≪説教≫
■愛の神の子
マルコによる福音書の特徴は結末にあります。最後16章9節以下の箇所が括弧で括られているのは、それが後の時代に付け加えられたものであることを示しています。他の福音書がそれぞれに復活の出来事を印象深く書き留めているのに対して、マルコによる福音書は復活に何ひとつ触れません。復活は仄めかされるだけで、十字架で終わっています。十字架こそがこの福音書のクライマックスであり、最も伝えたいことだということです。
このことから、最後の十字架の出来事まで読み終わって、もう一度振り返ってみたときに初めて、一つひとつの事柄の本当の意味が分かるように書かれた福音書だ、と言われます。この福音書が「イエス・キリストの福音」を洗礼(バプテスマ)の場面から描き始めているのも、単にそれが歴史的事実であったからというのではありません。イエスさまの洗礼のときに一瞬垣間見えたこと、密やかに聞こえてきたことを、十字架の出来事からもう一度読み直すことを、わたしたちは期待され、また求められています。
では、イエスさまの洗礼のときに垣間見え、密やかに聞こえてきたこととは何だったか。ここに、天が裂け、聖霊が鳩のようにくだり、天から「あなたはわたしの愛する子」というみ声が聞こえてきた、と記されています。
「あなたはわたしの愛する子」
聖霊と共に宣言されたこの言葉が、最初のこの洗礼の時にも、中ほどの山上の変容の時にも、そして最後の十字架の時にも記されています。神様が愛の神であること、そしてイエスさまが父なる神に愛される神のひとり子であり、わたしたちに父なる神の愛を注ぎいでくださり、その愛に生きることの幸いを教えるために来られたお方であるということが、繰り返し、繰り返しわたしたちに示され明かされます。この福音書がわたしたちに語っていることは、そのことでした。
ところが、イエスさまのもとに押し寄せていた群衆も、また弟子たちでさえ、イエスさまのみ言葉とみ業に直に接しながら、イエスさまを信じることができず、その真実の姿に気づくこともありませんでした。そしてついには、愛そのものである神様のひとり子であるイエスさまを、どこまでも愛し抜いてくださるイエスさまを、人々は、そしてわたしたちは、十字架につけてしまいました。
なぜか。なぜ、わたしたちは愛の神の子を殺してしまったのでしょうか。
■その人こそがまことの愛のお方
今日は棕櫚の主日。イエスさまが、十字架につけられることになるエルサレムへと到着し、沿道に敷き詰められた棕櫚の葉の上を、人々の歓呼の声の中に入城された、そのことを記念する日です。「ホサナ―主に栄光あれ」という勝利を賛美する、凱旋の声に包まれるイエスさまの姿はしかし、奇妙なものでした。勝利者らしく、たくましい馬に跨って威風堂々と進んで来たというのではありません。地面に足がつきそうなほどの小さな驢馬に乗って、とぼとぼと、いかにも頼りない格好で、人々の歓呼の声の中を進み行かれます。まるで、痩せこけた馬ロシナンテに跨り、従者サンチョ・パンサを引きつれて遍歴の旅に出かけたドンキホーテのように、イエスさまの姿は、とても滑稽なものでした。
しかし、滑稽と見えるその人こそが救い主、まことの愛のお方でした。
その滑稽な姿を冷ややか見ていた人たちがいました。彼らは心ひそかに嘲笑っていました。「驢馬に跨ってやってきた、あのみすぼらしい男が、救い主であるはずがない、その正体を白日のもとにさらしだし、歓呼の声を上げている人々の目を覚ましてやろう」。律法学者やファリサイ派、祭司長たちです。
彼らのもくろみは成功し、イエスさまは、衣服をはぎ取られて裸にされ、その上に赤いマントを着せられ、いばらの冠を頭にかぶり、右手に葦の棒をもたせられて、「ユダヤ人の王、万歳」という歓呼の声の中を歩まされました。栄光をたたえるその声は、エルサレムに入られるときとは全く異なる、嘲りと侮蔑以外の何ものでもありません。
ゴルゴダの丘へと引かれて行くイエスさまにぶどう酒が差し出されます。それは、当時しばしばなされていたように、罪人に与えられる気つけ薬でした。十字架の上で受ける槍の痛みがもっと強いものとなるように、という悪意から与えられるものでした。「ユダヤ人の王」という罪状がイエスさまの首にかけられ、二人の強盗と同じところへ引き出されます。それは、まことの王だ、救い主だとあなたたちが信じたこの人は、ただの強盗と同じ者だ、ということを意味していました。これらすべてことが、嘲りと侮蔑以外の何ものでもありません。
しかし、嘲りと蔑みに包まれたその人こそが救い主、まことの愛のお方でした。
イエスさまのみじめで、弱々しい、無力なその姿を見た人々は、期待が大きかっただけにその失望も大きく、祭司長たちと一緒になって、イエスさまに嘲笑と侮蔑の言葉を投げつけます。
「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」
「他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」
この言葉にハッとさせられます。神様が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われた、その言葉を嘲笑し、否定する言葉そのものだからです。
しかし、罵倒、嘲笑、侮蔑に満ちたこれらの言葉を投げつけているのは、イエスさまを歓呼して迎えて人たちであり、そしてわたしたち自身だと思わざるを得ません。自分のことをさておいて、他人のことを愛し、他人のために祈り、他人のために持っているものをすべて差し出す人を、わたしたちは愚かな人だと考える、そんな世界に生きています。他人の借金の保証人になって財産を失ってしまった人を同情はしても、心の中では、なんてお人好しだろう、と呟いています。海でおぼれかけている人を助けようとして死にでもすれば、運が悪かったねと言いながら、一人で助けようとしたその人が愚かなのだ、と思ってはいないでしょうか。路上生活をしているけども立ち直るために故郷に帰るお金がないから貸して欲しいという人に、その度、大切なお金と時間を費やす人をいい人だねと言いながら、でも戻ってくることのないお金と時間をそんなに使うなんて信じられない、と馬鹿にしてはいないでしょうか。
自分を救わず、他人を救う人を、他人のために、自分のことを犠牲とすることのできる人のことを、わたしたちは愚かな人だと言って嘲り、そのことで苦しんだり困ったりでもすれば、蔑むことさえするでしょう。
しかし、自分を救わず、他人を救う愚かなその人こそが救い主、まことの愛のお方でした。
最初の洗礼のときに、そして最後の十字架のときに、わたしたちにはっきりと示されたこと、それは、神様が愛のお方であり、その独り子イエスさまこそ、愛の主であるということでした。しかし、その神様の愛は、イエスさまの愛は、わたしたちにとって理解しがたく、受け入れがたく、実に驚くべき愛でした。
■嫉妬するほどの愛
その愛を、その愛によって生かされる幸いを味わい知るようにと、聖書はわたしたちにこんな言葉を伝えています。
「わたしは熱情の神である」
出エシプト記のこの言葉(20:5)を、以前の口語訳聖書は「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である」と訳し、文語訳聖書には「我エホバ、汝の神は嫉(そね)む神なれば」とあります。妬(ねた)む神、嫉(そね)む神です。愛の神様が嫉み妬む、つまり「嫉妬する」とは、身震いがしてくるようです。愛の神とはいえ、それが妬み嫉む神とは怖すぎはしないでしょうか。
しかし聖書は、神様はご自分以外に関心を持とうとするわたしたちを容赦なく妬まれる、と語ります。ご自分以外に目を注ぐ人間を許されません。「わたしを否むものには、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」お方です(出20:5)。これは、わたしたちが抱いている愛の神様のイメージとはずいぶんと異なります。愛の神様はもっと度量が大きくて、わたしたちが他のものに惑わされ迷っても、寛容なお方ではないのか…。そう思うでしょう。
この世の愛には、陰湿な部分がつきまといます。愛は相手を取り尽くし、独占するまで容赦しない性格をも持ち合わせています。傷つけ合い、いのちを奪うことさえあります。きれいごとでは済まされない深い闇があることを、わたしたちは知っています。それで、この世の愛憎関係が持つこの陰湿さを、わたしたちは神様との関係から除外しようとします。わたしたちは、この世の妬みに疲れ、せめて神様との間にだけは、理想の関係を夢見ているのかもしれません。そして、わたしたちがどんなに浮気しても怒らない、都合のいい神様を作り上げたいだけなのかもしれません。
しかし、わたしたちが浮気しても怒らない神様、怒ることも放棄する神様とは、一体何者でしょうか。わたしたちが神様以外のことに関心を持っても、「それもあなたの決めたこと。仕方ないですね」と静かに答える神様とは、一体何者なのでしょうか。それは実は、わたしたちのことに全く無関心な神様だということではないのでしょうか。
嫉妬、それは屈折した愛の確認かもしれません。これ以外の手段で、わたしたちは相手の愛を本当に確認できるのでしょうか。妬みや怒りを次元の低い愛だと笑うこともできます。しかし、妬みや怒りをはっきりと示せない愛は、果たして真実なものなのでしょうか。
わたしたちは妬みを感じても、それを面に出さないように努めます。妬んで取り乱す姿を、誰にも見られたくないからです。プライドが、わたしたちの正直な気持ちにいつも待ったをかけます。それは、その妬みの感情が相手を傷つけるからではなくて、ただ、髪振り乱して嫉妬する自分の体裁が悪いからです。妬むほどの愛を露わにして、周囲から「愚かしい」と評価を受けるよりは、自分のプライドを守りたい。相手を愛していると思いながら、結局は、自分が一番かわいいのです。
逆を言えば、妬みとは、相手を独占しようとする愛の表現でありながら、同時に、自分のプライドを、自己を捨てる行為でもあるということです。それは、取り繕った自分の仮面を打ち砕く、激しく、厳しい謙虚さとも言えるのではないでしょうか。
■愚かな愛の主
神様の愛は、その人を独占するまであきらめない愛です。わたしだけを見て、と髪振り乱してすがりつく愛です。復活したイエスさまはペトロに、他の誰よりも自分を愛してくれるか、と三度も繰り返し尋ねました(ヨハネ21:15以下)。イエスさまは真っ直ぐにしか愛を語られません。九十九匹の羊を残し、一匹の羊としてのわたしたちをどこまでも追いかけられる愛です(マタイ18:10以下)。嫉妬深く何度も愛を確認されるのです。聞かれるほうが悲しくなるまで、混乱するまで、問いかけられるのです。「わたしは嫉妬するほどまでにあなたを愛する神。あなたはそんなわたしを愛してくれますか」と。
そこまで自分を捨てて愛してくれる人がいるのでしょうか。愛していると言いながらも、最後には自分の体裁を気にする人間の世で、妬みを隠そうとする仮面の世界で、自らの死を超えてまで、「わたしのことを愛してくれますか」と何度も聞いてくれる人がいるでしょうか。
聖書はそんなお方がいると語ります。十字架で示された、滑稽に見える、嘲りと蔑みに包まれた、自分ではなく人を救う愚かな愛の主、それこそが神様であり、イエスさまでした。
それほどまでに愛されているわたしたちです。であればこそ、わたしたちがそれに相応しいから愛され、相応しくないから愛されないということなどありえません。わたしたちはただ一方的に、神様から愛されています。
どのような人であっても、人生の中で絶望したり、悲しみに泣きはらしたり、といった経験をしたことがおありでしょう。それは、避けて通れない、愛する者との別れであったり、重い病気であったり、しょうがいであったり、人間関係のもつれであったり、進学や就職や事業での失敗など、人、様々です。
しかしそのようなときに、それでも「わたしはあなたを愛している」という神様のみ声が途絶えることはありません。
何という恵み、何という喜びでしょう。
わたしたちの生きるこの世界は、生きるに相応しい、愛される価値があることを自らが証明するように、いつも求められる世界です。すべてが自分の責任で、自分の力で何事かを成し遂げることが求められる世界です。そこでは、人よりも優れていること、人よりたくさんのものを持つこと、人より先んずること、人より上に立つこと、人より力があることが求められます。そして、そうできなければ、愛される価値のないものとして片隅に追いやられます。
もちろん、キャリアを築きたいという願い、成功と評判への期待、有名になりたいという夢、それらが軽蔑すべきものというのではありません。そうした野心が、神様に愛されている者としての生活に反するというのでもありません。ただ、大切なことは、この世を離れることでも、わたしたちの野心や向上心を否定することでも、お金や名声や成功を軽蔑することでもなく、わたしたちに与えられている真理、神様がわたしたちを愛してくださっているという真理を受け止めることです。
そうするとき、わたしたちは、身近にある自然の、あるがままの美しさを、神様に愛されているしるしとして感謝の思いで受け取ることができるでしょう。
そうするとき、わたしたちは、自分に与えられる様々な贈り物を、試練をも受け入れて、わたしたちの人生を、祝福すべきものとして受け入れることができるようになるでしょう。