福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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3月21日 ≪受難節第5主日礼拝≫ 『天の国の秘密』マタイによる福音書13章10~23節 沖村裕史 牧師

3月21日 ≪受難節第5主日礼拝≫ 『天の国の秘密』マタイによる福音書13章10~23節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏     おお人よ、汝の罪の大いなるを泣け(W.ヘンニヒ)
讃美歌     14 (1,3節)
招 詞     イザヤ書 60章1~2節
信仰告白     使徒信条
讃美歌     300 (1,3節)
祈 祷
聖 書     マタイによる福音書13章10~23節 (新24p.)
讃美歌     199 (1,4節)
説 教     「天の国の秘密」 沖村 裕史
祈 祷
献 金     65-1
主の祈り
報 告
讃美歌     453 (1,3節)
祝 祷
後 奏     主をほめたたえよ (高浪晋一)

 

≪説 教≫

■許されていない

 直前9節、「種を蒔く人のたとえ」の最後に、イエスさまはこう言われました。

 「耳のある者は聞きなさい」

 聞く耳を持たない者は聞く必要はない、いや聞いても分かるまい。冷たく突き放されたような気分にさせられる言葉です。

 弟子たちはいぶかり、驚きます。

 せっかくたくさんの人々がイエスさまの言葉を聞こうとして集まってきているのに、なぜそんなことを言われるのか、イエスさまらしくもない。イエスさまは一体何をおっしゃりたいのだろうか。

 そこで、「弟子たちはイエスに近寄って、『なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか』」と尋ねます。

 すると、イエスさまは、わたしは今、「天の国の秘密」について語っているのだ、と言われます。先週申し上げたように、「たとえ」と訳されるパラボレーは、ヘブライ語のマーシャルに当たります。「謎」「秘儀」という意味の言葉です。つまり、天の国を「たとえ」で語るということは、天の国の「秘密」を語るということです。

 そして、天の国とは一体どのようなものなのか、弟子であるあなたたちは悟ることができる、そのことが許されている、と言われます。

 悟るとは、ただ頭の中で知的に理解するということではありません。それは、心の中にしっかりと根付くことによって、生活そのものに実りを生じさせることです。平和の祈りでよく知られているアッシジのフランチェスコは、「人間というものは、具体的に実行することだけを、本当に知っているといえるのである」と言っています。それが悟るということです。

 悔い改め、信じて従うあなたたちはそのことを悟るようになる。ところが、

 「あの人たちには許されていない…だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」

 そうイエスは言われます。驚きと疑問は、深まるばかりです。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と告げられたイエスさまが、神の愛の御手が今ここにもたらされていることを知らせる福音そのものである「天の国」のことを、人々にはっきりと語ろうとされないのは、なぜなのか。なぜ、そのことを「あの人たち」―「大勢の群衆」には、ことさらに隠すようなことを言われるのか。

 

■苦渋の跡

 イエスさまを敵視し、殺意まで抱くようになったファリサイ派の人々とは違って、今ここに集まっている「あの人たち」は、イエスさまが語られる福音の言葉を聞くためにやって来ていた「大勢の群衆」です。「種まきのたとえ」は、その群衆の期待に応えるために、誰にでも分かるように身近な例にたとえて、やさしく教え諭すように語られたはずです。わずかばかりの弟子と、それ以外の人とを初めから区別して、外部の者には目潰しを喰わせるかのように「たとえ」を語られたとは、どうしても考えられません。

 このことを理解するためのヒントは、「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」という、イザヤ書6章から引用された一句にあります。

 イザヤは神からの召しを受けたとき、思いもかけない命令を受けました。

 「主は言われた。
 『行け、この民に言うがよい
 よく聞け、しかし理解するな
 よく見よ、しかし悟るな、と。
 この民の心をかたくなにし
 耳を鈍く、目を暗くせよ。
 目で見ることなく、耳で聞くことなく
 その心で理解することなく
 悔い改めていやされることのないために。』」(イザヤ6:9-10)

 イザヤは、イスラエルの民に悔い改めを求めるために、預言者として遣わされました。しかし、人々はこれを拒み、心を頑なにして、彼の言葉を受け入れないだろう、と言われます。神はそういう事態を、あらかじめ見通しておられました。そこで、イザヤが預言を始めるにあたって、そのことを覚悟しておくようにと、この言葉を告げられたのでした。

 イザヤの言葉が、人々を悔い改めに導くことができないとしても、それはイザヤの宣教に誤りがあるためではない。むしろ人々がそれに反抗し、それをのっぴきならないものとするためにこそ、イザヤは遣わされるのであって、その躓きを通してこそ、神の審きは貫徹される、と言うのです。

 この厳粛な宣言は、嵐のようなイスラエルの民の抵抗に、イザヤが最後まで持ち堪(こた)えるための、力強い支えとなったに違いありません。イザヤは、成果を全く度外視して、ただひたすら忠実に、示される神の御言葉を宣べ伝える決意を、この宣言によって固くされたに違いありません。

 このイザヤの姿こそ、イエスさまの生涯に重なり合うものでした。イエスさまの福音宣教の働きもまた、ついには挫折のうちに終り、十字架の死をもって、地上での歩みを閉じられることになりました。イザヤとイエスさまのこの一致の中に、福音とはどのようなものなのか、その本質を見出すことができはしないでしょうか。

 思えば、ローマでパウロが自らの宣教を締めくくるときにも、このイザヤの言葉を引用しています。使徒言行録28章24節以下です。

 「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。
 「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。
 『この民のところへ行って言え。
 あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
 見るには見るが、決して認めない。
 この民の心は鈍り、
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、
 心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』」(28:24-27)

 イエスさまの御言葉と御業、その福音の本質に対する深い洞察が、ここに示されています。「天の国」「神の国」の福音は、わたしたち人間の理解を越える深い秘義なのです。であればこそ、人々の無理解、人々による頑強な抵抗に遭うことは、むしろ福音の本質に則していることだと言えるでしょう。

 マルコやルカは「他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」と記しています。相手が理解できないようにするために、意図的に謎を語ったということですが、これはイザヤが直面した人々の「無理解」とは少しズレています。これに対してマタイは、「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」と、人々が理解することができないこと、その無理解をはっきりと記しています。

 マタイは、このたとえの内容を本当に悟ることができなかった「大勢の群衆」の、そして自らの頑なさ、愚かさ、罪を赤裸々に告白し、イエスさまを十字架に架けることとなった、その苦渋の跡を書き留めているのだ、と言ってよいでしょう。

 

■幸いだ

 とすれば、イエスさまが、この「種まきのたとえ」によって語ろうとされたのは、人間の無理解と神の裁きだけなのでしようか。そうではありません。

 イエスさまのなさった癒しの業や招きと教えにもかかわらず、その生涯は十字架上の死に終わってしまいました。蒔き続けてきた種は、みな奪い去られ、枯れてしまったのです。しかしこうなることをイエスさまはすでに見通しておられました。そしてその決定的とも思える挫折の中から、神は、復活という思いもよらない方法で、すべてを勝利に変えられました。ご覧なさい、今、復活を通して、かつて蒔かれた種は、文字どおり三十倍、六十倍、そして百倍もの実を結ぶに至ったではないか。神の勝利、神の支配の到来、天の国とは、こういう現実なのだ。この真理を人々に説き明かそうとするとき、イエスさまには、このたとえによって語る外に道がなかったのでしょう。

 来るべき十字架の死と復活こそ、この「種まきのたとえ」が示そうとしている「天の国の秘密」、神の支配の奥義だとすれば、それは、イエスさまその人の秘義にほかなりません。イエスさまにおいて、どのようにして驚くべき天の国の秘密が示され、天の国が現実のものとなったのか。あなたたちが、これを見、これを聞き取ることができるとは、何と大きな祝福だろう。

 「だから」と18節以下に続きます。

 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」と。

 イエスさまは、御言葉を種にたとえられます。種はとても小さなものです。その小さな種から美しい花が咲き実もなります。種だけを見たときに、そうした花や実は想像もできないでしょう。しかし実際に、種には花を咲かせ実を稔らせる可能性といのちとが備わっています。そのように御言葉には力があります。

 ただ、種ですから、いのちを宿す種が芽生えるためには、また種の持つ可能性と力が生かされるためには、その種がまかれた土地の状態が問題となります。まずは実際に芽を出すことができるか。芽が出たとしても順調に育つのか。育った後、稔るのか。さらにその実りはどれだけのものなのか。その一つひとつのことが、イエスさまのたとえによれば、種が蒔かれた土地によって大きく違ってくるのだ、と言われます。

 ここに取り上げられる一番目から三番目までの種は、良くない土地に蒔かれて、実りを付けることができません。聖書によれば、本来、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きると言われている人間が、そのいのちの言葉をくださる神から離れてしまったためだ、と言われます。

 御言葉である種をしっかりと受け止めることが出来ない場合、どうなるかと言えば、結局、御言葉以外の別の何かをもって自分を満たそうという行動に出ます。物で、心を満たそうと思ったり、周囲の人に、わたしの心のニーズを満たしてもらおうとしたりします。しかし現実は、わたしが助けを求めるその人自身も、神様から離れ、本当の満足を味わっていなければ、その人の内にも満たされるべきニーズが存在するでしょう。そのため、場合によっては互いに利用し合う、共依存関係になることもあります。

 これに対して、イエスさまは言われます。

 「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」

 イエスさまは御言葉を聞いて悟ることの大切さを、ここでも繰り返されます。御言葉を聞いて悟るとは、その言葉に捕えられてしまうということではないだろうか、と言った人がいます。聞いた言葉がその人の内で、何か決定的な関わりを持ち始めるということです。

 いかがでしょう。同じような経験をしても、ある人は何も感じず、ある人はそこに神が生きて働いておられることを受け止める、ということがあります。絨毯を、裏側からいくら眺めてみても、その絨毯に描かれている模様は見えてこないでしょう。神とつながりながら、絨毯を上から見る経験をさせていただく、その時に初めて、そこに不思議な神の恵みを、わたしたちは見てとることができるのです。その時、どんな混乱の中にあっても、悟る目と悟る耳とが与えられるのではないでしょうか。その幸いこそ、16節の言葉でした。

 「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」

 

■十字架と復活

 しかし、ここでもう一つ心に留めていただきたいことがあります。

 それは、もともとのわたしたちはどうか、わたしたちはどのような土地か、ということです。

 御言葉に対して、最初から良い土地のような受けとめ方ができる人はそう多くはいないでしょう。たとえ、良い土地であったとしても、世の煩いがなくなるわけではなく、富の誘惑も日常のことでしょう。そんなとき、わたしたちはどのようにして実を結ぼうとするのでしょうか。

 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」という言葉には、訳されていませんが、「あなたがたは」と呼びかけるイエスさまの御声が記されています。どんなに悪い土地であっても、不可能を可能にしてくださるのが神です。その神が、わたしたちの心の土地を耕してくださるならば、きっと実を結ぶ。わたしたちは、そう信じることが許されているのではないでしょうか。

 この後、イエスさまが十字架にかけられた時、この場に居合わせた弟子たち、たとえの説き明かしを聞くという特権に与った弟子たちですら、それこそ一人残らず、イエスさまを見捨てて逃げてしまいました。イエスさまが、噛んで含ませるようにして、丁寧に教え、蒔かれた種は、みんな枯れてしまったのでしょうか。そうではありません。復活という思いもよらないなさり方で、死んだ種から芽を出させ、文字通り、三十倍、六十倍、百倍、いやそれ以上の実を結ばせられたのです。

 イエスさまご自身がこう言われた通りです。

 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)

 種が実を結ぶようになるために、イエスさまのいのちをかけた御言葉と御業がありました。十字架と復活があったのです。

 これこそが天の国の秘密でした。

 わたしたちもこの恵みに支えられ、良い土地であることを祈り求めていきたいと願う次第です。