えをする人々の上を時速200キロで通りすぎ、/

  わたしには彼らの手が見えない/

  心を思いやる暇がない/この速度は早すぎて間が抜けている/

  苦しみも怒りも不公平も絶望も/すべて流れて行く風景/

  こんなに急いでいいのだろうか/

  私の体は速達小包/私の心は消印された切手/しかもなお間にあわない/

  急いでも急いでも間にあわない

 子どもたちをみていると、子どもというのはいつものんびりしていて、すぐ道草をしたり、立ち止まったり、引き返したり、大人から見れば意味のない遊びをしたりします。ある人は、それが子どものすばらしさだと言います。大人は自分の目的を立てて、その目的まで最短距離で行こうと考えます。道草をしたり、立ち止まったりせず、できるだけ早く目的地にたどり着こうとします。 そして、その目的から外れることはよくないことだと考えます。そういう大人は、子どもにも「早く、早く」とつい言ってしまいます。

 「サルカニ合戦」で、カニが柿の種を植えた後に歌を歌います。「早く芽を出せ、柿の種、出さぬと土をほじくるぞ」「早く木になれ柿の種、ならぬとはさみでちょんぎるぞ」「はやく実がなれ柿の種、ならぬとはさみでちょんぎるぞ」。とても嫌な感じの歌です。しかし、この歌を子どもに歌ってしまうのが大人であり、教育であるようにも思えてきます。そうして、早く大きく、より多くを求める中で、人を蹴落とし、自然を壊し、自分のいのちをも追いつめてしまっているのが、今のわたしたちではないでしょうか。

 草も木も動物も、人間が願うほど早くは成長してくれません。自然の浄化力は、人間によるCO2排出や汚染に追いつけません。神が創造された自然は、ゆっくりです。わたしたちも「子どものように」、愛と恵みを今ここに差し出してくださっている神にすべてを委ねて、ゆっくり、のんびりを大切にしたいものです。