福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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3月19日 ≪受難節第4主日/春の「家族」礼拝≫『おくりもの』『もう与えられている』ルカによる福音書20章9~19節 沖村裕史 牧師

3月19日 ≪受難節第4主日/春の「家族」礼拝≫『おくりもの』『もう与えられている』ルカによる福音書20章9~19節 沖村裕史 牧師

 

お話(こども・おとな)

 せんしゅう、雨が降りました。ひさしぶりの雨で、春一番の風の冷たさが身にしみました。それでも、つぎの日の朝には雨もあがり、その寒さがぬるんでくるようでした。冬の終わりが、春がもうそこまで来ていることを、わたしたちに教えてくれるようです。

 「恵(めぐ)みをくださり、天(てん)からの雨を降らせて実(みの)りの季節(きせつ)を与(あた)え、食物(たべもの)を施(ほどこ)して、あなたがたの心を喜びで満(み)たしてくださっているのです」(使徒言行録14:17)

 パウロという人が言っている通り、神様(かみさま)はこの世界(せかい)に雨を降らせ、太陽(たいよう)を昇(のぼ)らせて、いのちを与えてくださったすべてのものに愛(あい)を注(そそ)いでくださいます。神様は、限(かぎ)りない愛をもって、わたしたちに必要(ひつよう)なものを与え、備(そな)えてくださるお方(かた)なのです。この世界は、そんな神様からのおくりもの、プレゼントでいっぱいです。

 きょうは、神様が与えてくださっている、そんなおくりものについてお話するために、ちょっぴり悲(かな)しい、でも、こころ温(あたた)まる、いっさつの絵本をお読みしてみたいと思います。

①『おくりもの』 公文(くもん)みどり

②これは みけちゃん/私の だいじなともだち

ふさふさの毛が 三色だったから

おかあさんが みけちゃんって/つけたの

③みけちゃん おぼえてる?

みけちゃんが はじめて/うちにやってきたときのこと

まだ ちいさな赤ちゃんだったね

④みけちゃん おぼえてる?

みけちゃんに はじめて/レタスあげたときのこと

ももいろのおくちを もぐもぐさせて

ずいぶん かわいらしかったね/

それからみけちゃん

そのとき私 ごはんたべられなかったね

だいすきだったりんごも たべなかったね

⑤みけちゃん おぼえてる?

みけちゃんよく ひなたぼっこしてたこと

かごのすみで まあるくなって/

私 よくみていたよ

学校にも いかれなくなっちゃったから

⑦ねえ みけちゃん

気がついたら私は たべることも/なくことも わらうことも

わすれてしまっていたね

⑧(まっ黒)

⑨だけど ある晩

私は ないたね

本当は こわくって さびしくって/たまらなかったから

からだじゅうでないた/ないて ないて/

なきつづけた/

みけちゃん/あのときもいっしょだったね

⑩なきつかれてねむった/ながい夜

⑪その夜が

ゆっくり ゆっくり/あけていって

⑫あさがきた

まぶしくて あたたかな/あさ/

そう

あさがきたんだね/みけちゃん

私 ちゃんとおぼえてるよ

⑬それからもっと/窓の下で いっしょに

ひなたぼっこできるように/なったこと

そのときふいてた 風のにおいや/おひさまのことも

はんぶんこしてたべた/りんごのことも

みけちゃんがおしえてくれた/ひとつ ひとつを/

私 ちゃんとおぼえてるよ

⑭そして またゆっくりゆっくり じかんがながれて

みけちゃんがおばあちゃんに なっていったことも

ひざのうえで まるまっていたちいさなおしり

⑮みけちゃん

みけちゃんはさいごにもうひとつ 私におしえてくれたね

それは どうしようもないことがあるっていうこと

だけどそれは けっして悲しいことじゃないよって

きっとだいじょうぶだよって

しろい ちいさなはなになりながら

⑯みけちゃん

ずっとずっと まっていてくれたんだね

ずっとずっと そばで

私ね もうだいじょうぶ

また わらえるよ わらえるよ

ありがとう みけちゃん

 この絵本は、高校生(こうこうせい)のときに入院(にゅういん)したことがきっかけで切り絵を始めた人が、じぶんの体験(たいけん)をもとにつくったものです。だれにもわかってもらえず、ひとりで苦しんでいた女の子が、いっしょに生きてくれたちいさなモルモット、みけちゃんのことを思い出しています。いちばんつらいときにそばにいてくれた、たったひとりのともだちのことを、しみじみとなつかしみながら振(ふ)り返っています。

 なかほどに、まっ黒な世界が出てきます。みなさんは、このまっ黒なページになにを感じたでしょうか。これは、この女の子の苦しみや悲しみをあらわしています。だれにもわかってもらえない女の子の、こころの世界です。そして、まわりで女の子のことを何とかして救(すく)いたいと願(ねが)っている人たちは、そんなじぶんたちの思いが女のことに届(とど)かず、また女の子の気持ちがわからないじれったさの中で、ただ祈(いの)り続けるしかありませんでした。そんなまっ黒な世界が、何年も続きました。

 けれどある晩、女の子ははじめて、じぶんから声をあげて泣きました。まるで赤ちゃんのように、お母さんに抱きつき、からだじゅうで泣きました。本当はこわくて、さびしくって、たまらなかった、女の子の思いがあふれ出ました。そのときにも、みけちゃんは、じっとかごの中にいてくれました。

 女の子は少しずつ元気になっていきました。そうなれたのは、なぜだと思いますか。それは、みけちゃんがいつもそばにいてくれたからです。小さいけれど、やさしいみけちゃんがいてくれたことで、女の子のこころのいちばん深いところに、だいじょうぶという確かな思いが生まれました。

 この絵本をつくった女の人は、それを「おくりもの」だと言います。おくりもの。そう、だれにも、そんなおくりものが与えられています。神様からのおくりもの、いのちというおくりもの、そのいのちを生かされているというおくりもの。神様は、どんなときにもわたしたちのことを愛して、大切にしてくださっています。わたしたちにとってほんとうに必要なものを、いつも与え、備えてくださっています。だから、だいじょうぶ。神様にありがとうと言いながら、安心して、今日からの一週間を始めましょうね。

 

メッセージ(おとな)

■限りない愛をもって、与え備えてくださる

 イエスさまのたとえはこう語り始めます。

 「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」

 ここに出てくる農夫たちはわたしたちのこと、ぶどう園の主人は神様です。そして、ぶどう園はわたしたちの生きる場所、働く所、置かれている場です。つまりこのたとえ話は、神様を信じるわたしたちが神様の備えてくださったぶどう園で、どのように生きるのか、そのことを教えようとするものです。

 初めに、ぶどう園の主人のお話をいたしましょう。

 大金持ちや地主は、雇った農夫たちに土地を貸し、賃貸料で豊かな生活をしていました。しかしそのぶどう園を貸す前に、所有者である主人は十二分な準備をしなければなりません。ルカ福音書には、ただ「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し」とあるだけですが、同じたとえを記すマルコ福音書には、「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」(12:1)と丁寧に書かれています。

 ぶどう園造りは簡単な仕事ではありません。

 パレスチナはチグリス・ユーフラテス川の上流にあたります。その辺りは肥沃な三角地帯と言われ、水さえあれば豊かな土地ですが、畑にすることもできないほど、たくさんの石があるところです。根を張るのに邪魔になる大きな石だけを取り除くのですが、それだけでもたいへんです。次に取り除いた石を利用して壁をつくり、隣地との境にします。作られた垣根は境界になるだけでなく、野生動物による被害を防ぐ柵にもなります。さらに、人が柵の上から入って来ないよう、茨のような棘のある植物を垣の上にはわせます。機械のない時代に、これだけでも重労働です。さらに続いて、見張りのための「やぐらを立て」、ぶどうを搾るための「酒ぶねの穴」をつくります。やぐらのすぐ傍に穴を掘るのですが、ただ土を掘るというのではなく、大きな硬い花崗岩をくり貫いてつくらなければなれません。そんな準備をしてからぶどうの苗を植えるのですが、収穫できるようになるまでには、三年も四年もかかります。ぶどう園の主人はそのすべてを整え、苗まで植え終えた後、漸くのこと農夫たちに任せて旅に出たのでした。

 ここでまず、お話しをしておきたいことは、生きる場や生活の場を与えくださる神様とはどのようなお方なのか、ということです。聖書は繰返し、神様はいのちを与えてくださったわたしたちを愛し、必要なものすべてを与えてくださるお方である、と語ります。

 

■信頼し、自由を与え、忍耐してくださる

 それだけではありません。「任せて旅に出た」とあるように、農夫たちを信頼しています。主人は収穫の時まで、何も言ってきませんでした。

 神様はわたしたちに導きを与える方です。モーセに十戒を与え、人殺しや姦淫をしてはいけない、嘘をついてはいけない、両親を敬いなさいとお命じになられました。そうすることで本当に幸せになれるよ、と十戒を与えてくださったのです。火の柱や雲の柱をもって導きを与えてくださったこともあります。しかもそのようなときには必ず、自由をも与えてくださいました。

 不思議に思われるかもしれません。戒めと導きを与えながら、一方で自由を与えてくださるのです。エデンの園でも、木の実は食べてもよいが、一つだけは食べてはいけないと言われました。自由を与え、信頼し、多くのものを託してくださいます。その上で、それを用いるのは、あなた自身だと言われるのです。わたしたちは神様の操り人形ではないということです。

 そして何よりも、このぶどう園の主人である神様は、忍耐の神でした。

 収穫時になったので約束の賃貸料を納めてほしいと、僕(しもべ)を遣わしました。ところが、農夫たちはその僕を袋叩きにします。二人目も袋叩きにし、侮辱を与えました。三番目の僕には傷まで負わせています。やむなく主人は、四度目、自分の息子を派遣しました。ところが、農夫たちはその息子まで殺してしまいます。普通でしたら、最後の僕が傷を負わされたところで、それなりの準備もし、大きな権力、武力をもって農夫に迫ったに違いありません。しかし、そうはされませんでした。まさに忍耐の方です。

十戒を授ける前、神様は、イスラエルの人々に「宝の民」「祭司の国民」「きよい民」と呼びかけ、神の祝福がイスラエルの民を通して、すべての人々に救いが及ぶように、と願われました。ところが、その宝の民は傲慢な独りよがりの民になりました。神様はきよい民になるようにと期待されましたが、イスラエルの民は何度も何度も、裏切り、罪を犯しました。それでもなお、神様はこの民を愛し続けられ、導かれました。

 神様が、愛の神であり、すべてを与え備えてくださる神であり、わたしたちを信頼して任せてくださる自由の神であり、豊かな稔りをもたらすよう辛抱強く待ち続ける忍耐の神であることを、このたとえは教えてくれています。

 これほどの神様の愛と恵みの中で生きることをゆるされている人生は、幸いです。たとえどんな困難にあったとしても、「生きていてよかった」と言える人生を送ることができることでしょう。

 

■愛を忘れて、殺す

 ところが、農夫たちは主人の言葉を無視し、拒み続けました。耳を傾けようとさえしません。たとえ、あなたから与えられたものではあっても、その後、苦労をしてぶどうの木を育て、ぶどうの実を稔らせたのは、わたしたち。あなたではありません。それを今さら、というわけです。

 「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』」

 わたしたち人間は「自分のもの」という意識を、何歳ごろから持ち始めるのでしょうか。赤ちゃんのときは「自分」という意識も「自分の」という所有感覚もないのですから、「自分のもの」という思いもなかったはずです。何も持たず、しかしすべてがある世界。もはや記憶にはありませんが、それは間違いなく幸福な楽園だったはずです。ベッドもタオルも、ミルクもおもちゃも、すべてちゃんと用意してあって、独占欲もなければ、失う恐れもありません。両親から、いのち―自分という存在を与えられ、必要な環境を整えられて、根源的な充足感を味わっていたのです。

 ところが、赤ちゃんであってもいつしか所有ということを覚え、あれも欲しいこれも欲しい、もっと欲しいという所有欲がふくらんできます。当然それは、奪われたくない、失いたくないという恐れを生み出し、手にしたものを取り上げられれば、火が付いたように泣きだします。幼稚園に入るころには自分のものに自分の名前を書くように教えられ、小学校に上がるころには他人のものをうらやみだし、中学生や高校生になって、自分は何のとりえもない、何も持っていないなどと思い始めるころ、悪魔がやって来て、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、耳元でささやきます、「わたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と。

 そんな欲望という名の悪魔を拝んで苦しんでいるのが、現代社会の実態ではないでしょうか。蜃気楼のような繁栄の幻影に目をくらまされて欲望の悪魔を拝み、すべてを得ているようでいて、何ひとつ満ち足りていない社会。あらゆる情報、あらゆる刺激、あらゆる快楽に満ちあふれているようでいて、苦しみばかりが増していく社会。それこそ、自分のものにしたいという欲望と、自分のものにできないという不満に満ち満ちた、失楽園の姿です。

 イエスさまの語るぶどう園は、すべて主人がつくったものです。垣を巡らし搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てたのは主人です。すべては主人のものであり、その収穫も主人のものです。農夫たちはぶどう園を貸し与えられているにすぎません。そもそも、雇ってもらい、すべてを貸し与えられ、収穫の一部を分けてもらえる喜びは、すべて主人の温情によるのであって、ひたすらその主人に仕えていれば、何の不足もないはずです。

 そんなあたりまえのことが分からなくなるほどに、人の目をくらませる所有欲。だれの心にもひそむ魔物です。この世界も、自分の体も才能も、家族や友人やさまざまな出会いも、実はすべて神様から貸し与えられているに過ぎないにもかかわらず、いつしか返すことを忘れて、自分のものにしようとします。魔物にとりつかれた農夫は言います。

 「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」

 なんという貪欲でしょう。「たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得」もないのに(ルカ9:25)。イエスさまの語られた別のたとえによれば、これだけ所有すれば安泰だと自らに言い聞かせる金持ちに向かって、神様はこう言われました、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)と。

 

■それでもなお、与えられる

 その農夫にくだされたのは、裁きと救いでした。

 裁きとは、「戻って来て、この農夫たちを殺し」ということです。滅びです。それは、神様から与えられたいのちを損なうこと、神様から与えられた自由を失うこと、神様から与えられた恵みを無にすることでした。

 しかし救いは、たとえイスラエルの人々に与えられていた救いの恵みが無にされてもなお、神様のあふれる恵みは、すべての人々に与えられるのだ、そうイエスさまは言われます。

 「『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった』」

 詩編のことばです。人は家を造る時、土台となる石を置きます。それが「隅の親石」です。神様は、捨てられた石であるイエスさまを土台として、新しい家を建ててくださる、というのです。

 神様が、あふれるほどの愛のお方、必要なものをすべて備え与えてくださるお方である、ということを踏まえれば、この「捨てられた石」―自分を誇ることも、自分こそとうぬぼれることもできない、抑圧され、苦しみにあえぎ、悲しみに沈み、自分を愛することもできないでいる、いわば捨てられたような人をこそ、神様は、隅の親石―最も大切なものとしてくださるのだ、と言われるのです。

 わたしたちは自分たちの苦しみや悲しみから、欲望や罪から、どうすれば自由になれるのでしょうか。

 そのためには、イエスさまが教え示してくださった楽園に帰るほかに手立てはないでしょう。親がすべてを整えて、すべてを与えてくれた、あの故郷の楽園へ、です。そこには、真の満足、永遠の安らぎがあったはずです。その楽園にすべての人を帰還させるためにこそ、神様は独り子を与えてくださったのでした。愚かなわたしたちをそれでもなお、深く愛し、ついに最愛の息子のいのちまでも与えてくださったのです。そこまでされて、わたしたちはようやく気づきます。すべてはもう、与えられている、と。

 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:8)

 「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」(ルカ15:31)

 神様の愛によって、わたしたちは、どれほどの困難、どれほどの試練、どれほどの悲しみの中にあっても、たとえ「捨てられた石」のようであっても、恵みの中に生きることをゆるされています。このかけがえのない日々を感謝しつつ、生涯を全うすることができるのです。心からの感謝をもって神様の愛に信頼しつつ、受難から復活への日々を皆様とご一緒に歩んで行きたい、そう祈り願わずにはおれません。