「思い悩む」という言葉が6回も繰り返される今朝の言葉は、いったい誰に向かって語られたものか。弟子たちでしょう。彼らは寝食も含め、師であるイエスと行動を共にしていました。家を離れて師に従い、各地を転々と旅して歩く。巡回伝道者の一行、そう言うと聞こえはいいのですが、実態はホームレスの集団です。貧しく食にも事欠く日々に耐えなくてはなりません。そのため、弟子入りに際しては、それまでの人間関係も含めて、すべてを捨てる覚悟が求められました。空腹を抱えて麦畑を横切り、星空を仰ぎながら野宿することもめずらしくなかったでしょう。直前24節の「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」もまた、天の父なる神に従う者となるために、地上の富を求めず、むしろそれを放棄することを弟子たちに求めるものです。イエスはこの教えに続けて、弟子たちに向かって「だから、言っておく」と語り始められます。
弟子たちは、すべてを棄てて、何の保障もなく、ただ父なる神からの助けにのみ支えられて、神の国の福音を宣べ伝えるイエスの後に従って行きました。当然「思い煩い」の日々であったでしょう。イエスはそんな弟子たちの姿を見つめながら今朝の言葉を語られました。とすれば、これは弟子たちへの厳しい叱責の言葉などではなく、日々思い悩むことの多い、貧しく困窮する弟子たちへの愛と慰めの言葉であったのでしょう。弟子たちは、空の鳥を指さすイエスの言葉に、造り主なる神の愛が身におし迫るのを覚えたに違いありません。
そもそも、この「思い悩む」には「心配する」「心を配る」という意味があり、元々は、自分の心を一つひとつに配分すること、向けることです。この言葉が、野の花の姿、空の鳥の生き方との関わりの中で語られています。空の鳥は種も蒔かず、刈り取ることも、倉に納めることもしない。また野の草花は働きもせず、紡ぎもしない。つまり鳥や花は、一つひとつの事柄について心を配ることをしていない。それでも草花は美しく咲き、鳥は空を飛び、そこに悩みも悲しみも見出せない。なぜか。それは、自分の命も体もすべてを、大地にあるいは大空に委ねているからです。イエスが「思い悩むな」と何度も言われたのは、心を一つひとつに配っているのは、神であって、あなたたちではない。だから、あなたたちはただ神にすべてを委ねなさい、そう言われているのでしょう。
事実、私たちにこの心を配ることが本当にできるかと問われれば、否と答えざるを得ません。これができるのは神だけで、私たちにできるのは、野の草花が揺るぎない信頼をもって大地に根を張り、陽にも雨にも風にもすべてを任せているように、また自由に飛ぶ鳥が大空という広い場所にすべてを委ねているように、思い悩みをすべて神に投げ入れ、神へ信頼をすることだけのようです。
逆に、私たちが思い悩むのは、自分の力で解決しようという思いが強く、神にすべてを委ねきれず、信頼しきれずにいるからだと言えるでしょう。自分の力で支えようとすれば、支え切れず倒れるだけです。自分の力で飛ぼうとすれば、疲れきってしまうだけです。私たちは自分の限界を知ることになるのでしょう。そしてそのとき、その向こうに大空のような広く大きな神が見えてこないでしょうか。そう思えたとき初めて「神への信頼」が生じ、これが実は、神の義と神の国を求めている姿でもあるのです。思い悩むのは私たちではなく、神のなさること。恵み、導き、祝福してくださるのは、私たちに対する神の心配りなのです。鳥は空で、野の花は大地で、身を委ねています。私たちも神から与えられた場所で、いのちの装いのままに、あるがままに生かされ生きたいものです。