福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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3月15日説教抜粋 『顔を洗って』 マタイによる福音書6章16~18節 沖村 裕史 牧師

3月15日説教抜粋 『顔を洗って』 マタイによる福音書6章16~18節 沖村 裕史 牧師

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」。「偽善者」。身がすくむような言葉ですが、イエスの言われる「偽善」とは何でしょう。辞書に偽善とは「本心からではなく見せかけにする善い事」とあります。「見せかけにする善い事」。悪いことをすると言うのではありません。「偽善」の問題は「見せかけ」です。人は誰でも見た目に弱いものです。見せかけで人を欺くこともできます。しかし神を見せかけで欺くことはできるでしょうか。人間が見せかけの蔭に隠した本心を見抜くものこそ神です。それなのに、それができると思って偽善的に振る舞うとすれば、それは神を見せかけでだませると見誤っている、神を信じていないのと同じです。イエスの言われる「偽善」とは、人が人を見せかけでだましていることではなく、人が神を見せかけで騙している「不信仰」のことです。偽善者たちの内に「神は生きていない」。彼らは口を開けば神ですが、見せかけの信仰で神を欺いているのです。

しかしイエスは人の目など気にするなと言われているのではありません。人を人として意識した時、何かしら緊張と恥じらいを感じ、それを周囲の目として意識するのは自然なこと、人間として大切なことです。問題は、人を見ているのは、その周囲の目だけではないということです。もう一つの目、すなわち神の目も人を見ているということです。そして神の目に見つめられていることに気づかされる時、人は自分の小ささ、弱さ、愚かさを示され、のさばっていた自我が打ちのめされ、人としての貧しさに恥じ入り、へりくだりに導かれ、心を開いて、天からのものに満たされることを切に祈る者とされます。

それこそが、悔い改めとしてのまことの断食の姿です。断食は苦しみや悲しみの表現であると同時に、悔い改め、神への方向転換のしるしでした。神の御前に今までの自分の生き方が間違っていたと認めるなら、ただ口先だけでそれまでの自分の生き方の過ちを認めるのではなく、食事も喉を通らないほどの激しい悔い改めこそがふさわしい。そう考えられました。そのことは、洗礼者ヨハネが悔い改めのしるしである洗礼を授けた時、形ばかりの悔い改めを口にする者たちに向かって「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と語った言葉からも窺い知ることができます。

イエスも、その洗礼者ヨハネの下で悔い改めの洗礼を受けられました。しかし、洗礼者ヨハネとは違って断食をするように教えられることはありませんでした。イエスの信仰は断食の中にではなく、イエスのつくられた食卓の中にありました。イエスは頻繁に徴税人や売春婦など罪人と共に食卓を囲まれました。これを見た洗礼者ヨハネの弟子たちがイエスに尋ねます。「私たちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。イエスは答えられます。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」イエスにとって悔い改めは喜びでした。

なぜか。悔い改めは、私たちが神に向きを変える前に、神が私たちにみ顔を向けてくださることによって、つまり神の赦しから生まれるからです。イエスは言われます。神をアッパ父と呼びなさい。その父の前で言葉を重ねて弁解などしなくてもよい。父はどんなときにもあなたに御顔を向けられておられる。神に生きようとしない偽善者のように、髪振り乱し、悲しい顔をする必要などない。頭に油をつけ、顔を洗いなさい。あなたは私の喜びの宴の客だ。そう言われるのです。頭に油をつけ、顔を洗う、それは宴に出で行く者の晴れ姿です。断食が喜びの祝宴に変えられるのです。キリストにおいて、この世に来られた神が私たちに代わって高い代価を支払ってくださったのです。だからこそ、私たちは喜びます。私たちは顔を洗って出直すことができるのです。