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3月26日 ≪受難節第5主日礼拝≫『この人こそ、わたしの救い』マタイによる福音書27章54~56節 沖村裕史 牧師

3月26日 ≪受難節第5主日礼拝≫『この人こそ、わたしの救い』マタイによる福音書27章54~56節 沖村裕史 牧師

 

■異邦人の告白

 レントの季節、今朝も十字架の出来事がわたしたちを容赦なく巻き込んでいきます。

 ここに描かれているのは、ぞっとする、驚くほど多くの嘲笑の数々です。今、イエスさまを取り囲んでいるのは、父なる神以外には、嘲り、罵る人々ばかりではないのかとさえ思えてきます。イエスさまを歓呼して迎えたはずの人々が、最も身近にいたはずのペトロたち弟子たちでさえ、イエスさまを見捨て、一人また一人と離れ去っていきました。ここには、イエスさまが捨てられていくその様子が、沈黙をもってひとり闇の中の道を歩み続けられる孤独なイエスさまの姿だけが描き出されているかのようです。

 そんな十字架の物語が終わろうとする、その時のことでした。

 ローマの百人隊長とその部下であったと思われる兵士たちが、「本当に、この人は神の子だった」という驚きの言葉を口にします。

 「百人隊長」はローマ軍の中で将校と兵士の間で両者を結ぶ立場にある、最も重要な地位にある職業軍人でしたが、兵士たちともども傭兵である彼らは、ユダヤ人から見れば、救いの外にいる、罪人として蔑まれる「異邦人」でした。その百人隊長たちが、刑執行のため、そこにいた他の誰よりもイエスさまの間近に立って、その死に逝く様をつぶさに見ていました。

 その彼らが「地震やいろいろな出来事を見て」この告白をしたとあります。「地震やいろいろな出来事」とは、直前51節から52節の「神殿の垂れ幕が…裂け、地震が起こり、岩が裂け、…眠りについていた…者たち…が生き返った」、そのことを指しています。神の国、天の国の門が開いたかのような驚くべき異変、天変地異を前にして、彼らはこの告白をしています。

 「本当に、この人は神の子だった」

 イエスさまが神の子であることは、すでに神ご自身が「これはわたしの愛する子」と宣言され、また悪霊までもが何度も口にしていたことです。しかし、ひとりの人間が、救いの外にいると思われていた異邦人の彼らが、神の御心を担って死んでいく「この人」の中に「神の子」を見いだしていることは、驚くべきことでした。

 イエスさまを「神の子、キリストなら…」と嘲った人々と、見事な対比をなしています。イエスさまの中にキリストを見いだしていたはずの弟子たちが、受難への道を歩むイエスさまを、神の子、救い主キリストとして信じることができずに見捨て、離れ去っていったその中で、百人隊長たちだけがこの受難者の中に、神の子を見いだします。

 

■この人こそ

 とはいえ、百人隊長たちのこの告白を手放しで称賛することには、慎重でなければなりません。

 彼らのこの告白を原文の語順通りに訳すと、「本当に/この人は/神の子/であった」(Truly /this man /Son of God / was being)となります。ここで、「~ある/いる」を意味する動詞の未完了時制〔英語の“was being”〕が使われていることに注目してください。未完了時制は、過去をあらわす時制の一つの形で、過去の行為が進行中であるか、あるいは反復的な性質をもっていることを意味するときの用法です。例えば、わたしたちが運動選手の動作が継続、持続していたことを強調したいなら、ギリシア語の未完了時制を使って、「彼女は走っていました(She was running)」と言うことができます。それは、「彼女は走り続けました(She kept running)」と表現することもできますし、あるいは動作の始まりや起こり、「彼女は走ろうとしていました(She was trying to run)」と訳すこともできるでしょう。

 いずれ、この表現には様々な解釈の可能性があるということです。例えば、イエスさまが最後の息を引き取った時、イエスさまの間近にいた彼らは、信仰を言い表すようにして、「確かに、この男は神の子であろうとしていたのだ」と抑え気味の判断を下すこともできたでしょうし、あるいは混乱して「確かに、この男は神の子であったのだろうか」と疑問を口にすることもできたでしょう。もしかすると、彼らは冷笑しながら、「確かにこの男は、かつては神の子であった」と語ったのかもしれません。さらに言えば、嘲り見捨てた他の人たちと同じように、こう言っていた可能性もあります、「ハハハ、ほら、見てみろ。この男が神の子だったのさ!」と。

 そして何よりも問題となるのは、この告白が「神の子だった」と過去形で表現されていることです。とすれば、この告白にはこれから起こるイエスさまの復活がその視野には入っていなかったということになります。これはイエスさまの死の証言に留まるものです。そのことと関連するのですが、彼らの告白の中の「神の子」に定冠詞(英語のthe、「その」)がついていません。「神の子」は定冠詞なしでは、「神々の子」ないし「神の人」といった一般的な意味に留まり、明確なキリスト告白にはなりません。彼らはまだ、イエスさまが復活する前の「時」に属しているに過ぎず、使徒信条のように、復活し、神の右に座し、終末・完成の日に人の子として来られる方としてのキリスト、今も生きておられる神の子キリストとして、ここで告白しているわけではありません。

 しかしそうであっても、この告白が大変重要なものであることに変わりはありません。キリストの死は、闇だ、みじめさだ、幕が裂けた、と記したその時に、この方が誰であるかを口にした者があった、ということです。十字架の死の時に、この人が誰であるかが分かったということです。

 彼らは、イエスさまの処刑を執行する者として、正視に絶えない残酷な仕方で処刑され、「わが神、わが神」と大声で叫んで、絶望の内に死なれたイエスさまを目の当たりにしました。イエスさまがその苦しみの中でなお、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と神に呼びかけ、「幕が裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開い」た、そのことの中に、イエスさまと父なる神との確かな関係―失われることのない絆を感じ取ったのではないでしょうか。

 この人は、神の子として父である神との確かな関係を持ちつつ、苦しみ、絶望し、死んでいった、その人をわたしたちは無残にも処刑してしまった、これが彼らの告白の意味でしょう。そこには、深い後悔と共に、神の子の死によってこの世界は変わる、何か新しいことが始まるのではないか、という期待、希望が込められています。それが何かは、この時の彼らにははっきりとは分かりません。それでも、絶望と闇に閉ざされているこの世界の現実のただ中で、神の子が十字架にかかり、絶望を身に負って死んでくださったことによって、(ローマ軍の傭兵として自分のいのちを的(まと)にしながら生きるほかない、また駐屯するユダヤ人たちからは穢れた者として蔑まれ、疎まれる、そんな)わたしたちを覆っている絶望と闇を照らす一筋の光が、そこから差し込んで来た、そう感じ取っていたのではないでしょうか。

 いわば、「この人こそ」という切実な期待が込められた信仰告白です。

 今ここに記されるこの告白は、福音がより広く異邦世界に広まって行ったもう少し後の時代になって、百人隊長たちが、あるいは弟子たちがこのときのことを振り返りつつ、ああ、あの時、彼らが告白した言葉は不十分なものではあったがしかし、そこには確かに真実なものが秘められていた、真実を孕んでいた、と感謝をもって証言したものとして、ここに書き残されているのでしょう。

 

■見守っていた

 では、この十字架の下での信仰告白とは、本来、どのようなものであるべきなのでしょうか。それは、多くの人々の嘲りに抗い、それと対峙して主の傍らに立ち続けること、イエスさまの受難に深く心を痛め、心の内にこの苦しみを共に負うことでなければならないでしょう。そして事実、イエスさまの苦しみに心痛めつつ、愛のまなざしを十字架に注ぐ人々がいたことを、マタイは特別な思いをもってここに書き記します。55節から56節、

 「またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」

 「大勢の婦人たち」と一緒に、十字架の出来事を「遠くから見守っていた」「マグダラのマリアともう一人のマリア」は、この後、イエスさまの遺体を納めた「墓の方を向いて座」り(27:61)、さらに「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に…墓を見に行」きます(28:1)。二人の女性は、ただ遠くから見守っていただけでなく、イエスさまの墓まで出かけて行き、復活を告げる天使の言葉を聞くことになります。そればかりか、誰よりも先に、復活のイエスさまがその姿を示され、声を掛けられます。他でもないこの二人が、イエスさまを失って泣き悲しんでいた人々のところに走って帰り、その復活を告げ知らせることになりました。

 イエスさまの十字架の出来事における隠された主役は、もちろん、父なる神です。表に現れて来る主役は、子なるキリスト・イエスです。そして、その父なる神と子なるキリストに最も近いところで、終始変わらず、自分たちの在るべき場所に立ち続けていたのは、ペトロたち男性ではなく、女性たちでした。

 その女性たちが「見守っていた」とあります。この言葉は先ほども触れた未完了形です。継続を表します。イエスさまの死の一部始終を見守り続けていたということです。

 彼女たちが一体何を考え、どのような思いで見守り続けていたのか、わかりません。ただ、ここに最初に名前を記されているのは「マグダラのマリア」という女性です。ルカ福音書8章2節に、彼女は七つの悪霊を追い出してもらった女性として紹介されています。耐え難い苦しみと悲しみによって、心に深い傷、重い病を負っていた人かもしれません。同じくルカの7章37節以下に登場する「罪の女」もこのマリアのことではないかと言われます。いずれであれ、彼女は、絶望的な苦難のただ中から救い出され、溢れる感謝をイエスさまに捧げた人でした。彼女は、ここにいた女性たちすべてが抱いていたであろう、イエスさまへの感謝と愛を最も深く体現する人であったのかもしれません。

 そんな彼女たちが、「ガリラヤからイエスに従って来て世話をしてい」ました。どうしてそうすることになったのか、その事情は分かりませんが、このとき、彼女たちのだれもが、心の内から湧き上がるイエスさまへの愛を、またその愛するイエスさまを失った悲しみと痛みの絶叫を、その表情の上に表わしていたに違いありません。

 それとは対照的に、弟子としての召命の経緯をはっきりと記されているペトロやその兄弟たちは、イエスさまの死を見守る人々の中に、誰一人いません。女性たちだけが付き従っていました。しかし今、お世話をし続けてきたイエスさまが十字架の上にあります。手を出す術もない、もどかしい思いの中で、イエスさまを思う痛みに耐えながら、そのお姿をじっと見守り続けていました。残酷な死刑を見守ることは、それだけで勇気のいることです。その勇気をもって、イエスさまを見守っていた女性たちが、ここにいました。

 このことは、驚くべきことでした。福音書が書かれた頃の社会は、まったくの男性中心の社会でした。女性は人数を数える時にカウントさえされませんでした。聖書の中にも、女性に対する差別を反映する言葉が数多くあります。しかし同時に、そのような時代にあって福音書は、男と女の間に生まれる差別の壁を打ち破るものを持っていたとも言えます。それは、女にも同じ権利があると、男と争うように自己主張がなされることによってではなく、人々からは周辺に置かれている、いや、社会の外にさえ置かれていると思われる女性たちがまさにそこで、男性よりも確かに、神の恵みを受け止めるその場に立ち続けたということ、そこに示されます。彼女たちは見守り続けました。イエスさまの近くにい続けたのです。

 

■愛と祝福の十字架

 たとえ百人隊長たちの告白がイエスさまを嘲笑したのだったとしても、その中に確かな真実が秘められていたように、この女性たちがたとえ遠くにとどまって、そこから眺めるだけであったとしても、身に危険が及ぶ恐れに耐えていた彼女たちの真実さを、何よりもイエスさまへの深い愛を、そこに見ないわけにはいきません。

 十字架の死の恵みを語るところで、蔑まれていた異邦人の兵士たちが、そして虐げられていた女性たちが、かけがえのない存在としてここに登場し、記されているということ、これは、ただ差別され、虐げられている者たちだけでなく、わたしたちすべての者にとって、大きな救い、大きな恵みとなるものです。

 朝を迎えれば、陽の光が窓から差し込みます。光がいっぱいに輝いています。しかし、この世界はそれだけのものではありません。わたしたちが少しも気づいていない、忘れ去っているようなその世界の周辺に、その外に、抑圧されている人、年老いている人がいます。死にかかっている人、愛する者の死を悲しんでいる人がいます。飢え死にしそうな人がいます。苦しく辛い生活に耐えている人がいます。政治的弾圧や戦争によって、今も殺されている人がいます。

 キリストの十字架は、そのすべての人々に届いています。いえむしろ、そのような人々の傍らにこそ、十字架があります。そしてまた、光輝く太陽の輝きの中にもまた、主の十字架は立っています。一見輝きの中にあり、十字架の暗黒とは無縁と思える人々にも、十字架は届けられています。

 わたしたちがキリストの十字架の意味を語ろうとするとき、その十字架をごまかし、飾り立ててしまってはならないでしょう。そこに現れる、わたしたちの罪の醜さをごまかしてはなりません。しかしその一方で、それと同じように、このキリストの十字架がどんなにわたしたちを美しい神の愛と祝福の中に置いてくださったのか、このこともはっきりと知らなければなりません。わたしたちは自分自身を、もはや醜いものとして見ることはありません。どんなに人としての醜い姿が現れていても、その醜さが自分たちを決定するものではないからです。神の愛と祝福が、わたしたちを装ってくださるのです。それこそが、キリストの恵みであり、それこそが、わたしために、あなたのために真実の死を死んでくださった、キリストの愛であり、キリストの救いなのです。感謝して祈ります。