福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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3月31日 ≪復活節第1主日/イースター「家族」礼拝≫『泣かないで』 ヨハネによる福音書 20章11~18節 沖村 裕史 牧師

3月31日 ≪復活節第1主日/イースター「家族」礼拝≫『泣かないで』 ヨハネによる福音書 20章11~18節 沖村 裕史 牧師

 

■消えた遺体

 先ほどお読みいただいた個所の直前、マリアが墓に到着してみると、入口の大きな石が取り除けられていた、とあります。マリアは、イエスさまとの想い出がにわかに手の届かない地平線の果てにまで遠のいたように感じられ、狼狽(ろうばい)し、急ぎ弟子たちにこの事態を知らせるために駈け出します。マリアからの知らせに驚いて、急いで飛び出した二人の弟子もただひたすら走ります。そして、墓の中に入った弟子たちが見たものは、イエスさまの体に巻かれていた亜麻布と頭に巻かれていた布切れでした。しかも、それがキチンと置かれていました。

 二人の弟子たちは「見て、信じた」と書かれています。「信じた」とは、イエスさまの復活を信じたということでしょう。しかし続けて「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」とあります。二人の理解は十分なものではなかったのだとか、実は信じていなかったのだと考える人もいますが、「聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」というこの言葉は、二人の弟子の復活に対する信仰が、旧約聖書の証しによって導かれたものではなく、直接的で体験的な目撃によるものであったことを強調しているのでしょう。いずれにせよ、二人の弟子はイエスさまの墓から立ち去ります。

 しかしマリアは違います。二人の弟子の後を追い、再びそっとイエスさまの墓に戻って来ます。盗まれたのであろうとなかろうと、イエスさまの体が失われたことに変りはありません。イエスさまの体がそこにあったからこそ、マリアの追憶もまた彼女の身近にありえたのです。想い出が、今もそこにあるもののように抱きしめる対象になったり、あるいは、未来に似て生きる支えになったりすることがあります。マリアはイエスさまの死の直後の空しさ、虚脱(きょだつ)から、その想い出にすがることによって立ち上がりかけていたのでした。ところが、その体がなくなってしまった。

 「あのお方の体は本当になくなってしまったのだろうか」、はかない望みをかけて、もう一度身をかがめて墓の中を覗(のぞ)き込みました。マリアが見詰めているのは、先の閉ざされた浅い横穴です。追憶と幻想の中で、過去がいかに美しく充実したものであったにせよ、それはあくまでも、どこまでも過去でしかありません。未来へと突き抜けて、その向こう側から爽やかないのちの風が吹いてくることなど決してない、行き止まりの横穴でしかありません。主であるイエスは、もはやそこにはない、おられないのです。

 

■泣いていた

 マリアは、墓の外で泣き続けました。「泣く」と訳されているこのギリシア語は、声を出して激しく泣く、という意味の言葉です。

 学者たちが言うように、この福音書を記したヨハネは、この泣き続けるマリアを直情的で愚かな存在として描いているのでしょうか。そもそも、それは批判されるべきことなのでしょうか。一人の愛する者が死んで、その墓から遺体まで取り去られてしまって見ることができない、その時、人は声をあげて泣かないでしょうか。それは人間として当然の、自然な感情で、イエスさまを愛し、尊敬していた者の偽らざる姿がそこにあるのではないでしょうか。

 マリアは、その自然な感情を隠しませんでした。反逆罪で殺された者の、埋葬直後の墓の前で、声をあげて泣くということがどんなに危険なことか…。そんなことを気に留める様子もなく、彼女は泣き続けています。その姿にわたしは深い感動さえ覚えます。イエスさまの十字架を前にして、また遺体の取り去られた墓を前にして、「これは神の計画に基づく救いの出来事だ、神が死を滅ぼしてくださった栄光の出来事だ」などと悟ったようなことを言う前に、あるいは、裏切り、逃げ回り、姿を隠してしまった弟子たちとは違って、ただただ墓の前にとどまり続け、声をあげて泣き続けるマリアの姿をこそ、その信仰の姿をこそ、見つめるべきではないでしょうか。

 

 戦後詩を牽引した日本を代表する女性詩人、茨木のり子の「汲(く)む」と題された詩をご紹介します。

  大人になるというのは
  すれっからしになることだと
  思いこんでいた少女の頃、
  立ち居振る舞いの美しい
  発音の正確な
  素敵な女の人と会いました

  そのひとは私の背伸びを見すかしたように
  なにげない話に言いました

  初々しさが大切なの
  人に対しても世の中に対しても
  人を人とも思わなくなったとき
  堕落が始まるのね 堕ちていくのを
  隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

  私はどきんとし
  そして深く悟りました

  大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
  ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
  失語症 なめらかでないしぐさ
  子供の悪態にさえ傷ついてしまう
  頼りない生牡蠣のような感受性
  それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
  年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
  外にむかってひらかれるのこそ難しい
  あらゆる仕事
  すべてのいい仕事の核には
  震える弱いアンテナが隠されている きっと

  わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
  たちかえり
  今もときどきその意味を
  ひっそりと汲むことがあるのです

  (詩集『おんなのことば』より)

 

 イエスさまの死、愛する者の死に、直情的な涙を流し、声を出して泣くマリア、遺体がなくなったことに戸惑い、うろたえ続けるマリア。その姿は決して否定されるべきものではありません。

 むしろ、何の動揺も見せず、声を出して泣きもせず、空の墓を「見て、信じた」という「もう一人の弟子」(20:8)に、違和感を覚えます。すべてを悟ったように描かれる「自称愛弟子」の姿に、違和感を覚えます。それが、宗教的な真理とかいうものを悟りきってしまった、「すれっからし」に見えてきます。「イエスは神の子だ。だから、イエスの死は人間としての肉的な死であるよりも、栄光の御国への凱旋である。それは救いの出来事であり、喜ばしい知らせである」。それが、二千年のキリスト教の歴史が正統的な教理としてうち立ててきた理解です。もちろん、その通りです。しかし、それをわけもなく悟りきってしまうことの方が愚かで、何より恐ろしいことのように思えます。「人を人とも思わなくなったとき、堕落が始まるのね」。それは、イエスさまとの出会いにおいても、同じことではないでしょうか。

 

■泣かないで

 今日の出来事の中に、「振り向く」という言葉が二回出てきます。「回心する」という意味も持つギリシア語です。ヨハネは、肉の思いにとらわれ続け、泣き続けるマリアを「回心しなければならない存在」として描きますが、この振り向くことの中にも、「震える弱いアンテナ」が見えてきます。

 空虚な墓を見て、冷静に、そして一足飛びに悟りきってしまうのではなく、 悲しみの出来事の中で、それを正直に悲しみ、うろたえ、嘆くマリア。その震える弱いアンテナが、振り向かせます。そして振り向いたところに、それがイエスさまとは分からなくとも、そこには確かにイエスさまが立っておられる。

 イースターの朝に起きたこの出来事は、そのことを告げているのではないでしょうか。

 ふと振り向くと、マリアは自分の背後に一人の男が立っていたことに気づきます。茫然としているマリアにその人の方から語りかけます。「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と。

 泣いているわけを尋ねられたのではありません。イエスさまは、マリアがなぜ泣いているのか、そのわけをよくご存じでした。しかし、今は泣くべき時ではなく、主が復活された喜ぶべき時。主は「なぜ泣いているのか」、泣いてはならないと言われた、ということです。

 そしてイエスさまは、「だれを捜しているのか」と続けられます。マリアが誰を捜しているのかも、よくよくご存じです。しかし実は、マリアは「だれ」かを捜していたのではなく、「何」かを捜していたのでした。マリアは死んだイエスさまの体を捜していて、今、すぐその傍らに生きておられるイエスさまを捜してはいなかったからです。

 大切なことは、イエスさまを過去のもとし、わたしたちの現実とは何の関係もないものとしてしまう、そんな力に抗(あらが)い、イエスさまが、今もここで、わたしたち一人ひとりと共に生きて、働いてくださっている、そのことに気づかされ、その事実を受け入れることです。今もここで働かれるイエスさま、その言葉によって、わたしたちが新しく生き始めるということです。それこそがイエスさまの復活でした。最後18節に「弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」と記されるマリアの姿にこそ、復活の真理があったのです。

 わたしたちもまた、マリアと共に、イエスさまに在る者として新しいいのちに生かされている、この喜びをかみしめましょう。そしてイエスさまがそうしてくださったように、わたしたちもまた、いついかなる時にも隣人に寄り添い生き、イエスさまへの信仰において、広い世界へと目を開き、希望と喜び、自由と平和を生きてまいりたいと願う次第です。