福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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3月13日 ≪受難節第2主日礼拝≫ 『主人はどうするだろうか?』マタイによる福音書21章33〜46節 沖村裕史 牧師

3月13日 ≪受難節第2主日礼拝≫ 『主人はどうするだろうか?』マタイによる福音書21章33〜46節 沖村裕史 牧師

■すべてを整えて

 「もう一つのたとえを聞きなさい」

 「ダビデの子にホサナ」と叫ぶ人込みの中を、ロバに乗って入城したイエスさまは、そのまま神殿の境内に入ると、「祈りの家…を強盗の巣にしている」と怒りもあらわに、売り買いをしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返します。その翌朝、再び神殿に戻って来られたイエスさまが人々に教え始めると、その様子を見ていた祭司長たちや民の長老たちが近づき、罪に陥れ、殺そうとの意図をもって、「何の権威でこのようなことをしているのか」と尋問します。緊迫したそのやり取りの中、イエスさまは、前回の「二人の息子のたとえ」を語り、そして今日も、「もう一つのたとえ」として「ぶどう園と農夫のたとえ」を続けます。その冒頭、

 「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」

 「ある家の主人」とは、ぶどう園の主人、農園の地主であり経営者のことです。当時、パレスチナに農園を所有していた地主の多くは、その地方の情勢が不穏であったことから、自分の土地を人に貸して、自身は他の土地に行って暮らし、そこから時々出てきては地代を集めていたようです。この主人もそんな地主の一人だったのでしょう。そしてイエスさまは、その主人が「ぶどう園を作った」と語るだけでなく、「垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」と事細かく語ります。

 当時のぶどう園では、ぶどうの実そのものを出荷するのではなく、収穫されたぶどうからぶどう酒を造っていました。「搾り場」とはそのための施設です。岩を削って作るか、れんがを重ねて作った細長い二つの桶のような形のもので、一方は高く、もう一方は低くし、両方を繋いで、高い方でぶどうを搾るとその汁が低い方に流れてたまる仕掛けになっていました。茨の垣根や見張りのやぐらは、盗賊や畑を食い荒らす動物たちからぶどうを守るためのものです。ちなみにやぐらは、農園で働く人たちの宿泊施設にもなっていたようです。

 つまりこの主人は、十分な設備投資を行い、必要なもの「すべてを整えた」上で、農園を農夫たちに貸した後、旅に出たのです。後は実りを待てばよい。実りが約束をされたぶどう園を預けました。きちんと仕事をしさえすれば、収穫があがり、彼らの生活がこのぶどう園によって支えられ、主人にその取り分を支払うこともできる。そこまでして、主人は「収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った」のでした。

 創世記の冒頭を思い出します。神様は造られたひとつひとつをご覧になって、そのすべてを「良し」とされた、「よい」と宣言されたとあります。そしてわたしたち人間を造られるときには、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」(1:26)と言われました。十分に豊かな実りを結ぶよう、神様がすべてを、本当に必要なものをすべて整えて、わたしたちに預けてくださったのです。たとえに出てくる農夫たちと同じです。

 神様がわたしたちに預けてくださったこの世界、わたしたちの人生は、決して不毛なものではありません。わたしたちはときに、宗教とか信仰というものは、「わたしたちが生きているこの世の生活が不毛で、実りのないものだから、この世を捨てて別の世界に移って生きなさい」と教えるものだ。そう考えるかもしれません。しかしそれは全くの誤解です。

わたしたちの誰もが、神様から与えられたいのちを、人生を生かされ生きています。自分のものだと思っているものの中で、自分一人で造り出したと断言できるものなど何ひとつありません。わたしたちのいのちも、家族や友人も、学校や職場も、信仰も教会も、みんなそうです。与えられたとしか言いようのないものです。神様が与え、神様が預けてくださっているのです。

 とすれば、わたしたちのいのち、存在、人生が、初めから干からびた不毛の野として、神様から与えられているはずはありません。聖書によれば、「神様が与えてくださったこのいのちゆえに、わたしたちを愛してくださっているのです」。それが、わたしたちが今ここに在ることの、生きていることのただ一つの根拠です。そのために神様は必要なもの「すべてを備えて」くださっているのです。

 

■神なきが如くに

 ところが農夫たちは、主人が「収穫を受け取るために…送った…この僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺し」てしまいます。主人にとっては思いもしない屈辱的な対応です。主人をないがしろにし、あたかも自分が主人であるかのような農夫たちの振る舞いです。それでも、主人である神様は僕たちを送り続けます。しかし農夫たちは、その僕たちも同じ目に遭わせます。旧約の歴史に現れた、数多くの預言者の受難と重なってきます。しかしそこにこそ、農夫たちとの関係の回復を、回心を、悔い改めをどこまでも願い続ける、愚かしいまでの神様の愛が示されます。

 行き着くところにまで行き着いたかのように見えたそのとき、この主人は、尋常ならざる決断を下します。

 「そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った」

 文頭に「最後に」という言葉が置かれています。「自分の息子」とは神の独り子のことです。父なる神からの「最後」の派遣。御子イエスが、この世に、わたしたちのところに来られたということは、そういうことでした。

 もう後はありません。

 主人は、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と、最後の望みをかけます。「敬う」とは、「向きを変える、回心する、恥じ入る、そして敬う」という意味の言葉です。直訳すれば、「わたしの息子を前にして、彼らは敬意を抱き、恥じ入り、回心するだろう」です。逆らい続ける人々が、本来の関係に立ち返ることを、悔い改め、回心するようにとの、最後の、極限までの父なる神の愛が、ここに示されます。

 ところが農夫たちは、「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」と相談し、その息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまいます。

 このたとえは、祭司長や民の長老たち、あるいはファリサイ派と言ったユダヤ教の指導者たちに向って語られています。これは明らかに、御子イエスが、ユダヤ教の指導者たちによって、エルサレムからほうり出され、ゴルゴの丘で十字架に架けられ、殺されてしまうことを指し示しています。

 農園を自分たちのものとするために、神様の言葉を黙殺し、だから、その子まで殺す。もはや農夫たちは、「遠くにいる」主人の存在に何の遠慮もしません。主人の愛も、その存在さえも全く忘れ去られている、と言ってよいほどです。

 神なきが如くです。

 

■隅の親石

 たとえを語り終えたイエスさまは今、ユダヤ教の指導者たちに問いを投げかけ、たとえの結末を彼らに考えさせようとします。

 「さて、このぶどう園の主人はどうするだろうか」

 農夫たちは、主人の愛する息子も殺し、主人の恵み、愛の語りかけを徹底的に拒絶しました。もはや関係を回復する道は閉ざされたように見えます。

 そう問われた祭司長たちは、「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」と答えます。すべてを備えられ与えられているわたしたちが、神なきが如くに生きるとすれば、それが何をもたらすのか。決定的な裁き、滅びだ、ということです。

 まるで他人事のような答えですが、それでも、最後の43節から44節のイエスさまの言葉に、彼らは愕然とします。

 「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」

 この言葉を聞いた彼らは、自分たちが答えたその結末がそのまま自分たちに向けられていることに気が付きます。では、それで悔い改めたかといえば、皮肉なことにこのたとえの通りになります。主人である、父なる神の独り子、イエスさまを捕らえ、殺すことへと一気に向かっていきます。その結末が十字架でした。

 この世界という「ぶどう園」で、わたしたちもまた彼らと同じように、「主人」であるかのように振舞ってはいないでしょうか。限りなく自己中心、神なきが如くに生きてはいないでしょうか。

 この裁きの言葉に、震えるほどの恐れを抱くとき、イエスさまがこのたとえにつけ加えられた42節以下の言葉が、わたしたちを光のうちに照らしだしてくれます。

 「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える』」

 これは、詩編118篇22節、23節からの引用です。

 詩編118篇は、神の救いの恵みを感謝し、ほめたたえる歌です。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」という言葉が最初にあります。「慈しみはとこしえに」が何度も繰り返されています。

 「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた」

 「激しく攻められて倒れそうになったわたしを、主は助けてくださった」

 「主はわたしを厳しく懲らしめられたが、死に渡すことはなさらなかった」

 神様の救いの恵みが繰り返し語られています。そして18節では「主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった」と、自分の犯した罪に対して主は厳しい懲らしめをお与えになったけれども、それでもなおわたしを滅ぼしてしまわれるのではなく、救ってくださったと告白します。神様が、人間の罪にもかかわらず救いを与えてくださる、その恵みが歌われていく中に、この詩編の言葉があるのです。

 家を建てる者、建築の専門家が、これは使いものにならないと退け、捨てた石が「隅の親石」、これはこれまでしばしば言われてきたような建物を支える土台の石というのではなく、屋根のアーチの頂点に置かれて建物全体を安定させ、完成させる石のことですが、その建物の中で最も大切な石になったと言います。神様の救いとは、そのように、人間の目には不思議な、驚くべき仕方で与えられるものである、この言葉はそう教えています。

 イエスさまがこの詩編の言葉をここに引用されたのは、たとえにあるように、イエスさまご自身が、農夫たちによってぶどう園の外にほうり出されて殺される、つまり十字架につけられて殺される、そのことを通して、神様の救いが実現していく、そのことを示すためです。イエスさまは、祭司長たちに拒絶され、捨てられて十字架にかけられ、最も惨めな姿で殺されました。しかし、棄てられた石のごとき、あの十字架の死によって神様は、わたしたちのための救いの道を開いてくださったのです。

 

■十字架からの救い

 今日の言葉を読んでいて、こんな話を思い出しました。

 役員として長年にわたって教会を支えてくださった、一人の男性がいました。彼には、大きな目に見える「傷」がありました。16歳のとき、国鉄(今のJR)に勤務中の事故で両腕を失ったのです。彼は、自らの体験を教会学校や地域の学校で繰り返し語りました。静かに聞き入る子どもたちは、興味津々にその傷跡を見つめ、やがてその体に触れていきます。彼は倦むことなく「傷」を通して、イエスさまと出会った物語を語り続けました。そして、多くの子どもたちはいつしか笑顔になり、一緒に喜んで家路につくことになりました。

 「傷」を暴くことがよいと言うのではありません。しかし「傷跡」を示せない喜びなどあるのでしょうか。御子イエスの「釘跡」が示せない十字架と復活がないように、です。

 今も「ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」と問われているわたしたちが、このたとえから聞き取るべきことは何でしょう。それは、わたしたちにいのちを与え、いろいろな実りを生むことができるように人生を整え導いてくださる神様が、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」という驚くべき信頼と、独り子のいのちをも与えてくださる愚かなほどの限りない愛と忍耐とをもって、今もここでわたしたちに語りかけ、良い交わりを結ぼうとしてくださっているのだ、ということです。

 この神様の語りかけに耳を開き、応えていくことが、わたしたちの信仰です。その信仰によって、神様が備え与えてくださったこの人生というぶどう園で、神様の栄光を表す良い実を結んでいくことができるのです。感謝です。