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3月20日 ≪受難節第3主日礼拝≫ 『婚宴の礼服』マタイによる福音書22章1〜14節 沖村裕史 牧師

3月20日 ≪受難節第3主日礼拝≫ 『婚宴の礼服』マタイによる福音書22章1〜14節 沖村裕史 牧師

■十字架のたとえ

 都エルサレムに入城されたイエスさまは、「何の権威でこのようなことをしているのか」と詰め寄った祭司長や民の長老たちに向って、「『二人の息子』のたとえ」「『ぶどう園と農夫』のたとえ」に続いて、3つ目の「『婚宴』のたとえ」を語り始められます。

 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」

 イエスさまが教えられた「天の国」とは、死んだ後に行く場所というよりも、「悔い改めよ。天の国は近づいた」とあるように、もうすでに訪れている王なる神様の支配、今ここにもたらされている神様の愛の御手を意味します。その天の国は、王子の結婚のために王国が開く祝宴のようなものだ、とイエスさまは言われます。

 この「婚宴」という言葉は複数形です。当時のユダヤでは、婚宴が一週間も続いていたからです。その準備は大変です。そこで、招待する人々にはあらかじめ招待状を出しておき、いよいよ婚宴の会場や食事の準備がすべて整ったところで改めて、「準備ができましたので、さあ、どうぞおいでください」と呼びに行かせた、と言います。

 このたとえでも、王は家来に、「牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています」と言わせています。婚宴の様子が目に浮かぶようです。しかも、これは王子のための婚宴です。一生に一度あるかどうかのことです。どんなに豪華なものか計り知れません。これを断ることなどとてもあるはずがないように思われるのに、それが起こったと言います。

 誰も「来ようとしなかった」。

 家来たちの招き方に問題があったと考えたのでしょうか。王はわざわざ、招くときの言葉まで伝えた上で、もう一度、別の家来を遣します。王の熱い思いが伝わって来るようです。しかし結果は同じ。招かれたはずの人は誰一人やって来ません。どうしてか。招かれた人は何を考えていたのでしょうか。

 「人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」

 自分たちの都合を優先したのです。仕事をしたほうが得だと考えました。そればかりか、王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺す人までいました。

 人々は王が送った家来の話を聞いたはずです。家来たちは王の熱い思いを知っていましたから、心を込めて丁寧に、「すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」と王から聞いた言葉のままを「王からの声」として伝えたはずです。

 しかしそれを「うるさい」と感じたのです。煩わしく、耳障り、いい迷惑だと感じたのでしょう。「さあ、婚宴においでください」というその声を消すために、声を発する家来を捕まえ、殺してしまいました。

 それこそ、イエス・キリストの十字架でした。

 なぜ、イエスさまは殺されたのか。それは、イエスさまが「さあ、婚宴においでください」という神様の招きを伝えたからです。神様の言葉をそのままに語ったからです。神様の言葉は、わたしたちを救いに導く「よき知らせ」、福音のはずです。招かれた側はその招きに応じて、「本当にありがとうございます」と知らせてくれた方の手を握り、心からの感謝をもって応えてもいいはずです。しかし、そうはしませんでした。

 なぜか。招きに応じれば、自分の都合を脇に置かなければならないからです。自分の思いのままに生きる、その生き方を変えなければならないからです。それで、その声が聞こえないよう、その声を無視し、その声を伝える者を殺したのです。

 

■すべての人を招かれる

 さて、王はどうしたでしょうか。

 「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」

 「ぶどう園と農夫」のたとえが思い出されます。しかし、「ぶどう園と農夫」のたとえと今日のたとえには決定的に違っているところがあります。ここでたとえ話が終わっていないことです。今日のたとえには続きがあるのです。

 「そして家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい』」

 最初に招待された人々は招きに応じてやって来ようとしません。しかし婚宴の準備は万端整っています。そこで、王はどうしたか。何と、家来たちに「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じるのです。

 「町の大通り」という言葉を、新共同訳の一つ前の共同訳聖書は「四つ辻」と訳しています。「境目」「ボーダー」のことです。エルサレムという都の境目、もっと言えばユダヤの人々が住んでいる地域と、その外に生きる異邦人、神様を信じていない人々が住んでいる地域との境目を意味する言葉です。その場所に立って婚宴に招くようにと命じます。それも「見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」というのですから、いわば「片っ端から誰でもいい。連れて来なさい」ということです。

 ユダヤ人居住区と異邦人居住区の境に立って、「だれでも婚宴に連れて来なさい」ということは、それまでユダヤ人、神の民に限定されていた神様の招きがすべての人々に及ぶようになったということです。しかも「だれでも…連れて来なさい」とあります。善人も悪人も誰もが招かれたということです。善人と悪人の区別すらありません。

 イエスさまは、山上の説教で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(5:44-45)と教えてくださいました。また、「毒麦のたとえ」では、畑に毒麦が生えてきたのを見つけた僕たちが主人に「『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい…』」(13:28-30)と言われました。

 ユダヤ人と異邦人、神様を信じている人とそうでない人の区別なく、善人と悪人の区別もなしに、すべての人が婚宴に招かれたのです。人間が自分と他人との間に線を引いてつくり出す、様々な区別や差別、境目や隔てのすべてを取り除き、神様はすべての人を愛し、天の国、救いへと招いてくださっている、イエスさまはそう宣言されます。

 

■ふさわしい礼服

 すべての人が招かれている。その招きに応えた人々で「婚宴は…いっぱいにな」りました。天の国は、ユダヤ人以外の異邦人も、罪人も、体の不自由な人も、貧しい者も皆が囲む、喜びに満ち溢れた神の祝宴そのものでした。

 しかし、それで終わりではありません。その喜びの席に、王が姿を現します。招かれた人々はすべて、王の、神のみ前に立つことになります。このたとえのクライマックスです。

 そこに、礼服を着ていない者が一人いました。およそ場所柄をわきまえない者と言えるでしょう。礼服を着ないで婚宴に出席することは、王や王子に対する侮辱を意味します。その人を見つけた王様は、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と質問し、さらに側近の者たちに命じて、その手足を縛って外に追い出してしまいます。

 しかしこれは、いかにも理不尽な仕打ちに思えます。大通りを歩いていた者の、一体、だれが王のみ前に出るのにふさわしい礼服をもっていたというのでしょうか。

 実は旧約聖書に、王宮に招かれた者には王から晴れ着が与えられる習慣があったことが記されています。たとえば、ヨセフがエジプトの王ファラオの前に出た時、またヤコブの子どもたちがエジプトでヨセフの前に出た時、その他、多くの記事がそのことを示しています。当時、権力のある者が人を招待するとき、招いた客のために礼服まで用意したようです。

 とすれば、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」との問いかけは、「あなたのためにわたしが用意した礼服をどこにやったのか。どうして婚礼にふさわしい礼服を着ないのか」といった問いかけであったと考えられるのです。

 事実、彼が「黙って」いたところをみると、そして、怒られたのが彼一人であるところをみると、非は彼にあったようです。何が悪かったのでしょう。

 招かれて有難迷惑な人もいたでしょう。予定を変更せねばならないので困った人もいたでしょう。体調すぐれず早く帰りたいと思った人もいたかもしれません。しかし、とにかく招かれたのです。そして、婚宴の場に入ったのです。もはやそこで、自分の都合を数え上げ、呟き続けるのは失礼というものでしょう。いろいろな都合はあるとしても、席に座った以上は、「おめでとう」という気持ちで列席するのが礼儀です。つまり、思いがけないその招きをしっかり受け止めて、その席にいる限りは、その喜びに参加すべきです。

 言い換えれば、今ここにもたらされている祝宴、天の国の祝福を受け入れ、その場にふさわしくあろうとすることです。それが礼儀です。礼服を着るとはそのことです。招かれていながら心そこにあらずということほど非礼なことはありません。彼の非はそこにありました。

 

■招かれて生きる

 最初のたとえ、「『二人の息子』のたとえ」が思い出されます。

 二人の息子がいました。父親が兄に「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言うと、「いやです」と答えます。それでも兄は、「後で考え直して」ぶどう園に行きました。父親は弟のところへも行き、同じことを言います。すると「お父さん、承知しました」と素直に答えましたが、そう言っただけでぶどう園に行かなかった、というたとえ話です。このたとえに続いて、イエスさまから「どちらが父親の望みどおりにしたか」と尋ねられた人々は「兄の方です」と答えています。最初「いやです」と答え、後から考え直した兄の態度が「父親の望みどおり」であったということです。神様の望まれることは「後で考え直す」こと、謙虚に悔い改めることでした。

 「婚宴のたとえ」の礼服を着ない人の姿と重なってきます。招かれて神様のみ前に進み出る時、わたしたちの側で用意できる礼服は一着もありません。わたしたちは通りすがりに招かれた者のように、わたしの側に「ふさわしい」ものなど何ひとつありません。そんなふさわしくない、何ひとつ持たないわたしたちに求められていることは、ただひとつです。思いがけない招きに応えることです。招かれた最高の祝宴にふさわしく、思い直して、悔い改めてその恵みを受け入れ、感謝と喜びに参列すること、それだけです。それが礼拝を着るということでした。

 この晴れ着を着ていない一人に王が呼びかけている「友よ」という言葉は、イエスさまが裏切ったユダにゲッセマネの園で、「友よ、しようとしていることをするがよい」(26:50)と呼びかけたのと同じ言葉です。ユダもまた、用意された晴れ着を身につけようとしなかった一人だったということでしょうか。

 晴れ着を拒否した者の運命は惨めです。マタイは審判の厳しさを伝えていますが、それは、そうはなって欲しくないというイエスさまのみ心を語るためです。最後の「招かれる人は多いが選ばれる人は少ない」という言葉からは、そうあって欲しくないという気持ちをこそ汲みとるべきです。

 「選ばれる人は少ない」という言葉を読んで、「どうせ自分などはだめな人間なのだし、結局はキリスト教とは無縁な人間なのだ」と考えるとすれば、とんでもない間違いです。誰も先回りして神様の立場、キリストの立場に立ってそのように考えることは許されません。ここでイエスさまがそう言われているのは、手遅れにならないためであり、そうなって欲しくないからなのです。

 人生には思いもかけないことが起こって予定が狂わされるということがよくあります。そういうとき、わたしたちはそれを思いがけなく歩かせられる脇道のように考え、後悔し、そこを歩むことに気を入れようとしないものです。しかし、いつまでもつぶやきつつ生きるのは、人生をわきまえない非礼です。人生とは、本来、招かれてあるものだからです。

 人生の主人は自分ではありません。思いがけないことに出会って、そこに招きがあることを知って、招いておられる真の主人を仰いで生きてこその人生です。わたしたちは招かれて生きています。心をこめて今を生きたいものです。