福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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3月6日 ≪受難節第1主日礼拝≫ 『さあ、一緒に!―聖餐(12)』コリントの信徒への手紙一10章14〜22節 沖村裕史 牧師

3月6日 ≪受難節第1主日礼拝≫ 『さあ、一緒に!―聖餐(12)』コリントの信徒への手紙一10章14〜22節 沖村裕史 牧師

≪説教≫

■コロナウィルスの中で

 ウィリアム・ウィリモン『日曜日の晩餐』も最後の10章となりました。一昨年の信徒研修会以降、中止せざるを得なかった聖餐式に代わって毎月一回続けて来た「聖餐」の学びも、今日で終わりとなります。

 最後となる今日のタイトルは、“Let’s Get Together”「さあ、一緒に集まろう!」です。最も大切なことは「一緒に集まる」こと。そう語るウィリモンの言葉は、コロナウィルスのためにこの二年間、礼拝を始めとするすべての教会活動を132日間にわたって中止し、今も聖餐式を再開できないでいるわたしたちの教会にとって、とても意義深いものです。中止に伴い、礼拝説教を記載した「からし種通信」と週報を郵送し、ホームページで礼拝動画の配信をずっと続けてきました。しかし、それはそれだけのことです。一緒に集まって、顔と顔を合わせ、互いに言葉を交わすことが、どれほど大切なことなのかを思い知らされました。「教会は交わりである」という言葉の本当の意味、「交わり」のないところに福音も、福音伝道も成り立たないことを実感させられました。

 今日は、その「交わり」としての「聖餐」Communionについて、ご一緒に学ぶことができればと願っています。

 

■一人で食べる

 それぞれがそれぞれのグラスを使う現在の聖餐式のやり方は、スコットランドの長老派から受け継いだものです。長老派の人々は、「主の晩餐」の食事を再現するために、聖餐に預かる人に一杯の葡萄酒と小さなパンを配り、会衆を食卓につかせ、食事の場面に見えるように、また食事と同じように味わえるように聖餐式を形作りました。また、ペッタンコな白く味のないウエハウスを用いる習慣は、傷も汚れもない聖なるキリストの体としてのパンを用いた、中世で熱心に行われていたやり方を継承したものです。時代を経るに従って、そのグラスもウエハウスもだんだん小さくなり、教会は食べ物なしの見せかけの食事をするようになりました。これに加え、20世紀初頭の病原菌に対する過剰な反応から、今日、多くの教会で「祝われている」ような、指ぬきサイズの控え目なグラスとほんの小さな味のないパンによる「交わり」聖餐になりました。それは、最初期のクリスチャンたちがイエスさまと共に食事をした、聖書に記されているあの経験からは遥かにかけ離れた、現代のごく一般の人から見ても、食事とはとても思えないものになってしまいました。

 ウィリモンは、その典型的な例を挙げます。

 二年前「ウエスト」という雑誌の中で、主の食卓で一人ひとりにそれぞれのカップを配るのは時間の浪費で厄介であると考えた人が、そのための製品を売り出したという記事を読んだ時、わたしは「もう充分です」と言わずにはおれませんでした。

 その人は、クラッカーのような丸いものをつめた真空の小袋と、2グラムのグレープジュースの袋を作りました。それは、使い捨ての、必要なものが入っている、すぐに提供できる主の食卓―いわば「これはあなたのためにパッケージになったわたしの体です」といったものです。

 …わたしたちは車で教会に駆けつけ、祈りを打ち込み、メールで献金をし、テレビで説教を聞き、パッケージの聖餐にあずかります。それはまさに、自給自足の「交わり」聖餐ではないでしょうか。今や、このパッケージされたユニットのおかげで、他の誰かと接触する必要も、触れられる必要もありません。

 これは、アメリカのお話というのではありません。コロナウィルス感染拡大の中で、聖餐式を守るための「良い方法」として、日本の少なからぬ教会が、「パッケージされたユニット」での聖餐式を採用しました。ウィリモンは、そんな聖餐を「一人で食べる」聖餐と呼び、警鐘を鳴らします。

 聖餐と交わりは、電子的で、パッケージされた教会のために捨て去られてしまいました。すべての人が家にいて、他の人に煩わされることなく自分のことをする、そんなバラバラな「教会」になってしまいました。

 

■分裂

 パウロの手紙によれば、コリントの人々もまた、バラバラに分裂していました(1:1-2)。同じ手紙の12章で、パウロが「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。…あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と言わなければならないほど、霊の賜物は「一致」よりもむしろ、「分裂」の源となっていました。パウロは、分裂の危機を回避するため、コリントの人々の目を主の食卓に向けさせようとします。

 パウロは、主の食卓と「悪魔の食卓」とを対比させます(10:21)。教会の分裂は、聖なる食事を堕落させてしまいました。何人かは食べ、酔っぱらうほどに飲んでいますが、他の人は飢えたままです。ただ一緒に集まって食べたとしても、それで主の晩餐を食べたことにはなりません(11:20)。パウロは彼らを告発します。普通の人のことに心を配らない人は、「主の体をわきまえ」ない者だ、と(11:29)。この「体」とは、教会、「キリストの体」のことです(cf.ローマ12章)。主の食卓で、それぞれがそれぞれのために食べることで、教会が求める一致を損なってしまっている。コリントの人々は、交わりとしての「主の食卓」を食べるよりもむしろ、利己的な「自分のための食事」を食べていたのです。彼らの利己的な食事は、主のあるべき食卓の交わりを冒涜し、嘲うものでした。

 わたしたちも、日曜日の朝を、自分と自分の願いのための個人的な時間だと思ってはいないでしょうか。各人それぞれにやってきて座席に座り、それぞれの思いで考え、それぞれに自分のパンを食べます。子どもたちのしゃべり声やオルガンの音の大きさや隣の誰かのささやきが、わたしの黙想を妨げると不満を言います。神との個人的な出会いは、それぞれの時で、それぞれの場所で持たれることになります。

 しかし日曜日の教会は本来、そのような時でも、そのような場でもありません。日曜日は「家族」の日です。共に集まる喜びの日であり、回心し、新しく造り直され、互いに出会い、また神に出会う日です。わたしたちは、孤立した個人主義から解放されて、「主の体」に繋がれます。思いがけず、ばらばらだった者たちが「家族」へと変えられます。わたしたちは立ち上がり、食卓の周りに集められ、親しい「家族」になります。

 日曜日の礼拝は「共同」の礼拝です。それがキリストの体を造ります。日曜日に、わたしたちは「個々の集まり」としてではなく、一つの思い、一つの言葉をもって祈る「キリストの体」として集まるのです。

 メソヂストの指導者、ジョン・ウェスレーが言ったように、「キリスト教は社会的宗教です。それを孤立したものに変えてしまうことはキリスト教を壊してしまうことです」。ウェスレーはこう言いたかったのではないでしょうか。

 「シャワーをしながら一人で歌うのは、それはそれでよいかもしれません。でも、ハレルヤコーラスの中で200人の歌声に合わせて歌うのには、かないませんよ」

 

■一緒に食べる

 今日、多くの家庭が破綻してしまっているのは、わたしたちが一緒に食べることをしなくなったからかもしれません。ウィリモンはこう語ります。

 もし、家族がテレビを見ながらの食事を続けたら、食事はオーブンレンジで料理した以上の物にはならないかもしれません。子どもが学校から帰ってきます。レンジの中にホットドッグを放り込みます。5分後、彼はバスケットボールの練習に出かけます。それから、お姉さんがバレーから帰ってきて、サンドイッチを取り出し、スイッチをパチンと押して、あっという間に図書館へ出ていきます。お母さんが仕事から帰ってきます。スープの缶を開けてレンジに入れ、それを食べてショッピングモールへと出かけます。お父さんが少し遅れて帰ってきて、ちょっと冷たくなった食事を食べ、テレビの前で一人、うたた寝をします。わたしたちの家庭に問題があるのは、不思議でも何でもありません。

 これは、20年ほど前に、日本でも言われていたことです。同じ時間に食卓に着いて、一緒に食事をすることがなくなりました。大皿に盛られた同じ食べ物をみんなで取り分けて食べるということもありません。当然そこに、家族団欒の語らいも、ましてや交わりと呼べるものなど何ひとつありません。

 そして、わたしたち人間の家族について言えることは、神の家族についても同じように言うことができます。食卓での親しい交わりがなくなれば、家族は分裂します。もうお気づきのことでしょう。親しい交わりを楽しみ、活気があり、よく奉仕し、親しみやすく、いつも成長している教会は、食事に多くの時間をかけています。教会員の数が多くなり、その輪が広がれば広がるほど、頻繁に食事をすることが必要になるからです。

 それと同じように、教会が頻繁に聖餐を持っていないとすれば、それはとても不幸なことです。時に、時間をとりすぎるから聖餐を頻繁に執り行うのは難しいと言われることがあります。しかし、教会が食卓を準備できないとすれば、また定期的に、互いの交わりを、またキリストとの交わりを持つことができないとすれば、教会は教会ではなくなります。

 教会は聖餐にあずかる方法を適切に整えることができるはずです。ウィリモンは、こんな提案をしています。

 「主の食卓に来なさい」と、人々をシンプルに食卓に招きましょう。詳しい説明や仰々しい案内はいりません。人々が前に進み出てくる時や聖餐の間は賛美を控えます。むしろ聖餐の前後に、会衆全体で聖餐の讃美歌を歌う方が良いでしょう。順番に出て来る必要もありません。信徒奉仕者が、パンとぶどう酒を配るときに牧師を助けます。

 大きなパンや大きなカップは、キリストにあってわたしたちが分かち合う、一致の良いシンボルとなります。パンは手の上に置くことが大切です。そのとき、配る人は受け取る人の目を見ます。できることなら、その人の名前で呼びかけます。「○○さん!キリストの体をあなたに与えます」と。

 「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」とパウロはコリントの人々に語りました(10:17)。言い換えれば、この食事でキリストを思い出すとき、わたしたちは、自分がキリストの体であることをremember「思い出す」、re-member「再び、教会の一員になる」ということです。わたしたちは、バラバラになってしまった痛々しい体をつなぎ合わせて、元に戻すことができるのです。初期のクリスチャンの祈りの一つに、こうあります。

 ちょうど一塊のパンが小麦粉のたくさんのバラバラの穀物からできているように、一つの教会は多くのキリストに従うバラバラの人々で作られる。

 

■和解の食事

 最初期の頃から、主の食卓は和解の食事と見做されていました。ちょうど、国家の祝宴が二つの国民間の条約を批准するように、主の食卓は、神との和解と再結合を批准し、確認します。いわば新しい契約の食事です。神と人とのこの和解によって、わたしたちは人と、そして自分自身とも和解することができるようになります。

 わたしがこの教会に着任して、歓迎の愛餐会をしていただいた時のことを思い出します。ある方から、「先生はなぜ、牧師になろうと思ったのですか」と尋ねられました。わたしはこうお答えをしました。

 「ひとつは、教会が神の国と信じることができたからです。初めて教会に行くようになった時、一番驚いたのは、毎週、礼拝の後に持たれていた愛餐会の様子でした。大人もこどもも、男も女も、体が不自由な人もそうでない人も、どんな仕事や地位に就いているかも全く関係なく、実に楽しく、わいわいがやがやと食事をし、談笑しておられるのです。その時まで、そんな光景を見たことなどありませんでした。わたしがそれまで知っていた宴会は、男たちが食べ、女たちが給仕をし、お酒の酔いが回って来た男たちが自分の小さなプライドを振りかざし、小競り合いが始まる、醜いものでした。この世に、こんなところがあるのか。心からそう思い感動しました。それこそ神の国だと思ったのは、それからしばらく経ってからです。

 もうひとつは、YMCAで出会ったひとりの青年が自殺をしたことです。その青年に寄り添うことができなかった、しっかりと向き合うことができなかった自分を責めました。その罪を背負い続けていたわたしが、その罪の赦しを、教会のたくさんの方との交わりの中で知り、味わうことができました。それこそ福音に触れたということでしょう。その福音に招かれたということでしょうか」

 わたしたちが自分たちの罪と格闘するときに、教会の共同体としての交わりは大きな支えとなります。キリストの体とは、孤立した信者の寄せ集めではありません。罪と死と戦う交わりのことです。一緒に、わたしたちは成長します。一緒に、わたしたちは忠告し合い、互いに励まし合い、たった一人ではできないことを群れとして成し遂げるのです。

 キリストの体においてのみ、わたしたちは「互いの重荷を負う」(ガラテヤ6:2)ことができます。創造の始まりに、造り主がわたしたちを社会的な存在として造られたという言葉が稲妻のように轟きます。「人は一人でいるのは良くない」(創世記2:18a)。一人でやろうとすることは、互いに依存し合い、信頼し合っていることを否定する、自己満足の罪の行いとなってしまいます。

このコイノニア、この交わりの全きシンボルこそ、聖餐です。
 
 パンと葡萄酒は神からの賜物です。しかしそれらはまた、人間が共に働いて作り上げたものでもあります。あなたの食卓の上にパンを置いてくれた、すべての働き手に感謝しましょう。誰かが聖餐であなたにパンを渡し、パンを誰かと分かち合うとき、まさにそのとき、あなたは、一瞬にして福音の秘儀の核心に出会うのです。一人でいるのは良くありません。だから神は、わたしたちを一緒にされたのです。二人、三人と集まるとき、そこにわたしたちの神もおられるのです。