■否定?肯定?
ピラトは、ローマ皇帝がユダヤに駐在させていた総督で、紀元26年から36年の間、その地位にありました。総督府が置かれていたのは、地中海沿岸のカイサリアで、彼がエルサレムの駐屯地に来ていたのは、過越の祭りの警備のためでした。ローマの支配下にあったユダヤは、政治の面でも経済の面でも司法の面でも様々な制約を受けており、死刑判決を下す権限もまた、ローマが握っていました。ユダヤの祭司長、長老たちがイエス殺害を決定しても、それを実行に移すことは許されません。そこで彼らは、エルサレムの警備に来ていたピラトに、イエスさまの死刑判決とその執行を求めて、訴え出たのでした。
訴えの内容は何も書かれていません。ただ、ピラトの質問「お前がユダヤ人の王なのか」から考えて、イエスさまがユダヤの王を自称し、反ローマ運動を指導している危険人物である、というものであったのでしょう。
そのピラトの尋問に対するイエスさまの答えは、11節、「あなたが言っている」、「それは、あなたが言っていることです」というものでした。多くの人がこの言葉を、「そう言うのはあなたであって、それはわたしの言っていることではない」と、間接的にイエスさまがピラトの言ったことを否定された言葉であると理解し、そう説明をしています。
確かにそうなのですが、このイエスさまの言い方は、そういう《間接的な否定》と言うよりも、むしろ肯定、あるいは《限定的な肯定》と言った方がよいのでないか、そう思えます。
というのは、イエスさまはピラトの言っていることを、間接的な形とはいえ、否定するのではなくて、あなたの立場から見ればそういうことになるだろうね、と限定的な形で肯定しておられると受け取った方が、イエスさまの御心により近いように思えるからです。
そもそも、権力の論理で物事を考えるのが身についているピラトに、政治犯としてイエスさまを裁いているこの法廷で、イエスさまに対するまっとうな理解を期待することなど、どだい無理な話です。ローマ皇帝の顔色を伺いながら、民衆の動向に気を配って、不安定な地位を守っている政治家ピラトの立場から言えば、イエスさまを「ユダヤ人の王」と疑って考えるのは、極めて自然なことです。
ですから、ピラトの考えを否定するよりは一応認めたうえで、しかしそれは、あなたのような立場の人が言っているだけのことだと限定しているのが、このイエスさまの「それは、あなたが言っていることです」の意味だろうと理解する方が、自然です。イエスさまは、ピラトの言葉を否定されることはなさらなかったのです。
しかし同時にイエスさまは、ただし「それは、あなたが言っていること」、つまり、政治の世界にどっぷり浸かり、そういう問題意識でしか物事を考えられないあなたの言っていること、わたしは違いますと、ピラトの言葉を限定されておられるのも確かです。
イエスさまは、ピラトのラトの理解の外に立って、そこでピラトのために、さらには、同じくイエスさまを理解できない祭司や長老、群衆のために、そして、もっと広く、そこに露わになっているすべての人々の罪のために執り成す、十字架への道を誰にも理解されないままに歩んでおられるのです。
■一人ひとりに届く温(ぬく)もり
この意味深長な返事をされた、イエスさまに温もりを感じます。
ピラトの間違った考えを彼の立場に立って、できるだけ肯定しながら、その足らざるところ、誤てるところを、身をもって執り成される、イエスさまの広い心を感じないわけにはいきません。
考えてみれば、わたしたちもまた、ピラトが政治の世界にどっぷり浸かっていたように、それぞれにどっぷり浸かった世界を生きてはいないでしょうか。どんなに冷静に、独善的にならないように注意して、客観的に考えたつもりでも、自分の性格や育った境遇、負わされている状況や自分の好悪、利害打算や世間体、そういうどっぷり浸かったものから全く離れて、物事を正確に、そのままに理解することは、互いにできないことです。
そして同じことが、信仰を、イエス・キリストを理解する場合にも言えるのではないでしょうか。例えば、クリスチャンホームに育った人と、そうでない人とでは、信仰の理解が微妙に違います。また、内省的に一人考えることに充実を感じる性格の人と、社会的に活発にする奉仕活動に充実を感じる性格の人とでも、その信仰の理解には微妙な違いがあります。信仰の理解においてわたしたちは、それぞれがどっぷり浸かっているものの影響から、完全に離れることはできません。
しかし、それら様々に異なった信仰の理解は、異なったままにみな肯定されるべきもの、ただし、本人に限定されて肯定されるべきものであって、そして、それぞれの過(あやま)てるところはすべて、イエスさまによって執り成され、生かされるものだと言えるのではないでしょうか。
ピラトの法廷でのイエスさまの一言とその後の沈黙、そこから学び示されることは、一人ひとりの境遇や立場を汲(く)んで、その人を肯定して生かす、そういう一人ひとりに届く、イエスさまの温かさ、広さです。そしてわたしは、そこから、うわべではない本当の慰めをいただいています。
■限定的な正しさ
わたしと妻は結婚して五十年近くになりますが、この間(かん)、互いの信仰について面と向かって話し合ったことはほとんどありません。違う信仰をもっていることは初めからお互い分かっていましたが、突っ込んで話題にしたことはありません。何かした拍子に、妻の信仰に触れ、こんな信じ方をしているのかと思うこともあります。その妻の信仰を好ましく思い、できることならわたしもそんな信仰を持ちたいと思うこともしばしばです。妻もまたいつの間にか、わたしに影響されてきているのかなと思うような面を感じることもあります。それでも、同じタイプの信仰をもって欲しいと思ったことは一度もありません。信仰に関しての、こういう平行線を歩むような態度がよいのかどうか、もっと真剣に話し合うべきではないのか、時々考えないわけではありません。でも、今日のこの御言葉を読んでいて、ピラトの法廷のイエスさまの一言とその後の沈黙に、わたしは慰められるような思いがします。信仰の理解が違ったままで、平行線でいいのだ、このまま共に歩めばいいのだと思えるからです。どんな信仰でも否定されることはない、肯定される、主の執り成しによって肯定されるのだ、と思えるからです。
わたしたちの信仰は、自分でどんなに正しいと思っていても、イエスさまに執り成していただかねばならない、《限定的な正しさ》しかもたないものです。傍(はた)から見ればどうかと思う信仰も、確かにあります。互いにそう思っているかも知れません。しかし、それもその人のどっぷり浸かったところで、主に執り成され、赦されているその人の信仰として、尊重し合いたいものです。
わたしたち信仰者が一番心すべきは、自分の信仰を正しいとして、人の信仰を裁くことです。これほど、「それは、あなたが言っていることです」の一言だけで沈黙されたイエスさまの御心から遠いものはない、と思われます。
よく正しい信仰を持ちなさいと言われ、ときにわたしもそう言ってしまうことがあります。しかし、そんなものを持つ必要はないし、そもそも、そんなものはないと言えるのかもしれません。みんな同じ信仰を持つ必要など全くありません。金子みすずに「みんな違ってみんないい」という一句があります。パウロはさらに続けます、「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(1コリ12:22)、違うことこそが何よりも大切なのだ、と。お互い、わたしたちはどっぷり浸かったところに足を取られながら、もがいて生きています。そういう者同士として、「みんな違ってみんないい」「違うことこそが必要だ」と自分を肯定し、人をもまた肯定して生き合って行くのが、あの十字架に示された、イエス・キリストの執り成しの恵みに生きる者の姿ではないでしょうか。もし、正しい信仰というものがあるとすれば、まさにそういうもの、主に執り成された者同士として、違ったままに生き合っていく信仰ではないのか、いえ、それしかないと思えます。
■執り成しの死
ところで、ピラトはこの後どうなったのでしょうか。死刑の判決をイエスさまに下すまでに、かなり手こずり、手間取ったようです。その経過が15節から26節に記されています。
ここを読むと、ピラトの法廷は、法廷とは名ばかりの、これがイエス・キリストの十字架を決定したとは思えない、でたらめな茶番劇です。ピラトの野心と臆病、祭司長たちの嫉妬と狡猾、群衆の無定見な野次馬根性、それらが織り成す、騒然たる雰囲気の中で、何が何やらさっぱり分からぬうちに、イエスさまの十字架は決まってしまいました。これはおかしいではないか、無茶苦茶じゃないか、異議あり、反対、と叫びたい気がします。
しかしその間(かん)、イエスさまは何も言われません。主の沈黙の中に十字架が立てられた、イエスさまが救い主であるためには、イエスさまは死ななければならなかった、そう思えてきます。それも、ただ死ねばよいというのではありません。イエスさまが病気になって死なれたのでは駄目です。交通事故で死なれても駄目。長生きされて老衰で死なれても駄目。事件に遭われて殺されたのでも駄目なら、戦死も駄目、溺死も駄目、自殺も駄目です。
イエスさまの死は、法廷で裁かれ、死刑を宣告されての死でなくてはなりませんでした。イエスさまが死なれたのは、罪人であるわたしたちが受けるべき神の裁きを代わって受けられた、執り成しの死だからです。その死は裁きの死でなければなりません。イエスさまはわたしたちに代わって、神の裁きを受けられたのです。まさに《裁かれて死ぬ死》を死んで、わたしたちが《裁かれて受けるべき死》を死んでくださったのです。
ピラトの法廷でイエスさまは沈黙を守られました。その沈黙は、イエスさまがピラトの法廷を、神の法廷と受けとめられていることの証しでした。イエスさまはピラトの法廷で、実に馬鹿らしい裁きを受けることによって、神の裁きを人に代わって受けるという、神の御心に服しておられるのです。この法廷で見落としてはならないことはその一点です。きっと、ピラトならずとも誰がやっても、その法廷は人間の罪深さ丸出しの同じような法廷になったことでしょう。ここで大切なことは、イエスさまの沈黙と、その沈黙において遂行されている、神の執り成しでした。感謝して祈ります。